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第86話

「…せい、先生?」 ハッと意識を取り戻した落合は目の前で不思議そうな顔をしている龍樹をこちらも不思議そうに見返してしまった。 手には濡れた手拭い。 ああそうだ、お祭りに連れてきてもらって、慣れない下駄で躓いて足を捻ったんだっけ。 これまでの記憶がひどく曖昧だ。龍樹や水樹、そして水無瀬も一緒に立派な車で庸に送ってもらって、その後水樹がごゆっくり、なんて言って二人にしてくれたんだっけ。 折角のお祭りなのに。 折角水樹が気を利かせてくれたのに。 ああ勿体無い、全然楽しんでない上にこの足じゃあこれから楽しむというわけにもいかなさそうだ。 「なんか上の空ですね」 「そ、かな…ごめん」 「別にいいです。ほら見せて」 素っ気ない言い方にツキンとする。 龍樹はこういう人混みは苦手そうだし、実際少し疲れた顔をしている。その上連れがこんな体たらくでは機嫌も悪くなるだろう。 「派手に転けましたからね」 「ゔ…ほんと恥ずかしい…」 「笑えましたけど」 「忘れて…!」 ふふ、と思い出し笑いに肩を震わせる龍樹は柔らかい表情をしていた。初めて見た和服姿が新鮮で、妙に大人びて見えて、薄暗くなった落合の気持ちに光を差した。 かっこよくてキュンキュンする。 こんなに素敵なのにじっくり見ないでボーッとしていたなんて、本当勿体無い俺のバカ、と今更ながらに後悔した。 「なんか飲み物買ってきましょうか。酒は買ってこれないけど」 「あ…ラムネ、あるかな?」 「さっきありましたよ、好きなんですか?」 「好きっていうか、お祭りといえばだよね」 学生の時も友人とお祭りに行ったが、成人してからも飲みたくなるのはビールよりラムネだった。 中のビー玉を何とかして手に入れられないか試行錯誤した幼い頃が懐かしくて。 ここで待っててください、と龍樹の背を見送り、その背中が雑踏に消えると、ふうと一息ついて、またぼうっと考え事に耽ってしまう。 考えるのは、橘の屋敷を出る直前。 水無瀬がひっそりと耳打ちした言葉だった。

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