秋風が冷たさを含めるようになった11月 約束の20時までまだ2時間以上ある 外回りからの直帰にしたら 思いの外時間が余ってしまった どこかで腹ごなしでもしよう 駅前を彷徨いていると 見慣れた横顔を見つけた あ、名無し君 春先にゲイ向け出会い系サイトで知り合った 名前すら知らないセフレ 名前どころか歳も職業も知らない そのくせあの男の身体の事は 本人すら知らないホクロの位置まで覚えている 声、掛けた方がいいか それとも見なかった事にしようか グダクダ考えている内に 目標人物はこちらに気付く事もなく 数100メートル先の喫茶店へ入って行った なんて言うか 見てはいけないものを見てしまった気分だ こんな賑やかな街中で まさか見付けてしまうとは思っていなかった ー互いの詮索はしないー 約束は春からずっと守っている そのお陰でこれまで心地よい関係でいられたんだ 今更それを変えることはない でも それでも 最近何となく この関係に物足りない気持ちだったのも確かで 詮索する訳じゃない ただ腹が減ったから そこに飯の食えそうな喫茶店があっただけ ちょうど珈琲が飲みたいと思ってたんだ チェーン店の珈琲じゃなくて …って 誰に言い訳してるんだ俺は 迷いながらも彼の入った店のドアを開けた 些かバツが悪い気持ちもあり ついこそこそしてしまう どうか気付かないでくれよ レトロな内装と カンツォーネが緩く流れる店内は程よく客が居て 入って来たばかりのこちらに気を取られる様な雰囲気もない 先程見かけた見慣れぬ姿の見知った相手を 奥まった窓際の席で見付けた 入口からは背を向けて座っている よかった これならこちらが見付かる事もなさそうだ ほっとしたら少し大胆な気分になる 店の店主がお好きな席へと促すので 目を引くターゲットのすぐ後ろの席へ ちょうど背中合わせの様な形で座った 何となく背中がこそばゆい 注文を取りに来たウエイトレスに ピザトーストとブレンド珈琲を頼み トイレの脇にある喫煙室へ向かう 黒檀の木枠と琥珀色の硝子に囲まれた喫煙室は狭く あまり居心地は良くなかったが 自分の席から彼に気付かれず移動出来たのはよかった ここからは彼の様子も十分確認できる ポケットから紙タバコを一本取り出し 安物のライターで火を着けた 普段スーツとか着てるのかと思ってたが私服とはね 一体何の仕事をしてるんだろう まさか学生じゃないだろう いつも待ち合わせ前にはここに寄っているのか？ 珈琲が好きなのか？ どんな本を読んでいる？ その鞄の中は何が詰まっている？ ついつい詮索めいた思考になる ダメだろう これは違約行為だ あ… テーブルの上に広げた文庫本を左手で押さえながら 右手を顔まで運んだかとおもったら 人差し指と中指を緩く立て 下唇をとんとんと叩く あれ、癖か？ へぇ… かわいいな 思わず芽生えた感情に どきっとした おいおい なんだよかわいいって しかも半笑いだったぞ俺 おかしいだろ 無しなし！今の無し！ 狼狽える自分にまた狼狽えた 何なんだ俺は らしくもない 吸い指しのタバコを灰皿へ投げ入れ 席へ戻る 丁度ウエイトレスが注文したピザトーストと珈琲を運んで来た さっきより 更に背中がこそばゆくなった 気を落ちつかせる様に ピザトーストを噛じる あ、美味いな あっという間に平らげてしまった 物足りないが空腹感は減った 珈琲は まぁ普通か 特別美味くも不味くもない だが会社のドリップコーヒーよりはマシだな ブーッ！ブーッ！ブーッ！ 背中に意識を奪われないように どうでもいい事を考えていたせいか 突然鳴ったバイブ音に心臓が跳ねた びっ　くりした 「もしもし、先生？どうしました？」 あ、これはまずいな 真後ろの席から一方通行の会話が聞こえる 「次回作の打合わせですね」 おいおい外行って話せ 話の内容だだ漏れだぞ 「…え？今から、ですか？」 今から？ …いやいや 今日は無理だろ オマエはこれから俺と 「…わかりました。伺います」 おい 「せっかく先生がやる気を出したんです。担当編集としては応えない訳にいかないですよ」 真面目そうな奴だと思ってはいたが 仕事にも真摯なんだな 「プロットは出来ているんでしょう？」 プライベートより仕事優先か 社会人としては褒めてやる だが… 「20分程で着きますから」 俺との約束はどうするんだ 間に合うのか？ 「はい。では後ほど」 話しながら席を立つ気配に冷りとする 急に背中に緊張が走った さっと俺の横をすり抜け こちらには気も止めずレジへと向かう あっという間に会計を済ませ店を出る彼を ただ黙って見ているしか出来なかった アイツ 俺に気付かなかったな なんだか少し拍子抜けだ 俺の緊張感を返せよ 少しばかり不貞腐れた それにしても 出版社勤務の編集者とはね 意外な職業だったな 思い掛けず手に入れてしまった 彼の日常の片鱗に 好奇心が刺激される 面倒事は好きじゃないが これだけ長く続いているのに 連絡先はおろか 未だに名前すら知らないなんて もう少しくらい 何かありそうなものだが 何だか…物足りないな 偶然とはいえ 知ってしまったセフレの一面に ざわざわと落ち着かない気分になる まるで静かな湖面に小石を投げられたようだ まだ足りない 波紋がどんどん拡がっていく もっと知りたい まるでパブロフの犬だな 既に咥えている餌を更に欲しがれば 後悔しか残らない 欲張ってはいけないという先人の教えだ ー詮索はしないー 好奇心に衝き動かされ 約束を違えれば残るのは後悔なのだろう 颯爽と街中に消えていく 出版社勤務の編集君を窓越しに見送りながら 再びメニュー表に目を向ける 約束の20時迄はあと1時間半もある ウエイトレスに声を掛け もう一度同じメニューを注文した あんな癖があったんだな 唇を指で叩くあの仕草が脳裏に蘇り 心がじんわり温かくなる 窓に反射して映る自分が 愉しそうに笑っている 波立った湖面は まだ静まっていないらしい 再び同じメニューがテーブルに届いた 二度目のピザトーストは 最初程美味しく感じなかった 今夜キミは来るか？ もしも約束の時間を過ぎて現れなかったら 俺はキミを待つだろうか それともさっきと帰るだろうか 少し冷めた珈琲は苦味の方が強い 後悔、か 少し考えて思い当たった 後悔ならもうしているな あの人混みの中で見付けてしまった横顔に どうして声を掛けなかったのか、と