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捨てられない
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、瞼の上でゆらゆらと揺れる。目を開けると眩しい朝の光が寝不足の眼球に沁みた。
週明けの今朝は夢を見ずに眠れた。
このところ、眠れる時間が少しづつ増えている。ほんの数ヶ月前迄は過去に囚われた夢に、魘されていた筈なのに。
別れた恋人を忘れない為に始めた事が、自分の意思とはまるで違う方向に向かい始めている気がする。
もう…会わない方がいいのかもな
あの年上の男。互いに名前すら名乗り合わず、よくここまで続いたもんだ。
本当にそろそろ、潮時なのかもしれない。
枕元の携帯を持ち上げ時間を確認する。午前6時を回ったところだ。
届いたメッセージを確認しながら、布団から這い出し会社へ行く支度を始めた。
満員電車は今朝もすし詰めだった。なるべく息のしやすい場所を探し、ドア付近へと流される様に移動してきた。外の景色をぼんやりと眺め、押し潰されそうな背中の重圧を忘れるよう努力する。
暫くすると腰に違和感を感じた。…腰、というよりその下、尻の辺りがモゾモゾする。
最初は気の所為だろうと無視した。その内滑るように尻の割れ目を2度3度なぞられ、背筋がゾワッと逆立った。腰を捻り逃げる。
男の癖に、まさか痴漢に遭うとは想像もしていなかった。
女だと思われた?
…いや、そんな訳無いだろ
私服の様な格好でも出勤は許されているが、今朝はビジネススーツで出ている。女と間違う要素が全く無い。
それなのに一度は離れた手が、再び尻の合間に戻って来た。今度はあからさまに撫で上げられ、紛う事なく自分が痴漢に遭っているのだと自覚させられた。
おいおい…
男の尻なんか触って何が楽しいんだよ
おそらくこの痴漢も、ゲイと呼ばれる人種だろう。逃げる隙間も無いこんな場所じゃ、変にジタバタすれば返って悪目立ちしてしまう。半ば諦めじっと耐える事にした。
どうせその内飽きるだろう。そう高を括っていたのだが、尻を撫でるその手が太腿の裏側に下りた時、ビクッと身体が跳ねた。
そこはあの男に教えられた、自分の弱い場所のひとつだ。尻と腿の付け根辺りを執拗に撫で回され、ビクビクと反応してしまう。
「…っ」
声が漏れそうになり、慌てて口を押さえた。
反応に気を良くしたのか、痴漢の手は段々と大胆になり、足の隙間にまで潜り込んで来た。閉じようとしても、間に膝を差し込まれ閉じられない。
しまった
これじゃ好き勝手されっぱなしじゃないか
尻の合間を後ろから前に何度も撫でられる。
このままじゃ取り返しの付かない事になる…。そう思うのに、手は益々前へ前へと迫り、とうとう股間の膨らみを捕えられた。
「…っく」
必死に声を抑えたが、やわやわと揉むようにそこを弄られ自然と腰が動いてしまう。数日前に散々弄ばれた記憶が蘇る。
うつ伏せになり尻だけ持ち上げた格好にされ、太腿の裏側から双弓の合間を舌で何度も嬲られて、泣き喚く程感じさせられた。
『ここ、好きだろ? もっと鳴けよ』
そう言われた声まで蘇ってくる。
一瞬ここが何処なのかも忘れてしまった。
「あんた、感じてるんだろ」
耳元に知らない声で囁かれ、一気に現実へと引き戻される。
背中に冷水を垂らされたようだ。
途端に気持ち悪さと恐怖心が襲ってきた。
同時に車内アナウンスが流れ駅に着く。後ろの痴漢と人垣を押し退け、逃げるように下車した。
はぁはぁと、息を切らしながらトイレに駆け込む。個室に入りそこを確認した。
よかった…
なんとか落ち着いてる
完全に勃ち上がっていなかったのが幸いした。最悪の事態だけは避けられたようだ。あのまま記憶を辿っていたら、今頃は飛んでも無い事になっていただろう。
よく見ると手が震えている。手だけじゃない。身体がカタカタと震えていた。掻き抱く様に自分で自分を抱きしめる。
触られた場所が気持ち悪い。
落ち着け
こんなの、大したことじゃないだろ
見ず知らずの相手に身体を差し出す事を望んでしている癖に、たかが痴漢に好き勝手されたくらいで、と己を笑う。歪な笑いしか浮かばない。
…怖かった。
身体を触られた事よりも、自分の弱さを思い知って恐怖した。
あの人じゃないってだけで、なんで…
なにをそんなに怖がるんだ
ズシン、と重いものが腹の底に落ちて来た気がする。それが何なのかは知りたくない。
内ポケットから財布を出し、中から折り畳んだ紙切れを取り出した。
カサッと開き中の文字を見る。
11/8 20:00
暗号みたいな数字だけが並んでいる。
くしゃっと握り潰し、放り捨てようと手をあげた。が、投げる前にまた手を下ろす。
どうせ捨てたところで、中身はもう覚えてしまった。
言い訳をし、くしゃくしゃになった紙を伸ばして畳み直す。再び財布の中へ戻しポケットへしまった。
こんな紙切れ1枚捨てられず、剰えご丁寧に折畳んで持ち歩くなど、どこまで自分は身の程知らずなんだろう。
会わない方がいいと思いつつ、本当はどこかで会いたいと思っているのだ。
11月8日 20時ーー
次の約束まではあと2週間。
ブルッと、恐怖ではない震えを感じる。
何の為に時間を置いたのか分からなくなる。
いっその事、あの痴漢にでもヤラせてやればよかったのか。
そう考えて直ぐに首を振る。耳元で囁かれた声に、身の毛のよだつ思いをしたのだ。
無理だ…
あんなに汚されたいと願っていた筈なのに…
頭を垂れ、深い息を吐く。
ブーッブーッとバイブ音がした。携帯を確認し、のろのろとトイレから出る。
…今は仕事だ
前を向きもう一度電車に乗った。目的の駅までまだ数駅ある。
再び乗り込んだ車内は人が減り、だいぶ息苦しさからは解放されていた。
身体の震えはまだ残っている。
それが先程経験した恐れなのか、または別の何なのか。答えは見つからず、ただ足早に流れる景色を眺める。
ポケットの中の財布へしまった紙切れが、何故かずっと脳裏に焼き付いたまま、いつまでも消えてくれなかった。
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