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番外編 ありがとう、おめでとう、よろしくね その6 Xmas
かつて柚希に付き合おうと提案をしてくれたあの時とはまるで違う。余裕も日頃の怜悧さも捨て去った、ただ素朴な言葉を一直線に柚希にぶつけ、柚希は真正面からそれを受け止め心が身体ごとよろけた。
親しんだ晶の腕がそんな柚希の細い身体を受け止め、そして離さない。
「晶……、俺もう」
この場を立ち去らねばと思うが寒さで強張った身体を思うように動かせない。頭の中にこちらに向かってきているであろう、愛する和哉の顔がちらついて、でも目の前にある縋るような瞳でこちらを見つめてくる晶をとても無下にできぬ自分がいることも自覚する。
その熱くも切ない眼差しに、柚希の中に残った晶との恋の残り香りが再びくゆる心地になった。
近くでまた弾けるような若い女性の歓声とフラッシュの焚かれる光が立て続けに弾ける。ややあって。晶が重々しく口を開いた。
「……海外への転勤が決まったんだ。年が変わったら早々に、あちらへ赴任する」
「え……」
寝耳に水、の告白に思わず柚希は自分を掴む晶の腕を掴み返してまじまじとその顔を見上げた。
「長いの?」
「多分、いったら数年は戻れないとはいわれてる。……元々打診されていたんだが、いままでは断っていた」
「……」
断っていた原因は、自分との交際なのかもしれないと柚希は思い至らざるを得ない。そこに晶が柚希に隠していた何かしらの葛藤を透かし見て胸がチクリと痛んだ。
「本音を言えば柚希に俺と番になって、赴任先についてきて欲しいと思っていたんだ。これまでみたいに二人で、共に同じ人生を歩みたかった。柚希が今の仕事も職場も家族も大切に想っていることは俺もよく知っている。柚希がやっと手に入れた居場所を失わせて、無理を通すのも良くないと……。それもあって、俺の中にずっと迷いがあって……。結局俺は大切なものを失った。これを機に、海外勤務をうけることにしたんだ。仕事の上ではチャンスに当たるからな」
(これを機に……)
そう言って笑った顔は、吹っ切れているとはとても言えない、複雑な表情で、初めて柚希にみせた晶の弱弱しい部分だった。
「ごめんなさい……」
「謝ることじゃない。……だが、ホテルのあれは応えたな。夜思うように眠れなくなって、俺の何が悪かったのか何度も考えた」
「何も悪くないよ。俺のせいだから。……晶、痩せたね」
「分かるのか、恥ずかしいな。食事だけはどんなに体調悪くても食べられないなんてことは今までなかったんだが……。こうして顔を見ながらふられたわけじゃないから、俺の中ではずっと、おまえへの思いが燻ったままで、……正直な話、この2ヶ月が人生で一番辛かった」
日頃隙のない男の弱り切った姿というのは、それなりに色気を醸し出すものなのかもしれない。柚希は番以外の男と近づいているというざわざわとした感覚を逆に心がまだ揺れている感覚ととらえて息もできぬほどの胸の苦しさに喘ぐ。
「晶……」
「減点法でなく、加点法でお前に愛されて、迷いなく選ばれたかったな?」
図星を刺されなお、柚希は下唇が白くなるほど噛みしめて涙が滲んだ瞳を晶から反らせない。
和哉が去る、という大きなマイナスから愛する相手を選ぶのではなく、どちらの男とより共にこれからの日々を過ごしたいかというプラスの部分で晶は選ばれたかった。
ぼろぼろっとこらえきれずに涙を零す柚希の冷たく湿った頬を、晶は黒革の手袋を外して指先で拭ってやった。温かな感触に無意識に頬を寄せた柚希の仕草に晶の胸にも込み上げるものがある。
「すまない。泣かせるつもりはなかった。未練たらしく恋人に縋る男なんてどうかしているって俺も今までは思っていた。……まさかこんなふうに自分がなるとはな、みっともなくて恥ずかしい男ですまん」
「いや。みっともなくなんて、あるもんかよ。……晶は昔から、ずっと、優しくてかっこよかったよ。バスケもさ、俺の立てた作戦もすぐに理解して行動に移してくれる、自慢のチームメイトだった」
「そうか、ありがとう。俺もあの頃からずっと柚希に恋していた」
「え……」
「やっぱり気がついてなかったか? 俺は柚希がβだって主張してた頃から、ずっと柚希が好きだった」
「ごめん……。それ全然気がつかなかった。新年会でさ、俺があまりに哀っぽかったからさ、付き合ってくれたんだって思ってた。だってそうだろ? お前は高校生の頃からαって判定受けてて、女の子にすごくモテてたし、むしろそのへん羨ましいぐらいだったし」
どこまでも鈍感で、しかし酷く残酷な恋人は、やはり晶の長い長い片思いには気がついていなかったようだ。晶はまた寂し気に、しかし少し呆れたように吐息をついてから少しだけ心穏やかに昔語りをはじめた。
「コートを元気よく駆けまわって、みんなを励ます柚希にずっと憧れていた。眩しかったよ。あの頃の柚希は本当に。俺は……。学生時代は口下手で身体も大きいし顔も強面だから、同級生から遠巻きにされがちで……。一つ年上の柚希たちの学年と同じチームに入ってからも生意気だって言われて浮きかけてた。それを柚希が仲間に引き込んでくれて、嬉しかった」
「それは晶があまりにも完璧すぎて……。みんなは気後れしていたんだと思うよ」
「そんなことないさ。柚希、沢山遊びにも連れてってくれたよな? プロチームの試合も一緒に見に行ったし、ゲーセンも、食べ放題で腹が痛くなるほど肉食ったり……。馬鹿やって騒いで、それがすごく楽しかったよ。柚希が人との付き合い方を教えてくれたから、同じ学年にも友達がたくさんできたんだ」
「そんな風に思ってくれてたんだ。ありがとう」
「だけど柚希は人気者で、年上のβの男で、彼女もいて……。俺はその時も自分の迷いを踏み越えられなかったんだ。あの頃の俺はただ、自分の初恋一つままならない子供だった。……結局、今も成長してないな」
(今の感性を持ってあの頃に戻れたら、もっと自分に自信をもって、もっともっと柚希に近づくことができたんだろうか。あの頃、一番柚希の近くにいられた高校時代に戻れたならば)
しかし柚希の真っ白な首筋に刻まれた消えぬ誓いの痕に目を移して、それはいまさら考えても仕方のないことだとやや項垂れて自重する。
今だからこそこれほど素直に話せることに、二人ともむしろ別れの気配を色濃く感じ始めた。
「晶、聞いて」
柚希は自分を奮い立たせるようにぎゅっと両手の拳を握りしめて、涙を振り切るように袖でごしっと瞳を擦る。
撥水性の良い上着は涙を弾いて落とし、不安を打ち消すように闇夜にそれを溶け込ませた。
「ごめん。晶のことを嫌いになったわけじゃない。お前は本当に、俺にはもったいない、すごくいい男だって知ってる。……この台詞、月並みで俺でもムカつくけど、本当にそうとしか言えない。きっと俺はお前と番っても幸せに暮らしていけたと思う。でもさ、さっき言ったのは和哉と離れることが大きな減点になるから和哉を選んだって思われてるってことだよな? 確かにそうかもしれない。お前と番ったら、和哉と一生もう会えなくなってそれが減点って……。でも違うよ。そこもひっくるめて、大きな加点。和哉と離れるのが嫌じゃなくて、和哉とこれからも一緒にいたいっていう気持ちが、大きな加点だったってこと」
晶を目の前にして、柚希は両足が震えて鼓動が耳まで届くほどに緊張から鼓動が高鳴った。
(突き刺せ、柚希。迷うな! イイ人ぶるな! お前はどうあったって、酷い奴なんだ。ならもう、晶の心臓を一息に……。一度殺せ、お前の手で)
晶だけでなく、おのれにすら生まれた迷いを断ち切るために、柚希はやや震え声で、しかし双眸に力を込めて晶に言い切った。
「ごめん。これからの長い人生、離れずに共に過ごしたかったのは、俺にとって和哉だった」
晶は、眉を一瞬寄せ、苦しみに耐えるような表情を見せて……。
その後はただ穏やかに頷いた。
「分かっている。困らせてすまない。お前のその不器用なところも全てひっくるめて、愛してたよ。ずっと」
柚希の最後の誠意を、敢えて全て受け止めてくれた晶の優しさに触れ、耐えきれなくて、再び涙が零れ落ちる。柚希が嗚咽を漏らしかけたしゃがみこまんばかりの勢いで頭を下げたのを、晶が慰めるようにその手を彼の肩に載せた、その時に。
「柚希!!」
まるで狼が番を探して月に遠吠えを響かせるように、まだかなり川沿いの遠い位置からでも冷たい空気を引き裂くように発せられたそれは、勿論和哉のも怒号ともいうべき呼び声だった。
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