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番外編 夏祭りの約束 6-2

アドレナリンが噴出した柚希の頭の中は、もはや大事な弟を護ってこの場を去ることしか浮かばなかった。手首を掴んでいた和哉の手を、自分も手首を掴んでひっぱりなおすと裾が膝の上まで乱れることすら気にせず、甘いΩのフェロモンを風の中に靡かせながら駆け出した。  混雑する盆踊り会場。駐車場の方の出入り口から飛び出して、夢中で夜の街を二人で手を繋いだまま駆け抜ける。  喧騒も、祭囃子もどんどんと遠ざかり、浮かれた人々の波もだんだんと引けた住宅地に入った頃。見えてきたよく利用する駅前のコンビニの駐車場の皓々とした灯りの届く路上で、和哉が柚希の腕をぎゅっと引き、日頃穏やかな彼とは一味違う興奮からくる大声を上げ柚希の足を止めようとした。 「柚にい! 止まって! 足、血が出てる! 」 「え……、あ……」 (気がつかなかった……)  カラ、コロ。  ようやく止まった柚希は自分の足元を見おろすと、藍色の鼻緒に黒っぽい血のシミがつき、両足共に、足の親指と人差し指の間が擦れ、血が滲んでいるのが見えた。痛みはすぐあとから感じ始め、そして急に腰が抜けてしまってその場にへたり込む。 「兄さん! 大丈夫? 凄い怪我してる」  慌て焦った和哉の声が頭上から喧々と降り注ぐから、まだ高校生の和哉に怖い思いをさせたことが申し訳なくて、柚希は弟を懸命に見上げて彼を落ち着かせようとなんとか口元に笑みを浮かべた。 「大したことない。慣れないこと色々したから、腰が抜けた。お前を護ってやりたかったのに。情けねえ」 「情けなくなんてない。僕こそ……。兄さんを護りたかったのに。一人にしてごめんね」  成長した弟の大きな掌が、柚希の頭を労わるように優しく撫ぜるから、柚希は不覚にも涙が滲みそうになってしまった。  和哉は柚希の前に背を向けてしゃがみこむと、柚希を振り返って促した。 「背中に乗って? 家に帰ろう」 「え? いいよ。無理無理。男なんだから、一人で歩ける」 「いいから乗ってよ。荷物も持ってないし、兄さん負ぶうくらい、何でもない。そんな怪我した兄さんを歩かせたら、俺が母さんに顔向けできない」    そのままコンビニの入り口で兄弟は押し問答を繰り返していたが、祭り帰りと思しき若者がひっきりなしに出入りして二人をじろじろと見ていくから和哉が振り向き様、眉を吊り上げわざと怒ったような顔をしてみせた。 「もう! 知り合いが通りがかったら何かと思われるよ。早くして」 (成人した兄貴背負って歩いてる方が何かと思われるよなあ)  そう言い返そうものなら、和哉がまた口をきいてくれないコースまっしぐらだとぐっと我慢する。それに弟に叱られたのが効いたというより、本当にもう安堵から腰が抜けてしまっていて、柚希は素直に和哉の命令に従うしかなかった。 「絶対、負ぶって歩けないって」 「うるさい。僕だって、兄さんぐらい余裕で負ぶえる」  半信半疑で背後からまだ高校生の弟の首に腕を回すと、和哉は本当にひょいっと、柚希を負ぶって立ち上がり、軽々と歩き出した。すっかり逞しくなった弟の背の上で、柚希は流石に恥ずかしくていつの間にか敦哉のように広く大きくなった背中に顔を押し付けて赤面した顔を世間から隠す。 「変なことにお前を巻き込んで、ごめん」 「ああいう時はさ、すぐスマホで僕を呼んでよね? あのまま連れていかれちゃったらどうするつもりだったの?」 「……俺男だし、向こうも酔ってたから酔いが醒めたらどうとでもなるとおもったんだよ」  はあ、っと和哉が大仰なため息をついたから背中でそれを聞いていた柚希でも和哉の苛立ちをすぐに感じて即、謝った。 「ごめん」 「ごめんって……。僕に謝ることじゃないよ。兄さん、いつもあんな目にあったりしてるの?」 「……そんなことない」 「兄さんさあ。無防備すぎなんだよ。……こんなこと言いたくないけど、兄さんはΩなんだよ」 「うん、わかってる」 「わかってない。番がいないΩが男にとってどんな風に見えるのか? 兄さんだってβだった頃あったんだから分かるよね?」 「うん……」  世間一般的なイメージ通りにΩを見ていなかったわけじゃない。番を失った後も発情期に悩まされる母の桃乃の苦労を知らないわけでもない。  柚希はただ……。 (こんな時思い知る。俺はまだ、自分がΩだってことを、自分の中で解消できないでいるんだ。) 「くそっ……、この香り、あんな奴らにも嗅がせたなんて。腹が立つ!」  和哉が小さくそうはき捨てたが、車のクラクションが鳴ったタイミングでかき消され、柚希の耳には届かなかった。  懸命に兄を負ぶって歩く弟の背に縋りながら、柚希はすごく安らぎ少しうつらうつらとしながら素直に気持ちを打ち明ける。 「和哉……。来てくれて、ありがとうな。やっぱ、祭りは誰かと一緒じゃなきゃ、寂しいもんだな」   酔いが手伝ってうっかり弱音を吐いてしまった。 「一人にしてごめん。寂しい思い、させてごめん」  柚希が一人離れて暮らすきっかけは自分にもあると和哉は思っているのだろう。弟に心配ばかりかけて、柚希はまた自分がΩになってしまった事を恨めしく思った。だがいつでも懸命に自分を支えようとしてくれる弟の努力にも報いたいとも思う。 「和哉がこうして俺を気遣ってくれるの、嬉しいよ。ありがとう。和哉の笑顔を思い出したら、俺、色々頑張れるって思うから」    真っすぐ前を向いてひたすらに歩いていた和哉だったが、その言葉に胸が詰まって、もうすぐ角を曲がれば我が家への家路を急ぐ歩調を名残惜し気に緩める。 「さっきさ、『俺の和哉』って言われたの。ちょっとぐっときちゃったな」  和哉としてはいつだって柚希のことを『僕の柚希、僕の恋人』と世界に向けて声高に叫びたい気持ちで生きているから、思いがけず兄から執着めいた台詞を図れるとやはり心が躍ってしまうのだが、柚希にとってはまたそれは違う意味にとっている。 「当たり前だろ。お前は俺の……。大事な家族なんだから」    「はー」とも「ふー」ともつかぬ、ため息をついた和哉だ。 「……大事な家族か。まあ、そうだな。いや。それでいいんだ。最終目標はそこだし」 「?」 「兄さん、もう家帰ってきなよ」 「……帰れないよ」  そう言いながらも柚希は、和哉の首に回した腕で弟を抱き一時も離れたくないというように縋ってしまう。 (なんだろう。今日はすごく、和哉にこうしていたい)    ゆっくりと踏みしめる和哉の足取りは穏やかな揺らぎを柚希にもたらし、Ωと判定され家を出てからの張りつめた日々の神経が緩む心地だ。  兄弟は互いに、こんな風に穏やかな時間がずっと続けばいいのにとそんな風に考えていた。  しかしついには自宅の門の前まで来ると、柚希は和哉の背からゆっくりと地面に降り立った。  せっかく帰ってきた家なのに、これからまた出ていかなければならない。  今日はそれがとても寂しくて、柚希は俯き加減に乱れた浴衣を直しもせずに扉の前に立ち竦んでいる。すると今度は背後から、和哉の長い腕が柚希の身体を包み込むように抱きしめ縋ってきた。 「待ってて……。いつか僕が兄さんに家族を取り戻してあげるから」 「え……」 「僕を信じて」    どうやって、と問おうとした唇に、長い指が押し当てられて「しぃーっ」とまたあの低く滑らかで、そして有無を言わせぬ声と共に漂う金木犀に似た甘い香り。 「いい香り……。和哉、香水をつけてるの?」  答えの代わりに首筋に柔らかな感触と共にちりっと小さな痛みが走る。 「あぁ……んっ」 「兄さんこそ、いい香りだよ? たまらない」  柚希は艶麗な熱い吐息を漏らして弟の腕に身体を預けると、和哉は鼻先を項に擦り付け狂おしく呟いた。 「もうどこにも行かせたくないな。このまま家の中に閉じ込めておきたい。いつでも僕の傍にいて欲しい」 「カズ……」 「でも今は……」  柚希の手を握り、その甲にうっとりと口づけてから、柚希越しに和哉が玄関の扉を引けば、廊下に漂う食欲誘う夕餉の香りに和哉から漂った甘い香水の香りは吹き飛んでしまった。 「母さん、ただいま」 「おかえりなさい。あら、早かったわね。花火見てこなかったの? ええ? 柚希、なんなの、その恰好は?」 「これ、あ、これは」 「兄さん暗いところで躓いてこけたんだよね?」 「そうそう。浴衣慣れてなくて」 「本当にそうなの?」  明るいところで見たら、大暴れしたことで浴衣のあちこちがほつれた上に泥がつき、その上足は血だらけ、お土産に持って帰るはずの牛串も何もあったものではなくなった。  桃乃が心配して根掘り葉掘り何があったかを聞いてきたが、兄弟はこういう時は結託して口を噤んだので、桃乃はそれ以上聞くこともなかった。  次回  過去から一気に、番後の未来に飛びます~  2人の家族の形とは!

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