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第1話
僕の人生は概ね最悪で出来ている。
生まれて五年目くらいには既に最悪だったし、十二年目あたりが特に最悪で目も当てられず、十五年目あたりは最悪の最悪で最悪が過ぎてもはや最悪かどうか判断がつかなくなり、最悪であることを確かめようとして最悪になったし、十八年目にはあまりに最悪すぎて記憶が一年ほど飛んだし、二十歳になった現在も変わらず最悪だった。
僕の人生で良かったことなんて一つしかなく、それは里奈理さんと出会えたことなのだけれど、里奈理さんと出会ったばかりに僕は過去最大級の最悪を味わう羽目になっていた。しかも自業自得で。最悪である。クソ。人生はゴミである。人生っていうか、僕がゴミである。
具体的に何がどうゴミかと言えば、僕が書いた里奈理さんモデルのエッチな漫画が本人の目に止まってしまった感じである。ゴミである。くそ。ばか。カス。早く死ね。
リビングにてビニールテープで手足を縛られ、趣味で持ってたボールギャグをかまされた僕には自ら命を絶つこともままならない。芋虫みたいにフローリングの上をのたうち回る僕に、里奈理さんは最後の原稿用紙を眺め終えてから言った。
「よく描けてるねえ」
死にたかった。早く死ね。お前だよお前。冴坂千里! お前だよ早く死ね。
「ここのコマなんか、ほら、特によく似てるよ」
早く死ね。死ね死ね死ね。頭打ちつけて死ね。
フローリングに思い切り打ちつけようと頑張った僕の頭は、里奈理さんにいとも容易く支えられてしまった。里奈理さんの手のひらが僕の唾液で汚れてしまった。正気ではない。くそ。ばか。ゴミだ。最悪だ。汚してしまった。里奈理さんの手を。嘘だろ。しにたい。
自分への殺意が罪悪感に変わった瞬間、なんとも言えない苦しみによって涙が溢れた。最悪だった。二十歳にもなって何やってんだ。十六の時に死んでおかなかったからこんなことになってんだぞお前、くそ。おい。聞いてんのか。早く死ね。
「ね、見てみなよ冴坂くん。この角度だと更に似てるかな?」
里奈理さんは漫画のコマを観察すると、艶やかな黒髪を耳にかけて、原稿用紙と並べるようにして首を傾けた。すげー似てるので死にたくなった。僕の観察眼は最高に最悪である。ちなみにフェラしてくれる前のコマだった。さらに死にたさが募った。誰か殺してくれ。
人任せになってしまった。自分の始末くらいは自分でつけねばならないのに。最悪だ。
里奈理さんはどうして僕を今すぐ殺してくれないんだろう。隣に住んでるフリーターが自分をモデルにエロ漫画を描いてたんだぞ、通報もんだろ。普通は。まあ、里奈理さんは普通ではないので、もしかしたら普通でない方法で僕を裁くつもりかもしれない。あるいは捌くのかもしれない。丁度俎上の魚みたいだし、今の僕。
原稿用紙を持ったまま笑っている里奈理さんは、相変わらず異常なほどに美しかった。普通じゃない美しさを持つ人間は中身も普通じゃないんだろうか。だから通報しないんだろうか。通報はしないのに暴れる僕をビニールテープで縛り上げた辺りも、なんだか普通ではない気がする。いや、これは僕を安全に引き渡す為かもしれないが、そもそも半引きこもりもやし人間の僕と週三でジムに通う里奈理さんなら里奈理さんの方が圧倒的に強いので、拘束にあまり意味はない気がした。里奈理さんなら僕なんか片手で捻れるだろう。いや、マジで、比喩とか無しで。
縛られている時間が長すぎて段々冷静になってきてしまった。冷静になったら、僕の部屋に里奈理さんがいることに興奮してきてしまった。全然冷静ではないのでは? クソが。死ね。
「う、ゔん……むぐ……ぅぅ……」
「ん? どうしたんだい冴坂くん、ちんちんがイライラしてきた顔して」
「……もぬぐ……」
どんな顔だよ、と突っ込みたかったが、丁度僕が描いている漫画のコマを指差されたのでそのまま死にたい顔に移行してしまった。漫画の中では丁度ちんちんがイライラしてきた僕が里奈理さんを押し倒して無理矢理コトに及んでいるシーンだった。ついでに言うと漫画の中の僕はとにかくものすごく強いので里奈理さんを押し倒せる感じだ。現実? 無理。簀巻き。
「この冴坂くんは強いねえ、俺のことこんな風に、あ、えーと、俺であってるよね? 今更だけど」
「えむふ……ゔ……」
「え? 俺だよね? 流石に、髪型と髪色と泣き黒子と眼鏡のフレームそのまんまとか、俺じゃないとは言えないと思うんだけど」
最後の悪あがきで首を横に振った僕に、里奈理さんは分かってるくせに分かってなさそうな顔で言った。そういう顔をして僕のちんちんを虐めてくれたりしないですか? しないですか。そうですか。
「よく描けてるねえ、冴坂くんも、ちんちんのサイズ以外はそっくりだ」
「…………ぺむ……」
「なんで俺の方はちんちんもそっくりに描けてるのかは聞かないでおくね」
「ぇお……」
吐きそうになってしまった。冷や汗を通り越して何が得体の知れない汁が全身から出ている気がした。気が狂いそうだ。殺してくれ、と思ったが里奈理さんには僕を殺す気は微塵もなさそうだった。だからこそ辛いが、この辛さは完全に自業自得であり、僕が勝手に解放を望んで良いものではないことも分かっていた。分かった上で魂の解放を望んでいた。最悪である。
里奈理さんの気が済むようにしてほしい。心の底からそう思っていたが、同時に強く、この世から解放してほしい気持ちも抱きつつ、いかにも哀れっぽく見上げた僕に、里奈理さんは吊り目がちな目を機嫌よく細めて笑った。好きな笑みだった。僕が近所の小学生に心ない罵声を浴びせられて泣きそうになっている時に里奈理さんと遭遇するとよく見る顔だ。里奈理さんは性格が悪い。そこが良い。可愛い。好きだ。最悪だ。死にたい。
「漫画の冴坂くんは抜かずの三発出来ちゃうんだねー、すごいねえ」
「…………ぺむ」
「でもどうせ現実は早漏で一回出したらへろへろになっちゃうんでしょ?」
「ん゛」
里奈理さんはにっこり笑って原稿用紙を引き裂くと、そのまま引き攣った息を零した僕に覆い被さるようにして床に手をついた。
軽い調子で小突いてきた手が僕の体を仰向けにして、茹でた海老みたいに丸まってた膝を押す。妙に主張し始めていた股間を里奈理さんの指先がなぞったところで、僕は身体全体で跳ねてひっくり返った。ついでに出た。
「うわ、動きがキモい」
「うぶ……ぺょ……」
「え? あれ? しかも、あれ? 出た? え? えっ? うふ、え? う、嘘でしょ? は? おい、え、ちょっ、ふふ、え、え?」
里奈理さんがウケている。可愛い。僕が早漏どころかマッハ漏であることが原因でなければさらに素直に可愛さを楽しめただろうに、マッハ漏の僕は惨めすぎてうつ伏せのまま呻くことしかできなかった。吐きそう。
うゔー、ゔー、ぅ、う、っ、と呻く僕の頭を、里奈理さんの手がそっと撫でてくる。僕の魂がこもった原稿用紙をびりびりに破いた手と同じとは思えないほどに優しかった。
「ちんちん弱くて惨めだねえ」
「……ゔ……ぅ、」
「漫画の中ではあんなに強かったのになー? 俺、冴坂くんのちんちんに負けちゃってたもんね、こんな雑魚ちんちんに負けるって、俺、どんだけ弱いんだよ、ねえ、ちょっと、んふ、笑い、笑い引かないんだけど、ぎゃ、ギャグじゃん、あは」
「ゔ、ゔ、ぅ、」
「ね、ね、サイズも見してよ。どうせ小さいんでしょ? ほら、泣いてないでちょっとは協力してよ、俺のこと漫画でめちゃくちゃにして抜いてたくせにちんちんも見せれないとかないでしょ」
嬉しそうに笑った里奈理さんがうつ伏せの僕を転がす。精液がスウェットにまで染み出していたが、里奈理さんは特に気にする素振りもなく下着と合わせて引き摺り下ろしてきた。外気に触れたちんちんが寒い。寒いのになんか知らんが元気に勃ち始めているちんこを見て、里奈理さんはなんとも意外そうに、おや、と呟いた。
「うーん、可もなく不可もなく。あんまり面白くないな」
「……ぇぷ……」
「涎垂らして元気だねえ、遊んであげようね、つんつん」
「ん゛っ」
つんつんされただけで出たので、里奈理さんはとうとう腹を抱えて笑い出した。僕も声を上げて泣き出したかったが、ボールギャグが邪魔でいまひとつ上手くいかなかった。
「いや、悲しいほどに雑魚じゃん。でも雑魚の割に復帰が早いな、元気いいね」
一回でへろへろではなかったのが意外なのか、里奈理さんは僕のちんこに興味を持ったようだった。里奈理さんが僕のちんこに興味を持っている。里奈理さんが。
なんもしてないのに出たので、里奈理さんはきょとんとしてからやっぱり笑い出した。ぜ、全自動射精ちんぽ、とウケる声が聞こえてくる。半自動なので出来たら触って欲しかった。脳味噌が半分ちんこになっているので、完全に罪悪感より性欲に従いつつあった。最悪である。さっさと死ね。
「んん、ふ、あれだねえ、遊んで欲しそうな顔してるね、冴坂くん」
「ゔ、ゔ」
「しょうがないから遊んであげようね、漫画破いちゃったし、そのお詫びってことで。ほら、ここに穴があるから、頑張って入れるんだよー、冴坂くん」
本来お詫びせねばならないのは僕ではないだろうか、と理性くんが言ったが、次の瞬間本能くんが全てを押しのけて、『ちんこの前に作られた指の輪っか』のことしか考えられなくなってしまった。挿入である。嘘だ。しかし僕が腰を上げれば指には入るので挿入である。指に入ったってことは要するに里奈理さんには入ったってことである。故に挿入である。る。
細かいことはどうでも良かったのでとにかく扱いて欲しい、と腰を上げた僕に、里奈理さんはくひひ、と笑った。そんな笑い方する人ほんとにいるんだ、と思った。ちんちんは気持ち良くなった。指。圧迫だ。ねじ込むように輪っかに通した途端、里奈理さんはいいこいいこするみたいに竿を包んで扱いてくれた。ちんこは一瞬でいい子ではなくなってしまった。暴れん坊である。三秒で果てた。情けない。ゴミ。
一生分の精液を吐き出している気がする。里奈理さんの手が僕の精液で汚れたと言う事実だけで再度勃起した僕に、里奈理さんは「マジで元気だけはいいな」と呟いた。素の呟きである。里奈理さんは性格が悪いので、普段は僕の需要に合わせてなんだか優しめでえっちな感じの喋り方をするから、これは素だ。ひどい人だ。大好きである。
「ゔー、っ、んゔ、ぃゔ、ッ」
「こらこら、そんなに一生懸命無駄な射精に励まないの。てか腰の振り方下手だね、痛めるよ。まあ、手足縛ったの俺だけど。うーん、もっとちゃんと縛れば良かったかな? 人を縛ったの初めてだからなあ」
里奈理さんの初めてをもらってしまった。大変に興奮してきた。元からしている。好きな人に手コキされてしまった。三擦り半かも怪しいが。
無様に腰を振る僕を見下ろした里奈理さんは、ふと思いついたように手を打つと、僕の精液が張り付いたままの手で足の方のビニールテープを解きにかかった。
「そーだ、一回解くね。じっとしてないとちんちん叩いちゃうからね、そうそう、じっとしててね。叩かれたいなら動くのもアリだけど」
「……ん……」
理性くんは本能くんにボコボコにされていたが、本能くんでも恐怖を覚えるくらいには本気だったので、僕は素直に動くのをやめた。里奈理さんが叩くと言ったからには叩くのだ。それも、多分手とかじゃなく、もっと痛いもので。
鼻歌混じりに足のビニールテープを解いた里奈理さんは、僕の足をM字開脚になるように支え直すと、僕が冷静になるより早く、なんとも手際良く縛り直した。瞬く間だった。真面目に。
「ん? ぅ? う?」
「よし、これで良いね。ほら、ちんちん弄りやすくなったでしょ」
でしょ、と言われましても。そんなご機嫌に僕のちんちんを弄る気でいらっしゃるんですか。本気ですか。嬉しいです。嬉しくて吐きそう。
何か、何かとんでもないことが起きている。里奈理さんのことだからバレたらきっととんでもないことになるに違いない、と確信していたし、それも含めて大層興奮していたことは認めるが、まさか、こんな、こんなことになるとは思っていなかった。最悪だったはずの人生の終わりになんだかよくわからないことになっている。どうせキモがられて嘲笑われて通報されて終わると思っていたのに。なんだこれは。里奈理さん。なんなんですか里奈理さん。好きです。
「冴坂くん、俺ね、一回やってみたかったことがあるんだ」
「んぶ」
「あの、あれ、知ってる? 冴坂くんどうせ変態だから知ってると思うんだけど、」
楽しげに微笑んだ里奈理さんは、僕の耳元に形のいい唇を寄せると、わざとらしいまでに艶っぽい声で囁いてきた。
ローションガーゼって、わかる?
死んだな、と思った。呼吸が一瞬止まった。分かるも何もやったことがある。自分じゃ絶対にヤバいから途中で止めたやつだ。涙目で震え出した僕に、里奈理さんは、あは、と機嫌良く笑った。すごい可愛い顔だった。悪魔みたいな人だ。最悪だ。
「ローションはあるよね? ガーゼは? 余ったの何処?」
「ゔ、ぴ、び……びゅ……」
「どこ?」
完全に僕が自分でしたことがあるのを前提にした問いかけだった。有無を言わせず在処を聞き出そうとする強い響きに気圧されそうになるも、なけなしのプライドでもって首を横に振る。
僕はそんな破廉恥な行為したことありません。嘘ですが。したことありません。ないことにしてください。
哀願を込めて首を振った僕に、里奈理さんは熱の失せた様子で視線を他所に投げた。つまんないな、の顔である。僕は事実つまらない男なのでその評価は極めて正しいものだったが、他でもない里奈理さんにその顔をされると堪えるものがあった。
他の誰にそんな顔をされても、まあ、傷つくけど、傷つくだけだから別にどうでもよくて、ただ、里奈理さんにだけはそんな顔をされたくなかった。
喉奥から込み上げる熱に、追い立てられるように身体を傾け、床へと倒れ込む。
「ゔ、う」
「ん? どうしたよ、逃げるの? 流石に無理があるんじゃないかなあ」
「ん、む、む……びゅ……」
開かされた足と、後ろ手で縛られた手は使い物にならないので肩で這い始めた僕を、里奈理さんがさして興味もなさそうに見やった。
逃亡を止める手間すら省く勢いで興味が失せつつある。里奈理さん宅の玄関先で別れ話をしている時の顔によく似ていた。別れ話、というか、お前もう用済みな、の通達。
僕はその通達を受けた男どもを、これまでに五人、知っている。最後の最後まで喚いていた男たちは全員、里奈理さんが完全に興味を失うと同時に黙った。里奈理さんは、もう取り返しがつかないほどに興味が無いからさっさと失せろ、というのを目だけで脳髄にまで叩きつけることが出来る人だった。好きな人にあんな目で見られたら、きっとその場で飛び降りたくなるだろう。実際二人くらい飛び降りかけたので、里奈理さんは片手で廊下に放り投げていた。強い。
はぶ、はぶ、と泣きながら、亀より遅い速度でリビングのチェストまで進む。どうか飽きられませんように。鼻を啜る合間に唱えながら床を這う。しゃくりあげながらチェストの横に転がった僕を見た里奈理さんは、一度ゆっくりと瞬いた後、合点の入った様子で、ちょっとだけ機嫌を直した顔をして立ち上がった。
「むぶ……うゔ……」
引き出しに縋り付くようにして呻いた僕の傍に里奈理さんが膝をつく。鼻歌混じりに一番上の段から順に開けていった里奈理さんは、三段目に入った透明のプラスチックケースを手に取ると、喉を鳴らして笑った。
「冴坂くんは几帳面だなあ」
ローションガーゼ向けのローションと、手頃なサイズのガーゼである。ローションガーゼセットである。『余り』どころか二回目への備えだった。
するつもりなんか毛頭なかったけれど、用意があるだけで興奮する夜があるのも確かだった。いつか誰かに使われちゃったりなんかして、なんて。いつかっていつだよ。今だよ。今?
楽しそうな顔でケースを開ける里奈理さんをそろりと見上げると、ちょうど盛大に鼻を啜ったタイミングだったので音が響いたらしく、にっこりと細められた瞳と視線が合った。
心臓が痛いくらいに跳ねて、顔が熱くなる。首から下は冷や汗に塗れていて異様に寒いので、首を境に別の人間にでもなった気分だった。
いつか誰かに使われちゃったりなんかして、じゃねえんだよ。馬鹿が。
『いつか』も『誰か』も里奈理さんを思い浮かべていたのは事実だったが、事実が現実になっただけでこうも恐ろしくなるとは思わなかった。現実の里奈理さんは、妄想の里奈理さんとは違って、きっと僕が泣き叫んでもやめないだろう。そういう人だ。ちんこが痛い。胸も痛い。恐怖で鼓動が早まってるのか、ときめきで鼓動が早まってるのか分からなかった。怖い。恐怖で涙が止まらない。後悔しかない。
里奈理さんが手に取ったケースを見上げながら、『いつか』を気軽に期待して仕舞い込んだ日を思い出す。何を期待してやがんだ馬鹿。お前のせいで僕は今最悪に最悪だぞ。
ただ、それでも、里奈理さんに飽きられるくらいなら、使われちゃったりなんかしたほうが遥かにマシなことだけは確かだった。
「確か容器に入れて浸すといいんだよね」
膝の上に乗せていたケースを抱えて立ち上がった里奈理さんは、るんるんで歩き出すと、そのまま僕に一瞥もくれることなく脱衣所への扉を開けた。洗濯機の上にケースを置く音がして、振り返った里奈理さんがそっと膝をつく。
「冴坂くん、おいで」
どうやら、先程僕が床を這った様がお気に召したらしい。
機嫌はすっかり直ったようで、優しく微笑んだ里奈理さんが両手を広げて僕を待っている。僕を。嘘だろ。嘘ではない。幻覚か? 現実だ。縛られた足が非常に痛いので現実である。鬱血してないか? 遠慮がない。配慮もない。本当に。
ふん、ぬん、ぬふ、と鼻息荒く這い始めた僕に、里奈理さんが「がんばれ〜」と声をかける。がんばれ♡ がんばれ♡である。ボールギャグによる息苦しさとは全く別の理由で呼吸が乱れ始めてしまった。最悪である。絵面と尊厳が。でも僕の醜態は僕からは見えないし、僕にはそもそも尊厳などないので何の問題もなかった。よちよちと、死にかけの芋虫みたいな速度で必死に床を這う。
「はっ、ぷ、ぅ、ぶ、ぶ、」
「頑張ってるねえ、ほら、あともうちょっとだよ」
「ん、ん、ゔ」
「ちゃんと来れたらよしよししてあげるよ、ちんちんがいい? 頭がいい?」
全ての動きを停止して見つめた僕に、里奈理さんはどっちがいい?なんて、この期に及んで無邪気を装って小首を傾げた。
どっちもが良い。どっちもが良かったが、里奈理さんの瞳の奥にはやはり冷えた輝きがあって、どちらかしか選べないのは明白だった。どっちもが良い。どっちもよしよしされたい。ちんちんをよしよしされながら頭もよしよしされたい。どっちもがいい。どっちも。
ぱん、と手を叩いた里奈理さんが急かすように手招く。迷っている暇はなかった。僕はどちらも選びきれないまま、ふん、むん、うぶ、と完勃ちしたちんこを携えて床を張って進み、辛すぎて涙で見えなくなったまま里奈理さんの腕の中へと飛び込んだ。
「よくできました、はい、ゴー、……ル?」
腕の中へ、というのは正しくないかもしれない。僕のぐしゃぐしゃの顔面は、里奈理さんの胸に受け止められるより先に、膝をついた彼の股の間に突っ込んでいた。
白いズボンの股間に顔面で着地する。鼻水と涎と涙でめちゃくちゃな僕の顔には、里奈理さんの体温と、確かに主張する硬さがあった。位置から察するに陰茎である。里奈理さんの。陰茎である。
「はっ、ふ、ゅぶ、んっ、ん゛」
「あ、お前、勝手に人の股間嗅ぐなよ」
「ん、ん゛っ、ん♡」
「こーら、言うこと聞きなさい」
この人、何もしてないのに勃ってる。僕をビニールテープで縛り上げて、ちんこを突いて遊んだだけなのに。出来損ないの犬みたいにした僕を呼んで、ローションガーゼで遊ぼうとしてるだけなのに、完全に勃ってる。
口が使えたなら、今すぐ歯を使ってファスナーを下ろしていただろう。ボールギャグを噛んだ僕には、布越しの熱に頬を擦り付けるくらいしか出来ないが。だが、それだけでも十分な刺激にはなるらしく、里奈理さんの太腿は僕が頭を押し付けるたびに小さく跳ねた。
「ん、もう、堪え性のないやつだな。せっかく褒めてあげようと思ったのに」
口では嗜めるようなことを言っているが、里奈理さんの口元には笑みが浮かんでいた。僕がかぶりつくように股間に顔を埋めて、許可が欲しいと見上げた先で、笑みの形に歪んだ唇から熱い吐息が溢れる。
もどかしげにベルトを外した里奈理さんが、ファスナーを下ろして下着をずらす。僕よりもよほど立派なものが、僕と同じように期待で涎をこぼしていた。
里奈理さんが僕で勃っている。僕である必要があるのかは怪しいが。少なくとも、僕にした行為で性的興奮を覚えているのは確かだった。
好きな人が自分で快感を得ている、というのは、途方もなく興奮することなのだと、初めて知った。
「え? いや、ふふ、嘘だろお前、」
欲を孕んだ目で僕を見下ろしていた里奈理さんが、不意をつかれたように瞬く。彼の指先が僕の鼻の下を拭って、鉄錆の匂いのするそれを僕の服になすりつけた。
「鼻血」
人間は興奮すると鼻血が出る。本当に出るんだ。知らなかった。うは、両方から出てる、と里奈理さんがウケているので、どうやら両方出ているようだった。生温い液体が顎を伝って床に落ちる。脱衣所の床はまだ拭きやすいので、垂らしたのが此処で良かったな、と思った。
見上げる僕の前で噛み殺すように笑った里奈理さんが、僕の後頭部に手を回して金具を外す。涎まみれの轡が外れて、小一時間ぶりに口が自由になった。
「あ、べ、ぷぴょ」
「ああ、その奇声、轡だからじゃなかったんだ?」
「あ、あ、あっ、り、り、りり、りりなりさん」
「はーい、里里奈理さんだよ」
「す、す、しゅ、す、すきです」
「うん、知ってる」
知られていた。やった。嬉しい。里奈理さんは僕が里奈理さんを好きだと知っているのだ。そりゃまあエロ漫画描いてたんだから知ってるに決まってるけど、僕は里奈理さんを好きだからエロ漫画を描いたのであって、里奈理さんがエロいから漫画を描いたのではなくて、いや里奈理さんはエロいけど、でも、おかずなら誰でも良かった訳ではないので、好きだって知られているのはとても大切なことだった。
好きな人に好きって伝えられたらそれってとっても幸せなことじゃないか? 幸せじゃなかったからこんな人生なんだぞ、と言う十六歳の僕はぶっ殺しておいた。好きな人に好きと伝えると不幸になるが、好きな人にはやっぱり好きだと伝えたい。好きだから。好き。好きです。里奈理さんが好き。知ってください。沢山知ってください。それから殺してください。
「舐めてもらおうかと思ったけど、鼻血出てんならやめとこうかな」
すきれす、すき、しゅきです、と呻き続ける僕の頭を適当に撫でた里奈理さんが呟く。思わず手を振り払う勢いで顔を上げてしまった。もっと撫でていて欲しかったのに手は離れてしまった。
「や、うぁ、と、とっ、とめます、とめます」
「ええ? どうやって?」
「あう、う、うべ、ぺょ、は、はっ、あ、ぺぴ」
「止まってないけど」
「う……ゥ……」
「止まってないよ?」
泣き出した僕に、里奈理さんは手を叩いて笑った。非常にウケてらっしゃる様子だった。鼻血は止まらなかった。止まらないので僕はいつまでも泣いたままだったし、里奈理さんは笑い続けていた。涙が出るほど笑った里奈理さんが、呻いている僕の上で優しく微笑む。女神様みたいに綺麗だった。
「冴坂くん、口開けて」
「んぇ」
「口に出してあげるから、開けて」
やっぱり、女神様みたいに綺麗だった。
口を開いて舌まで垂らした僕の前で、里奈理さんが自分のものを扱く。僕の口に出すために擦ってるんだと思うと、なんだかそれだけで気が狂いそうだった。狂っているのかもしれない。既に僕はこれ以上ないほどに正気を失っていて、この里奈理さんは幻覚で、正気に戻ったら原稿用紙に突っ伏して寝ているのかもしれない。もしくは死ぬ間際に見ている夢かもしれない。徹夜続きでぶっ倒れた頭が作り出した都合のいい世界かもしれない。あとは、そう、並行世界に迷い込んだのかもしれない。里奈理さんが僕にエッチなことをしてくれる世界に迷い込んだのかもしれない。
そんな『かもしれない』を二十個くらい並べたところで、口の中に青臭い液体が広がったので、此処は現実だと言うことになった。里奈理さんでも精液って不味いんだ、と思った。僕の血が不味いのかもしれない。未だに鼻血が止まらないので、里奈理さんの精液と僕の血液が咥内で混じっていた。精液と血液が混じったら、それってもうセックスじゃないか? セックスしてしまった。里奈理さんとまぐわってしまった。DNAレベルで交わっちゃった。出た。
「なんでさっきから全自動で射精してるのかなあ、不思議だなあ」
「……」
「なんで黙るの? 喋りなよ、んぶんぶ言ってるの可愛くて好きだよ」
「すっ、んぃ、しゅ、じゅきッですか」
「冴坂くんってどうやってそんなに気色悪く育ったの?」
本当に不思議そうに尋ねてきた里奈理さんは、きょとんとしたまま股間をしまうと、もぐもぐごっくんした僕を浴室へと引きずった。
洗面台に置いてある歯ブラシを取ってきた里奈理さんが、壁際に座らせた僕の口に濡らしたブラシを突っ込む。歯磨き粉の味がした。歯磨きをされている。好きな人に歯磨きをされる、というのは、なんというか、趣深いものがあるなあ、と思った。
「上の歯と下の歯をごしごししようねー」
「んべ、ぅ、じゅ、ゅ、」
「終わったらちんちんもごしごししてあげるね」
「んひ」
歯ブラシで?と震えたが、里奈理さんはちゃんと持ってきていたプラスチックケースを片手に掲げた。どちらにせよ震えることにはなった。泣いた。泣きながら歯磨きをされている。ついでにいえば勃起もしているので、里奈理さんはたびたび小さく笑っていた。
歯磨きが終わる頃には鼻血も止まった。おくちゆすごうね、と優しく言うわりに少しも優しくない水圧で顔面を濡らされたので、僕は普通に泣いた。ちんこにも当てられたので、下唇を強く噛んだ。イくかとおもった。
「ね、冴坂くん。準備してる間に俺の好きなところ言ってよ」
「ぜんぶです」
「つまんない答え」
「はい……」
「冴坂くんって、人間の言葉喋らない方が面白いよね」
「はい……」
洗面器に注がれたローションと、そこに浸されるガーゼを見ながら掠れた声で頷いた僕に、里奈理さんは素直な感想を口にした。わざと貶されたり煽られたりするよりも深く傷ついてしまった。事実なので傷つく権利もないのに。
涙目で震える僕を膝立ちで見下ろす里奈理さんは、どうやらボールギャグを戻すかどうか迷っているようだった。どうやら相当つまらないらしい。何か面白いことを言わねば。面白いことなんて言ったことないが。人生で一度もない。何も面白くない人間であり、何も面白くない人生である。冴坂千里とはそういう男だ。
早く死んだ方がいい、と心の底から思った。これ以上里奈理さんに詰まらない思いをさせる前に死んだ方がいい。できればローションつきのガーゼがちんこを覆うより早く死んだ方がいい。早急に。早くしろ、助からないぞ。
ねっとりと濡れたガーゼが鈴口に触れた瞬間、僕はこの世の終わりを感じた。反射的に目を閉じるかと思ったが、亀頭が包まれても目は開いたままで、なんなら視線も逸らせなかった。
あの、それ、動くんですか? もういいんじゃないですか? 里奈理さん、出したから、もうそれでいいんじゃないですか? 僕のちんこの面倒まで見ていただかなくてもよろしいのでは、な──!?!!
「んぎッ!?」
「あれ、見てたのに動くの分からなかった? もしかして冴坂くんの目って飾りだったりする?」
「あ゛っ、ぁ、あっ、や、やめっ、り、りりにゃっ、やめッ、やめてくらしゃっ、あっ、やば、ゃばい、やばいからっ」
「はーい、りりにゃさんだよ〜、やめないでごしごしするよ〜」
「んぅ゛っっ」
ぬるついたガーゼが皮膚を擦る。神経を鑢で擦られたみたいな気分だ。広げられた足の内腿が引き攣って、足先が反射的にぎゅうと丸まる。一往復でやばい。やばいのがいっぱい往復している。二回しか数えられなかった。いっぱい往復している。いっぱい。
痙攣するように体が跳ねる。頭も体も本能も理性も全部がやばいと言っていた。やばい。やばいんだって。しぬ。しぬ。
「あっ、ア゛っ、ま、まっへ、やめれ、やや、りにゃりしゃっ、やだっ、ャ、んい゛っっ」
「んん、冴坂くんってやっぱり人間の言葉喋らない方が面白いねえ」
蕩けるような笑みを浮かべ、目を細めた里奈理さんが殊更に強く押しつけ、ゆっくりとガーゼを滑らせる。もはや快楽への反応ではない。ただの刺激に対する反射だ。んお゛、と舌を突き出してのけぞった僕の喉仏に、里奈理さんが唇を寄せる。軽く皮膚を食んだ里奈理さんが、可愛らしいリップ音を響かせた。手元は全然可愛くなかった。
「んぐっ、ぅえ、ッあ゛、むり、むりッ、ちんこ、ちんこばかんなるっ、からぁっ」
「あは、元から馬鹿だろ♡」
「あゥ、う、ゔーっ、ん゛っ、やっ、やあ、やらっ、あ、あーっ、あ、ッ」
「んん? 返事は? ちゃんと『馬鹿です』って言わなきゃダメだよ」
「んぇっ、ぐ、ぅうっ、んっ、う、うゔっ」
往復が止んだかと思えば上から握り込まれて手のひらで撫で回される。逃げようと腰を引こうにも背は壁についているし、開かれたまま縛られた足は閉じようがない。
暴れるたびに後頭部がタイルに当たって鈍い音が立った。痛そう、と笑う声がする。頭部よりも隠部が痛かった。里奈理さんの手が、やはりなんの容赦もなく押し付けたガーゼでちんこを擦る。両足が変な風に攣りそうだった。
「あっ、あ゛ッ、ふぇ、ひい、やめちぇ、まっ、へぅ、あ、あーッ、あ、あっ、しぬ、ひぐ、ちんこしぬ、しぬからっ」
泣き喚いて頭を振っても、眼前の里奈理さんは微笑むだけだった。ゆったりと微笑んで、細められた瞳が熱っぽく潤んで、僕を見つめている。薄く開いた形のいい唇から、劣情の滲む熱い吐息が溢れる。僕が泣き叫べば叫ぶほど、里奈理さんの呼吸は荒くなるようだった。
「やめ゛っ、やめでっ、ごめ、ごめんなしゃっ、やら、うゔっ、んぁ、あーっ、やだ、やだっ、こしゅららないれ、もうやめれ、っごめんなしゃ、なさ、うゔうぅっ」
「え? ん、んん、んふ、え? なんであやまってんの? なんで?」
はあ、と熱っぽい吐息が落ちて、次いで唾を飲む音がした。僕を見つめる里奈理さんの頬が、うっすらと赤く染まっている。
なんで謝っているんだろう。自分でもよくわからなかった。だってこんなに苦しいから。辛いってことはこれは罰だから、僕は悪いことをしていて、里奈理さんのエッチな漫画とか描いちゃって、だから謝れば許してもらえて、これは終わるはずで、だから、苦しいから。苦しいから謝っている。
「ごめ、ごめなしゃっ、やら、もうやら、っ、あや、あやまるがら、ゆゆしてくらさいっ、ゆる、んぎぃっ」
「謝らなくていいよ」
優しい笑みだった。大好きな人に十年ぶりに出会ったみたいな、蕩けるような柔らかい笑みだった。
「謝ってもやめないから、謝るだけ無駄だよ」
はひゅ、と息を呑んだ僕に、里奈理さんは堪えきれないとでもいうように舌先で唇を舐めた。無駄、と言われているのに謝ってしまう。謝っても終わらないのに。じゃあ、どうすれば? どうすれば終わるんだ、これは。
ガーゼを剥がされ、捏ね回すように手のひらが撫でてくるだけで情けない鳴き声が漏れた。んきゅう、とかいう感じの。きつく目を瞑った僕の耳元で、浅い呼吸音が響く。飢えた獣じみたそれが里奈理さんのものであることは間違いなくて、だからこそ恐ろしくて目を開くことが出来ないでいる僕に、里奈理さんは常より低く、甘い声で囁いた。
「ね、それより、やめてって言ってよ」
「ひぅ、ゔっ、や、ぅっ、り、なりさ、うゔっ」
「やめてって言って、やめたくないから」
ぐちゅぐちゅと扱き上げてくる手は、僕が吐精しても止まる気配がなかった。元からやめてないじゃん、とぐずりそうになったが、里奈理さんにねだられたからには言わなければいけない気がして、僕は叫びすぎて痛みすら覚える喉から声を絞り出した。
「やめ、やめてくださ、っ、やめちぇ、んゔっ、ぁう、うーッ、いたい、い゛っ、い、やめっ、やめひぇっ、りなりしゃ、やめへ、もお、もおやら、」
「もっと」
「あゔっ、う、いたい、ちんこいたいぃっ、やだ、やめっ、やめてっ、んぇっ、やめで」
あー、いい、と吐息混じりに呟いた里奈理さんが擦る手を早める。もう既に限界だったところに更に刺激を加えられた僕は、視界が一瞬白く染まって、汚い声で派手に喘いでから、里奈理さんの手の中で失禁した。出る、と思った時にはもう出てた。やばいと思った時にはもうやばかった。潮じゃないのはなんかもう色を見れば分かった。分かりたくなかった。
泣き叫んで逃げ出したかったが、全身が硬直と痙攣と脱力を小さいサイクルで繰り返していて、少しも自力で動かせそうになかった。
僕から吐き出された液体が里奈理さんを濡らしている。白いズボンがびちゃびちゃだった。泣きたくなった。既に泣いてるけど更に泣きたくなった。上からも下からも体液を出しまくっていて、そろそろ脱水症状の心配をした方がいい感じだった。つまりは何もかもお終いってことだ。
「り、里奈理、さ、ごめ……なさい……」
「ん? どうして謝るの? 冴坂くんは謝るの好きだね」
「……よ、よごしちゃって……」
「ああ、うん。いっぱい出たね」
恐ろしいことに、里奈理さんはここまで来ても尚、女神様みたいに綺麗だった。さっきまで僕のちんこを虐めて、泣いて喚かせて興奮していた癖に。この状態で、僕が粗相をしたので仕方なく洗ってあげてるだけですよ、と言っても十人中八人は信じそうなくらいだった。
「丁度いいし、このまま二人でお風呂入っちゃおうか」
「おひゅろ」
「本当は俺に挿れさせてあげてもいいんだけど、今日準備してないし、流石に冴坂くんも疲れたでしょ?」
『はい』と『いいえ』が混じって「はえ」と呟いた僕を無視して、里奈理さんは鼻歌混じりにビニールテープを剥がし始めた。太腿と脹脛が鬱血した両足と、手首に痣が残った両腕が解放される。自由だ。自由になってしまった。
自由になった僕の前で、里奈理さんが服を脱ぐ。自由になったところで指一本動かせる気がしないし、流石にちんこももう元気がなかったので、僕は里奈理さんの均整の取れた身体を惚けたように眺めるしかなかった。
洗濯されたぬいぐるみみたいに壁に寄りかかって横たわる僕を、服を脱ぎ終えた里奈理さんが見やる。
「冴坂くんは服着たままお風呂入るタイプ?」
「……うごけません、ちからが、ぬ、からだの……」
「いっぱい出したもんねえ。よしよし、俺が脱がせてあげようね」
「やったあ……」
死ぬほど嬉しかったのに死にかけみたいな声しか出せなかった僕に、里奈理さんは本当に限界だと察したのか、比較的優しく服を脱がせてくれた。僕の精液を僕の服で拭ったのは見なかったふりをした。
椅子に座らせてくれた里奈理さんが、僕の身体を泡立てたボディソープで洗い始める。夢みたいに嬉しくて泣きたくなったので泣いていると、鏡の中の里奈理さんと目が合った。瞬く内に涙の滴が落ちて、少しだけ鮮明になる。そういえば眼鏡外してる。可愛い。
鏡越しに視線を交わしていると、シャワーを手にした里奈理さんが泡を流し始めた。丁寧に洗われている内に、なんだか恋人みたいだな、なんてとんでもないことを思った。思ってしまった。
恋人みたいだって。里奈理さんと僕が。恋人。恋人、に、なれたら、どれだけ良いだろう。なりたい。身体の関係から始めちゃいたい。あわよくば。あわよくばそうなりたい。昨日までの僕だったらさっさと死ねと金槌でぶん殴るところだが、今の僕はそう願ってしまう僕だった。
だって、里奈理さんが準備、したら、入れてもいいって、言ってたし。えっちな漫画を描いても怒られなかったし。里奈理さんも興奮してたし。僕で勃起してたし。恋人。恋人になりたい。どうすればなれるんだろう。恋人ってどうすればなれるんだろう。どういう方法でみんな恋人になっているんだ? どんな手続きで?
「り、里奈理さん」
「うん?」
「あの、ぼく、あの、り、りりなりさん」
「なんかまた気色悪いモードになったな」
「しゅきです、す、なんですが、しゅす、すきです」
「知ってるよ」
「どうしたら恋人になれますか?」
「なんでそこだけ流暢なの」
く、と笑いを噛み殺した里奈理さんは、泡立てたシャンプーで僕の頭を洗いながら、少し考えるように目を閉じた。考えてくれる余地があるらしい。生まれてきてよかった。死んでもいい。
丁寧な仕草で髪を洗う里奈理さんが、もこもこにした僕の髪を指で梳きながら流す。
「冴坂くん」
「はい」
「俺ね、俺が死んだらついてきてくれる人が好きなの」
シャンプーを流し終えたお湯が途切れる。導かれるように顔を上げ、見つめた先で、薄く微笑んだ里奈理さんが僕を見下ろしていた。
「冴坂くん、俺が死んだら死んでくれる?」
何かの比喩や冗談でないことは、すぐに分かった。里奈理さんがどれくらい本気なのかは、その瞳を見れば充分に伝わった。
里奈理さんは限りなく真剣に僕に問いかけていて、僕はそれに真剣に答えなければならない。と思った。思ったが、それを聞いた時に僕の口からは、真っ先に、何の思考も理屈も無しの言葉が飛び出していた。
「い、いいんですか?」
いいんですか? 僕なんかが里奈理さんのために死んでも。僕のこのクソみたいな人生が里奈理さんのために終わってもいいんですか? それってつまり僕の命に『里奈理さんのため』という価値がつくんですよ。ついちゃうんですか? 本当に? いいんですか?
本当にそんなことが許されるんですか? だとしたらそれはもう、奇跡みたいな愛だ。僕は里奈理さんのために死ねるらしい。しかもそれを彼が望んでいるらしい。
嬉しすぎて涙が出てきた。
泣きながら笑い出した僕に、里奈理さんはにっこりと、やはり女神様みたいな笑みを浮かべて、嬉しそうに口付けた。
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