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28 狼に口づけを⓷
どちらを選ぶかは柚希の想いを尊重しようと、最後の最後で和哉は腹を括ったのだ。
昨日は柚希にヒートを一時的に弱める注射薬を投入後は晶と共に強い抑制剤を服用していたから、和哉は副作用の頭痛の強い波に何度か襲われていた。しかしどうしても眠るのが惜しくて一晩中、飽かずに柚希の寝顔を見つめていた。
昔のように添い寝して傍らで過ごせば、時折苦し気に呻く兄を抱きしめてやると呼吸が整い、和哉の頭痛も遠のいて、不思議と穏やかな気持ちになれた。兄の女性ほど柔らかくはないが自分とは違い嫋やかさをはらむ白い身体に口づけ、この時がずっと続けばいいとすら思った。
空調が静かな二人きりのホテルの一室。見下ろせば星々には劣るが輝くビル群の夜景が見える。ふと見渡せるだけでも沢山の人が息づき暮らしているというのに、どうして和哉には柚希でないとならないのか。
結局どうして柚希でないと駄目なのかなんて考えても答えはでないだろう。
ただもう、和哉にとって柚希を愛している気持ちだけが、幼いころから何度も何度もぴかぴかに拭き上げた、たった一つの宝物なのだから。
手放すには愛着が湧き過ぎて、そのあと自分がどうなってしまうのか和哉自身も分からない。
「柚希……。答えて」
温かいというよりも内側に炎が赤々と燃えているように熱い兄の身体を今一度強く抱きしめた。
いつまでもこうしていたいけれど、ついにこの時が来てしまった。
和哉は爪を立て痛い程腕を掴んでくる兄の指先を後ろから掌に包んで、やわやわと揉み摩る。徐々にほろりと力を抜いたその白い手を持ち上げ、和哉は初めてであった頃から特別なその手を自分の頬に充てて温みを味わった。
(もう二度と、この手に触れられなくなるかもしれない。それでも……)
「和哉?」
「どちらを選んでもいいよ。覚悟してる。でも。もしも先輩を選ぶなら……。僕は柚希の前から永遠に、去ろうと思ってる」
「カズ……!」
心の底から欲し、共に生きていくことを望んだ最愛の人をもう一度『兄』と呼び、純粋に慕うことはできないだろう。
永遠に、去る。それだけは嘘偽りない、覚悟を決めた言葉だった。
柚希を得ることができぬのならば、今までしてきた努力も思いも水泡とかす。他の男のものになる柚希をこのまま近くで見守ることができる程、和哉は老成してはいなかったから、和哉はその我儘だけは自分に許そうと思った。
「ずっと柚希を護ってあげるって言った約束、破ってしまうけど……。ごめんね。兄さん」
柚希をけして離すまいと筋が浮くほど力を込めて抱いていた腕から、魔法が溶けるように和哉はふっと力を抜く。背中から柚希の全てを包み込んでいた身体の重みが外れ、逞しく頼りがいのある身体が離される。
「僕が幸せにしてあげたかった」
「かず……」
柚希はこれ以上ない程目を見開くと、和哉の腕から離され寒々しさを感じる裸の我が身を掻き抱いて蹲る。
(かずや、永遠に? さる? 俺の前から?)
自分の身体がいまどんな風になっているのかも分からないほど、ぐらぐらとその存在が揺らぎ、翳した自分の手の先も見えるのほどの射干玉の闇の中に突き落とされたような、そんな恐怖。
(俺も……、おれも? ひとりになる?)
柚希の脳裏に天涯孤独の身の上でやっと巡り合った番に死に別れた、母が自分では抑えられぬ淫欲にまみれ、しかしそれと戦いながら床を転がり周り、半狂乱になって苦しむ姿がまざまざと蘇った。
それはまだ発情期の意味も知らぬ幼い柚希にとっては母が地獄の獄卒にでも攻め苛まれているような怖ろしい記憶として封じられていたこと。
それが今急に蘇って柚希はこれまで和哉も聞いたこともないような甲高い悲鳴を上げて泣き叫ぶ。
その、ずたずたに四肢を切り刻まれているかのような戦慄する咆哮は、電波を通じて扉の前で祈る晶をも貫いた。
『柚希?!! 大丈夫か??!」
「かずっ……。かずやぁああ!!!」
身をよじって後ろに振りかえり弟の逞しい首に腕を回して縋り付く。
瞬間的に和哉を捉えるように強く甘く狂おしく薫る柚希の芳香に、和哉は身体が傾ぐほどの眩暈を覚える。揺らいだ身体を身体ごと体当りする様に力強く抱き止めたのは柚希だった。
しかし意図せずに首筋に充てた鼻先に魅惑的な甘い香りを容赦なく吸い込んでしまい、同時に腹の奥に沸き起こる飢餓感がαの本能を掻き立てる。
(噛みたい! 噛みたい! 噛みたい!!!)
衝動的に柚希の後頭部を押さえつけた和哉は、だが何とか昨日のように兄を貪らずに堪え、自分の手の甲に歯形がつくほど噛みついてぎんっと目元に力を込めて渾身の力で兄を突き飛ばした。
柚希は力なく狼のように四つん這いに寝台に伏せ、そののち手の甲がぶるぶると震えるほどにシーツを拳に握りこんで首を上げる。
「だ、駄目!! だめだ……。いや、嫌だ……」
真っ赤になった瞳は妖気すら帯び、涙をぽろぽろと零しながらも容赦なく誘引の香りを立ち昇らせて、立ちあがろうとしていた和哉の身動きすらとどめてしまう。
「柚希……」
「だめ、いかないで。俺を一人にしないで。和哉がいないんじゃ、意味ない……。そんなの駄目、だめ」
『柚希??』
小さくだめ、だめと繰り返して嫌々をする柚希が哀れで、和哉はもうどうなってもいいと思いながら柚希を再びわが胸に引き寄せて、涙にぬれる目元に口づけあやす。
和哉は兄の弱弱しくもどこか艶美な姿に打たれ早くも『永遠に、去る』宣言を揺るがされるが、しかしここが正念場と兄の少し小さめの貝殻のような耳元に抜け目なく吹き込んだ。
「それは……、僕を選んでくれるってことで、いいよね?」
身動きした和哉から零れる悩ましくも甘い香りに鼻先をつけて、しきりにくんっと香りを追う柚希の姿は稚く、頭を筋肉質な二の腕に抱かれてうっとりと弟を見上げる貌は今まで見た柚希の色々な表情の中でもっとも妖しいまでの艶めかしさに濡れていた。
「いい香り……。甘くて、金木犀みたい。落ち着く……」
「柚希。ねえ?」
柚希はぼんやりとどこか夢見心地の瞳のまま、今度は和哉の左手を自ら手に取り、色白の頬にぎゅっと押し付けた。
「カズ。お前こそ……、こんな狡い俺でもいいの?」
「ずるい?」
和哉が柚希を称して『狡い』といったことに対する意趣返しにしてはタイミングがおかしい。少しずつ発情にのまれてふうふうと荒い息をつき始める柚希と心を通わせてから番になりたかった。
「ずるくても、いいよ。僕はもう、小さなカズくんじゃないから。柚希の綺麗なところも、哀しいところも、弱いところも、汚いところだって……。全部、きちんと受け止めてあげる」
和哉もふうっと息をついて、もう流れに身を任せることを厭わなかった。その代わり、兄として和哉の前ではずっと出会ったころのままの豪放磊落で、明るくて、綺麗な柚希の振りをしないで欲しいとも思った。
「兄さんがいろいろとしょうがない人だってことも、僕は分かっているつもりだよ?」
煮え切らぬ柚希に結局は最後まで粘り強く答えを待ち続ける。
和哉のフェロモンに陰茎が刺激され、裸の身体では隠しようがなくもじもじとしながら、柚希はまだ近くにあるスマホをちらりと目線をやると、和哉はうなずいてそれを取り柚希の耳元まで押し当てた。
「晶……。今までありがとう。俺なんかを好きになってくれて、ごめん」
晶からの返事はなく、代わりに扉があく金属音がしてからすぐに閉ざされ、そして通話も途切れたのだった。
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