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第2話

さようなら最悪の人生。こんにちは最高の人生。  おめでとう。里奈理さんと僕はめでたく恋人になりました。  多分。きっと。恐らく。  ──というのは、僕は確かに恋人にしてもらえたと思ったけれど、思い返せば実際里奈理さんの口からはっきりと恋人になろうね、と言われた訳ではないし、朝起きたら部屋には里奈理さんはいなかったし、となると夢だったかもしれないし、ローションで濡れたガーゼはゴミ箱に入っていたし原稿用紙も破れていたから現実だけれど、とにかく、僕と里奈理さんが恋人であるという証明が何もなかったから、確証もなかった。さっきぶりだね最悪の人生。顔を出さなくていいです、帰ってくれ。  冷静になってみると、勝手に顔と名前を借りてエロ漫画を描いてた相手と恋人になれるはずがなくないか? 『おちんぽすごい♡ 初めてなのに♡ 感じちゃう♡』とか言わせてた相手と付き合おうとか思うか? 思わないな。  ついでに断っておくが、里奈理さんは『初めて』ではない。僕が描いた漫画の里奈理さんは処女だけど、現実の里奈理さんは処女ではない。これは資料として購入した里奈理さんのハメ撮り写真からも明らかだ。入手先は彼の恋人たちである。たち。複数だ。里奈理さんの彼氏さんたちはみんな、出待ちしていた僕が泣きながら『里奈理さんのえっちな写真が欲しいんです、横恋慕なんかしません、僕、僕、里奈理さんのえっちな写真が欲しいんです』とお金を差し出すと優しく、心底同情した顔で画像を送ってくれるのだ。通報されなかったのは奇跡に近い。  ちなみに、みんな持ってた。ダメ元で何人かに頼み込む予定だったけど、みんな持ってた。みんな、最中の、お尻にちんちんを咥え込んだ里奈理さんの写真を持っていた。ばら撒かれたら大変なんじゃないか、と思ったが、多分里奈理さんは少しも気にしないんだろう。  一人は動画まで持っていて、僕はそれをありがたく頂戴したのだけれど、結局見ることができないままお気に入りフォルダに入れている。見る勇気はない。想像だけで興奮しすぎて三回抜いたから、多分見たら永遠にちんこを擦り続ける馬鹿になってしまうと思って、怖くなったから、開いてない。僕にしては賢い選択だと思う。賢く性欲を緩和しようとした結果、何故か里奈理さんのエロ漫画を描き始めていたので、恐らく賢くはないとも思う。恐らくっていうか、確実に。  処女ではないと知っているのに処女にしてしまったのは、もちろん、僕が里奈理さんの初めてになりたかったからである。  僕があの程よく鍛えられたお尻に突っ込む初めての男になりたかったからである。残念ながら現実では既にイボとかついたすごいバイブが入っていた。なんか。すごかった。『これ、オナニー見せてって言ったら送られてきたやつ』と言っていた。里奈理さんってオナニーするんだ、と思ったときの衝撃を今でも覚えている。今も鮮明に思い出せる。里奈理さんってオナニーするんだ。宇宙ってすごい。  何の話だったか。里奈理さんのオナニーの話だったっけ? お風呂場ですっごいでっかいディルドを股の前に置いてピースしてる写真の話だったっけ? ディルドってちんこ隠すのにも使えるんだ、と変に感心した覚えがある。隠したところで形状がちんこなので修正としては難があるけど。ん? エロ漫画の話だったっけ? あれ? ……あれ?  一人きりの部屋でずくずく痛むちんこを労りつつ転がり続けて一時間、気が狂いそうになったので、僕はとりあえず里奈理さんの部屋に行くことにした。里奈理さんは今日はお休みの筈なので、何か予定が入っていなければ家にいる筈だった。  玄関を出て、右隣の部屋の前まで進む。インターフォンを鳴らそうとして、ボタンに触れる直前に指が止まった。深呼吸をひとつ。押そうとして、やっぱり指が止まる。手が震えて、そこから少しも動けなくなってしまった僕は、そのまま三十分ほど同じ体勢で固まっていた。  好きな人に好きだというと、人生が暗転する。それは僕の二十年の経験の中では揺るぎの無い事実だった。此処で里奈理さんを呼び出したとして、僕は何を言うんだろう。好きです、付き合って下さい? 冷や汗が凄い。吐きそうだった。背中が痛い。視界が回るような感覚に振り回されて、倒れそうになる前に蹲った。呼吸が上手く出来なくて、息を吸おうと開いた口から涎が垂れる。  里奈理さんが好きだ。恋人になりたい。すごく恋人になりたい。僕は里奈理さんが好きで、里奈理さんは僕を好きか、ちょっと分からないけれど、僕が里奈理さんの為に死ねるなら、好きになってくれる筈だった。里奈理さんに好かれたい。また頭をよしよししてもらいたい。ついでにちんちんもよしよししてもらいたい。 「あれ、冴坂くんじゃん。人の家の玄関前で何やってるの? マーキング?」  吐きそうで目眩がして死にそうで呼吸もままならないのに勃起していた僕は、そこで開いた扉に頭を打ち付けてひっくり返る羽目になった。  財布を片手に玄関扉を開けた里奈理さんが、きょとんとした顔で僕を見下ろしている。小首を傾げた里奈理さんは、後ろ手で扉を閉めて鍵を掛けると、ひっくり返ったままの僕の股間を、軽く革靴の底で踏んだ。強ばった身体のまま跳ね上がった僕を、蝉みたい、と笑う。 「り、りりりりなりさん、おは、おひゃようごじゃいます」 「おはよう、もう昼だけど」 「お、おでかけですか」 「ちょっとコンビニ」 「そう、そ、そうですか」  踏まれただけで出なくてよかった、と思いながら廊下に正座した僕を、里奈理さんは玄関扉に寄り掛かりながら見下ろした。眼鏡越しの瞳がさっと廊下を確認する。人気が無いことを確かめた里奈理さんは、正座した僕の前に屈み込むと、緊張のあまりはふはふと開いたり閉じたりを繰り返している僕の唇を、長い指の先できゅ、と摘まんだ。 「ね、冴坂くん。ちんちん出してよ」 「ふぇ」  何言ってるんだこの人、と思った。  外ですよ。外でちんちんを出したら犯罪なんですよ。 「む」  りです、と言おうとした僕の唇を、里奈理さんの親指と人差し指が窘めるようにむにむにと摘まむ。むにむに。口答えを許さないタイプのむにむにだった。  鼻息が荒くなる。さっきまでの、胸が押し潰されそうな息苦しさとは、違う呼吸の乱れ方だ。  酸欠か、興奮か、錯乱か、何かはわからないが、何かに急き立てられるようにズボンを下す。お風呂あがりに着替えたままのスウェットから、ちんこがぴょこんと出る。なんで僕パンツ履いてないんだろう、と今更思った。  はふはふ言いながらちんこを出した僕の頭を、里奈理さんの手のひらが撫でる。昨日、里奈理さんに乾かしてもらった髪だ。今思い出した。里奈理さんはお風呂上がりの僕を丁寧にバスタオルで拭いて、抱っこするみたいにして髪を乾かしてくれたのだ。あんなに優しくされたのは人生で初めてかもしれない。 「冴坂くんはいいこだねー、よしよし」  感極まって潤み出した僕の目を見つめた里奈理さんが、髪を撫でていた手で僕の頬を包む。小指だけが遊ぶように耳を軽く掻いてきて、身体が跳ねたせいでちんこもちょっと揺れた。 「じゃあ、俺が帰るまでそのままで居てね」  涙が引っ込んだ。はぇ、と間の抜けた声を溢し、呆然と見上げる僕の視界で、にっこり笑った里奈理さんが手を振る。 「すぐ戻るから」 「え、えっ、ちょ、り、里奈理さん、こ、っ、このままって、このまま? このままですか?」 「うん、そのまま。そこで、自分でおちんちん出した格好で俺が帰るまで待ってて」 「だ、え、だ、っ、誰か、誰か来たらどうするんですかっ?」 「え? 捕まるんじゃない? 外でちんちん出したら犯罪だもんね」  分かってるのにやらせようとしてるのか、この人は。百歩譲って勃起したまま正座で待て、ならやった。でも局部の露出は流石に無理だ。だって僕が恥ずかしいだけじゃなくて、見た人がショックを受けるかもしれないし、だから、駄目だと思う。でも、里奈理さんは駄目だとは少しも思っていないんだろう。だってその状況で捕まるのは僕だけで、里奈理さんではないし。そういう人だ。 「大丈夫だよ、十分くらいで戻るから」 「じゅっ、じゅ、じゅっぷんも? むり、むりです、無理です、りり、むり、むりなりさん!」  立ち去ろうとする里奈理さんの足に縋り付く。振り返った里奈理さんは詰まらなそうな顔こそしていなかったものの、これといって楽しそうな顔もしていなかった。要するに、僕がもっと楽しいことを提示しない限り確実に『そのまま』放置されるということだ。  どうしよう。どうすれば里奈理さんに強制露出以外で満足してもらえるだろう。焦燥感で掻き混ぜられた思考を必死に繋ぎ合わせて答えを探す。 「里奈理さん、あの、あ、あの、ぼく、僕、」 「うん」 「し、しつ、室内犬なんです」 「うん?」  首を傾げる里奈理さんの声に、少しだけ笑いが混じった。 「お、おうち、おうちの中がいいんです、おうちでおるすばんしたいです、ちゃんと待ってますから、里奈理さんのいうとおりに待ちます、だから、あの、あの、」 「冴坂くん」 「ひゃい」 「お手」  差し出された手に片手を乗せる。おかわり、と言われるので逆の手を差し出し、ちんちん、と言われたので身体を持ち上げてちんちんを振ると、ぺちんと叩かれた。出そうだったけど、外だから、変に緊張して何にも出なかった。涙は出た。  僕のちんちんを叩いた手を僕の服で拭った里奈理さんが、ポケットから鍵を取り出す。玄関扉に差し込まれた鍵が回るのを見つめながら、悪魔に救いを求める人って多分こんな気持ちだ、と思った。  里奈理さんの部屋の扉が開かれる。僕の部屋と同じ間取りのはずだけれど、玄関先から受ける印象は随分と違った。僕がいかに素敵物件をセンスで台無しにしているか分かる。 「おいで、冴坂くん」  扉を開いた里奈理さんが、僕を手招く。立ち上がりかけて、やっぱりやめて、四つん這いでぺたぺたと玄関に入り込んだ僕に、里奈理さんはご機嫌に唇の両端を持ち上げた。どうやらちゃんと正解を選べたらしい。  扉が閉まる直前、エレベーターから降りてきたらしい複数人の女性を耳にして、身体が強張る。よかった。あのまま放置されなくて、本当に良かった。  幾つか並んだ靴を汚さないように端の方で丸まる僕に、適当に靴を脱ぎ捨てた里奈理さんが洗面台へと向かう。水音がして一分ほど待った頃、濡れたタオルを手にした里奈理さんが戻ってきた。 「とりあえず手を拭こうか。あ、そうだ、服は全部脱いでね」  るんるんで僕の手を拭いてくれた里奈理さんは、にっこり笑ってそんなことを言った。脱いだ靴を隅の方に寄せた僕は、そのまま、にこにこと笑う里奈理さんを見上げる。 「全部、ですか?」 「全部だよ」 「……ええと、」 「背中が気になる?」  目を細めて問いかけてきた里奈理さんに、僕はそこでようやく、ああ、彼にもちゃんと見えてたんだ、と気づいた。昨日のお風呂で何も言われなかったから、もしかしたら僕が見てないうちに消えてなくなったのかと思っていた。そんなことはない。一生残るよ、と医者のお墨付きだ。 「里奈理さんが気にしないなら、僕は、別に」  首を横に振った僕に、里奈理さんはちょっと意外そうに目を瞬かせた。嘘だと思われているのかもしれない。でも、心の底から本当だった。僕は別に、気にしたことはない。銭湯も温泉もプールも行けないだろうけど、どれも物凄く行きたいわけじゃないし、僕みたいなのは多分一生、病院以外で人に裸を見せる機会もないし。無いと思ってたし。  たった今僕に裸になれと言った人が気にしてないなら、僕だって少しも気にならなかった。いや、裸になれといわれたこと自体は、気にするけど。だって裸だし。里奈理さんの前で裸になる訳だし。里奈理さんの前で? 裸に?  ぎこちなく服を脱ぎ、股間を隠しながら座り直した僕に、里奈理さんは靴下を履いたままの足でちょっかいをかけてきた。手を退けろとの指示である。 「今日も元気だねえ、昨日あんなに出したのに」  里奈理さんの目が見れず、俯いたまま両手を退けた僕の耳に、心底感心したような声が届く。煽られるよりも恥ずかしくなるのは何故だろう。なんだか悪いことをしている気がしてきて、ごめんなさい、と呟いた僕に、里奈理さんは何で謝るの?と笑った。 「冴坂くんは本当に謝るのが好きだね」 「べ、べつに、好きって訳じゃ……」 「じゃあなんで謝るの? 悪いことした訳でもないのに」 「……わ、わるいことは、し、しました」  ふに、ふに、と靴下の足が僕の股間を踏むので、やや集中に欠けた声音になってしまった。けれど、言わなければならないことはきちんと口に出来る程度には、理性くんは仕事をしていた。 「僕、あの、僕は、里奈理さんの、里奈理さんで、えっちな……えっちな漫画を描きました……それは、その、わ、わるいことです」 「そうかな。ネットにアップした訳でも俺に送りつけた訳でもないし、犯罪でもないじゃん?」 「で、でも、里奈理さん、や、やな、嫌なきもちになったでしょう」 「え? 全然」 「え?」  顔を上げた僕に、里奈理さんの瞳がぱちり、と一度瞬いた。僕が驚いていることに驚いている、という感じの顔だった。僕は里奈理さんが驚いていることに驚いているので、どっちも驚いたまま首を傾げることになった。 「え、え、だって、僕、あの、里奈理さんのこと、あんな風に描いた、描いたんですよ、そんなの、だって、ひどい、ひどいことじゃないですか」 「どうして? 冴坂くんはただ自分のちんちんを謎に立派に描いて俺をメスイキさせる漫画をこっそり描いてただけで、俺に直接危害を加えた訳じゃないでしょ」 「そ、それは、いや、その……それは……だって、その、」 「『こんなのはじめて♡ しゅごい♡ いっぱいイっちゃう♡』とか、雑な台詞言わせてただけじゃん?」 「…………しょの……」 「『ああん♡ せんりくんしゅき♡ ちんぽかたい♡』とか言わせてただけじゃん」 「………………ぺも………………」  覚えていらっしゃる。全て。覚えていらっしゃる。いらっしゃった。  破かれた時点で僕の中では半分くらい中身なんて覚えていない里奈理さんのエロ漫画を、破いた当人である里奈理さんはしっかり覚えているようだった。素晴らしい記憶力である。何故か台詞を言うときに描いた表情も再現してくれたので、僕の股間は謎に元気になってしまった。立派にはなってくれなかった。 「それともアレって何処かにアップする用の漫画だった? そんな訳ないよね、だって冴坂くんも俺も本名だったし、なんだっけ、背景?のマンションももろに此処だったし、隠す気ゼロでバレたら一発でアウトだもんね。自慰用でしょ?」 「……………………」 「俺でエッチな漫画描いておちんちん擦ってたんでしょ?」 「……………ぴゃぴ……」 「情けない返事だなあ、漫画の中の冴坂くんはあんなに立派で、とっても格好良くリードしてくれてたのに」 「ぴょ………………」  零れ落ちた涙が膝に数滴落ちると同時に、里奈理さんが僕の前に屈み込む。鼻先を寄せ、じっと僕を見つめる里奈理さんの瞳にはやはり、熱っぽく、それでいて冷えた光が宿っていた。 「なんだっけ? 『里奈理さんがこんなに淫乱だとは思わなかったなあ、ほら、大好きなちんぽですよ』だっけ」 「ん゛」 「『ちゃんと根元まで咥え込めてえらいですね』」 「んぇ……ゔ……」 「『一発でへばっちゃったんですか? 僕がイくまで続けますよ』」 「も、もおやべて……やべてください……ゆるして……」  丸暗記だ。丸暗記している。この人。自分がネタのエロ漫画を、一回通しで見ただけで丸暗記している。細部まで完璧に。現実の情けない僕の前で、妄想のたくましい僕の朗読をされている。心底辛いが、自業自得なので僕からは許しを請うことしか出来なかった。  唇が触れるような距離で朗読を終えた里奈理さんが、べそをかき始めた僕のちんちんを指で弾く。うひゃん、とか変な声を出した僕に、里奈理さんは喉を鳴らして笑いながら立ち上がった。  鼻歌交じりにクローゼットを漁った里奈理さんが、赤い紐のついた首輪を引きずり出す。なんでそんなものがあるのかは聞けなかった。誰に使ったのかも聞けなかった。何も聞けないまま、ご機嫌な里奈理さんが僕の首にそれを括り付けるのを見ているしかなかった。 「漫画の中の冴坂くん、かっこよかったな~。ちんちんも立派で、持久力もあるし」 「……ぅ…………」 「冴坂くんも漫画の冴坂くんみたいにかっこよくなりたいよね?」 「んぇ?」 「ね?」  紐を持って歩き出した里奈理さんが振り返って言うので、僕は四つん這いで後を追いながら頷いた。『頷け』とレンズ越しの目が言っているので。頷いた。  ダークブラウンで落ち着いた色合いの家具がセンス良く並ぶリビングを、全裸で四つん這いの僕がリードを引かれて歩いている。先走りが絨毯に落ちないか本気で心配しながら慎重に後を追う僕を寝室まで連れて行った里奈理さんは、防水シーツの敷かれたベッドに腰掛けると、ぱん、と軽く手を打った。 「よし、じゃあちんちんのトレーニングをしようね」 「……とれーにんぐ」 「冴坂くんの早漏ちんぽをせめてまともにセックス出来るくらいには保つようにしようね」  無言で涙目になった僕に、里奈理さんは小首を傾げて可愛らしく笑った。 「俺とセックスしたいでしょ?」 「はい!」 「こ、声デカ」  やや食い気味に答えてしまった僕を前にして、里奈理さんが口元を抑えたまま肩を揺らす。堪えきれない笑いがしばらく続いた後、はあ、と吐息を零した里奈理さんは気を取り直すように咳払いをひとつ響かせた。 「とりあえず、射精を我慢出来るようになろうか」 「なれる気がしません……」 「そんな絶望した顔しなくても……」  本心からの台詞だった。笑いの残る顔で僕を見下ろした里奈理さんが、やっぱり小さく笑いながら後方へと手を伸ばす。ベッドの上に並べられていた性玩具の中から非貫通型のオナホールを拾い上げた里奈理さんは、リードを引いて僕を立たせると、ベッドに上がるように目だけで示した。 「帰ったら使うつもりで準備してたけど、冴坂くんに使ってあげる。一緒に頑張ろうね」 「う、うぇ、あ、ひゃい」  使う。使うとは。準備。使うつもりで準備していたオナホール。ディルド、尿道プラグ。あと、なんだあれ。えーと、あ、アナルビーズ……。  防水シーツの上に並べられていたのは、どこからどう見てもオナニーの準備だった。里奈理さんってオナニーするんだ。しかもなんかすごい、あの、えっ、前も後ろも使うんですか?  宇宙に思いを馳せながら腹を見せて転がった僕の隣で、ベッドの端に腰掛けたままの里奈理さんが幾つかの玩具を脇に避ける。 「えーと、冴坂くんに使うならこれとこれは要らないね、あ、これは使うけど、今じゃないからしまっておこうか」  ディルドとアナルビーズがしまわれた。よかった。尿道プラグは不穏な言葉を残してしまわれた。『使いたい』ではなく『使う』と言われてしまった。確定事項だ。そんな。そんなことありますか。僕、尿道プラグ使われる予定が人生に組み込まれているんですか?  こんにちは最高の人生。さい、最高? 怪しくなってきたが、僕を見下ろす里奈理さんが優しく微笑みながら髪を撫でてくれるだけで人生は最高になった。ちんちんも元気になった。  なんだろう、昨日よりも優しくされている気がする。恋人だからかもしれない。あれ、恋人だったっけ? 恋人なのかどうかを確かめに来たんじゃ無かったっけ? なんで首輪をつけられてちんちんのトレーニングをすることになっているんだろう。 「何か聞きたそうな顔してるね」 「え、えと……あの……僕……」  僕は里奈理さんの恋人ですか?と聞きたかったが、やっぱり勇気が出なかった。違うよ、と言われたら舌を噛み切って死ぬかもしれない。恐怖で震える僕の舌は、逃げの一手を打って、当たり障りない、けれど、一応本当に確認したかった問いを投げた。 「僕、お、お尻は無事でいられるんですか」 「うん? 無事ってのは、どういう状態?」  オナホールにローションを垂らす里奈理さんが、適切な量を見極めながら問いを投げ返す。そろり、と先程しまわれた肛門用の玩具を見やると、納得が行ったような相鎚が聞こえた。 「ああ、うん。冴坂くんのお尻は弄らないよ」 「そ、そ、そうですか」 「俺が弄ったら多分、冴坂くんはお尻に入れられることしか考えられなくなっちゃうからね」  にっこり笑った里奈理さんは、そんなことないんじゃ、となけなしのプライドを持ってちょびっとだけ思った僕に、笑みの形をしていた瞳をやや冷めた様子で細めた。 「賭けても良いよ、俺が開発したら、冴坂くんは俺にお尻に入れてほしくてたまらなくなって、それしか考えられなくなる。お願いだから抱いて下さいって所構わず縋り付いてきて、俺の足下でオナニーし始めるよ、絶対」 「そ、そん、それは、そんな、流石に……そんなことは……」 「だって俺、俺自身でもそうやって調教できる自信あるもん」  ひゅ、と喉が鳴った。レンズ越しの冷えた視線が、本気の色で僕の身体の輪郭を辿る。言葉の響きだけは可愛らしく装飾されていたが、奥に潜む自負の熱は限りなく本物だった。僕と里奈理さんの快楽耐性なんて、比べるまでもなく明らかで、そんな彼が『自分自身ですら落とす自信がある』というのなら、きっと僕なんかマッハで雌堕ちするんだろう。怖い。素直に怖い。  想像だけで震え始めた僕に、里奈理さんは僕のちんちんにもローションを軽く塗りつけながら笑った。 「だから冴坂くんのお尻は弄らないよ。大体、ちょっとでも手を出したら俺も止まらなくなっちゃいそうだし」 「……な、なっちゃうんですか」 「なっちゃうよ。冴坂くん、俺が付き合った中で一番俺の好きな反応するから」 「…………………………………………………………………………」 「……冴坂くん?」 「…………………………ちゅ」 「ちゅ?」 「ちゅきあってるんですか、ぼくら」 「え、酷いな。昨日恋人になってくれるって言ったのに、忘れちゃったの?」  いいえ、覚えています。多分自分の名前を忘れてもこれだけは覚えています。だって風呂上がりからの記憶が微妙だったのに、『恋人になろうね』と言われていないとははっきり覚えていたんですから。  里奈理さんは僕の恋人だった。恋人になろうね、とは言われてなかったけど恋人だった。世の中の恋人ってどうやって恋人かどうか確認してるんだろう? ステータス表示みたいに恋人ですって頭上に出れば良いのに。そうすれば浮気とかもなくなるのに。浮気。あれ、でも、あ、そうだ、里奈理さんって、『恋人が同時に複数いるタイプの人』だろうか? 「りりいりりなりさん」 「はいはい、リリーリリナリさんだよ。誰だよ」 「……ぼく、ぼくと、ぼくとだけですか、恋人は、ぼくだけですか、僕は、僕が、僕だけが里奈理さんの恋人ですか?」  腹を見せる犬のポーズで、震え声で、噛み噛みで、それでも真剣に聞いた僕に、里奈理さんは手持ち無沙汰気味にオナホールに指をくちゅくちゅしながら頷いた。 「そうだよ」  出た。 「…………コックリングも用意しときゃよかったな」 「しゅみません……………………」  ちんちんを見下ろしながら素で呟いた里奈理さんに、思わず顔を覆ってしまう。あんまりにも情けない醜態だった。でも、だって、そんな、里奈理さんと付き合っているのに、付き合っているから、付き合っている? 本当に? 宇宙ってすごい。 「お、また元気になった。若いなあ」 「り、りなりさんもまだわかいでしょ……」 「冴坂くんより六つも上だよ、知ってるかもしれないけど」 「二十六歳って……えっちですよね……」 「何言ってんだろ」  すみません、自分でも分かりません。顔が熱くてぼんやりしている。熱に浮かされたような気分で里奈理さんを見上げていた僕は、そこでふと頭の隅に引っ掛かった文言を拾い上げた。 「い、一番、いちばんっ、好きなのに、お尻はいじらないんですか」  一番だって。一番。すごい。勃っちゃった。 「そりゃそうだよ、だって俺も絶対抱かれたいんだもん」  出た。 「……だぁから、早いんだって……」  舌打ちしそうな勢いでぼやいた里奈理さんは、しゅみません、しゅみません、と謝る僕のちんちんをローションに濡れた指で弾くと、溜息と共に僕の胸に倒れ込んだ。うひぇ。里奈理さんが、僕の、僕の身体に乗ってる。かわいい。ほっぺた乗せてる。かわいい。 「こんなんじゃ抱かれるまでに何年かかるか分かんねえな」 「しゅ、す、しゅす、すみません……」 「うーん、どうしたもんかな、完全に精神的なもんだろ……寝てる間は出なかったんだから……」  もう少し詳しく聞かねばならない気がする台詞を呟いた里奈理さんは、何も聞けずにいる僕の胸の上でしばらく唸ったあと、不意に明るい顔で身を起こした。 「そうだ、良いこと思いついちゃった」  絶対に悪いことだ、という確信だけがあった。  オナホールを僕のお腹の上に置いた里奈理さんは、濡れていない方の手でスマートフォンを取り出すと、トークアプリの上の方にある会話履歴から誰かに電話をかけ始めた。ちらっと見えたが、下の方にやたらと大量のメッセージが送られていた。未読スルーしているのにブロックも削除もしないのは何故なんだろう。  そういえば僕は里奈理さんの連絡先を知らない。知りたい。聞いたら教えてくれるだろうか。こ、ここ、こ、恋人なんだし。スマホ、部屋に置いてきちゃったな。

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