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第1話〜悠ちゃん〜

「ねぇ、今度の日曜、どこ行こっか」  耳元でストラップが揺れた。 「……あ、うん。ごめん。急に電話かけて。ビックリしたよな。でもなんか……声、聞きたくなって」  透明な風が揺れる。 「大丈夫?時間。忙しかった?邪魔じゃない?……うん、ならこのまま話そ。メールじゃやだよ。電話がいい。つかメールって、今はLINE(ライン)だよ。お前もいい加減覚えろって〜L・I・N・E」  透明な薫りがくすぐる。  潮の薫りだ。  碧い陽射しが差し込んだ。  網膜の内側に。  潮騒と混じって、胸の中いっぱいに。  鼻の奥がつんとした。 「ね、今なにしてる?……もう、また教えてくれないんだ。相変わらず秘密主義だな。……俺?俺はさ」  路地の入り組んだ階段を一段上った。 「俺、いまどこにいると思う?当ててみて」  カツン、と靴底が石畳を叩いた。 「ダメだよ、教えない。(ゆう)ちゃんが当てるまで教えないよ」  靴底が石畳を叩いて上る。 「え、悠ちゃんは悠ちゃんだろ。ヤだよー、変えない。『いくつだと思ってるんだ』って?それでも悠ちゃんだからさ」  ねぇ…… 「俺だけの呼び方みたいで、ちょっぴり嬉しいんだ。だから……」  これからも、ずっと。 「呼ばせて……悠ちゃんって」  カツン  靴底が石畳をこすって止まった。  乾いた音が空に飲み込まれる。高く高く、青く青く、透明な風が揺れている。  真夏の灯火が落ちてくる。  鼓膜の中。  碧く凍てつく陽射し…… 「俺達、手を繋いでこの道上ったよね」  寒い寒い海辺の町を。  ちょうど今日と反対の季節に。 「なんで俺達が夫婦役なんだ、って思った」  太陽は雲の中で、(おぼろ)に輝いていた。  海から吹きつける容赦ない潮風の中、俺達は無言で手を繋いで歩いた。  それが『決まり』で、俺達だけの『約束』だった。  『決まり』は、お面を付けて夫婦になっている間は一言も話してはいけないという事。  俺達が密かに交わした『約束』は、これが終わったら、互いの好きな物を交換して食べようというものだった。  悠ちゃんはぜったい焼き芋だ。  紅はるかを昨日スーパーで探してるの見かけたからな。  俺は…… (冷凍庫いっぱいにアイスクリームを冷やしてある)  一番好きなストロベリー。  この寒空の下を歩いてから、アイスクリームを目にした時、悠ちゃんはどんな顔するだろう?  悪戯心を(くす)ぶらせていた。  昨日積もった雪は、北陸独特の水分を重く含んで、ずっしり足の裏に吸い付いてくる。  つま先から這い上ってくる凍てつく寒さが思考をゆっくりと鈍らせる。  せっかく一生懸命、考えた悪戯なのにもうどうでもいいや。  あったかい部屋で、ぬくぬくみかん食べたい〜……ううぅ〜  凍える足を無言で持ち上げて、前に進む。  弱音は吐けない。  吐いちゃダメだ。  面様(めんさま)は無言、って決まってるから。 (あっ)  シャーベットになった雪が足に悪戯した。  気づいた瞬間、もう遅い。体がバランスを崩している。 (転ぶ!)  どうしよう。  声出しちゃいけないのに。  灰色の雲が瞼の裏に見えた。 「っ!!」  強い力にぎゅっと掴まれた。  ………………おしり、いたくない。  頭の上には灰色の雲が垂れ込めていて、薄い太陽が雲の格子から透明な光で浮かんでいる。  俺、立ってる。  転んでない。  ぎゅっと手が、俺の手を握ってくれている。小さいけれど、俺よりも大きな手……  チラリと見たら、お婿さんのお面も俺を見つめていた。  大丈夫?  うん。  けがない?  うん。  気をつけなきゃダメだよ。  ごめん。  きゅっと手を握り返した。  ありがとう、悠ちゃん……  面様が輪島(わじま)に春を呼ぶ。  年が明けて少したった1月、面様が山から海へ。  集落をまわって、各家々から初春の挨拶を受ける。お帰りなさい、って。  そうして暫くたった同じ月、海から山へ。面様は家々をまわり、戻っていく。  悠ちゃんと俺は、今年の面様の夫婦役。  面様は喋っちゃいけない。  ありがとう、悠ちゃん……  伝えたかったけど、伝えられない。  今も、ずっとずっと。  ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……  伝えたいのに、伝えられないよ。  面様になった幼い頃、お面の下できっとそんな会話をしていた。  言葉にしなくても、思いが伝わる。  きっと、そうだったんだ。  だったら、今も……  あの日、ぎゅっと握った手に空から綿雪が落ちてきた。  ふわふわ、ふわん  雪は二人の手の上で、淡く消えて水になった。 「……ずっとそばにいるって言ったじゃないか」  一緒の中学に行って、一緒の高校に通って。大学はさすがに別々かなぁ、って話してた。  でも一緒になったら、まじウケる〜なんて笑ってた。  結局、一緒の大学には行けなかった。  俺は県内にの大学を志望して、ひとり残った。  幼い頃、握った手。  いつからだろう。俺より、ずっと大きくなって。いつの間にか身長も、俺を軽く追い越していた。  だから抗えなかった。  逞しい腕の力に。うぅん、抗いたくなかったんだ。 (俺も悠ちゃんが好きだから)  お前に引かれるままに抱きしめられて、キスした。  お前は心配して、俺の顔を覗き込んだけど全然嫌じゃなかったよ。  悠ちゃんが大好きだから。  何度も何度もキスして、数え切れないくらい手を繋いで。  手を繋いで映画を見た事もあったね。  俺、あの時の映画の内容覚えてないんだ。見ている間中、ずっとドキドキしてたから。  ベッドから差し出された手を握ったのが、最後になっちゃったね……  蝉の声が五月蝿(うるさ)かった。 「悠ちゃん……」  透明な陽射しが瞼の裏で碧く焼ける。 「会いたい」  チリン  鈴の()が揺れた。 「会いたいよ」  熱をはらんだ海風が胸を掻き撫でる。  ストラップが耳元で揺れた。 「もう一度、もう一度だけ」  もう一度だけでも。  抱きしめてほしい。  手を握ってほしい。  手を繋ぎたい。  温もりに触れたい。  キスしたい。  せめて声だけでも…… 「聞きたいよ」  胸に溢れて、押し寄せる思いは透明で、名前を付ける事ができない。  握ろうと、繋ぎ止めようとしても手から溢れ落ちてすがりつく事もできない。  チリン  鈴の音が揺れる。  雪に解けた音が響く。  照りつける真夏の碧い陽射しの下で。 (ずっと一緒にいるって、約束したのに……)  お前は時間を止めてしまったから。  時間はもう交わらない。 「悠ちゃん……」  今日は悠ちゃんの誕生日だね。

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