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The suspension bridge effect

 忘れられない出来事がある。  小学五年生の夏休み、俺は洋兄ちゃんに誘われて一泊のキャンプに出掛けた。  洋兄ちゃん、というのは隣家の次男、洋次郎のことだ。  洋兄ちゃんは昔から……それこそ俺が生まれたときから俺の面倒をよく見てくれて、ひとりっ子の俺は随分と洋兄ちゃんに世話になってきた。  俺と洋兄ちゃんは十歳違いで、本当は俺なんかとより同級生と遊ぶ方が楽しかっただろうに、顔を合わせれば「陸斗」と声をかけてきて、俺に飽きることなくつきあってくれた。  洋兄ちゃんの家とうちは家族ぐるみの付き合いをしていたから、兄ちゃんからキャンプに行こうと誘われたときも、親の許可を得るのは簡単だった。  朝から太陽がギラギラ照っている中、洋兄ちゃんの運転する車でキャンプ場へと向かう。  洋兄ちゃんは高校卒業と同時に免許を取りに行っており、それから二年以上が経っているから、 「もう初心者マークじゃないから陸斗も安心だろ」  と笑いながらハンドルを握っていた。  ふだん冗談を言い合ったり、ゲームをしてるときはあまり思わないけど、運転してる兄ちゃんを見ていたら、ああ大人なんだなぁとしみじみと感じた。  到着したキャンプ場は高原に位置しており、立ち並ぶ木々が太陽を遮ってくれているおかげだろうか、わりと涼しかった。  受付でテントの場所を確認した洋兄ちゃんに連れられて、俺は均された道を歩いた。  道の左右に白いドーム型のテントが立ち並んでいるのが見える。  その一つが俺たちが泊まるところで、テント前には木の看板が立てられており『8』という番号が書かれていた。 「陸斗」  洋兄ちゃんがテントの入り口を開いて俺を手招く。意気揚々と内側を覗いて、俺は目を丸くした。中は、学校行事で行ったキャンプのそれとはまったく違っていて、快適そうなベッドが二つとローテーブル、クッションや座椅子まで備え付けられていたのだ。 「うわぁ~、なにこれ。寝袋じゃないじゃん」  感嘆の声を上げた俺の頭をくしゃりと撫でて、洋兄ちゃんがベッドにダイブした。 「俺はベッドじゃないと寝れねぇの。寝不足で明日運転できなかったら困るだろ」  早速ごろごろと寝転ぶ洋兄ちゃんの姿に、じゃあなんでキャンプなんかチョイスしたんだろうと不思議になった。  その疑問が顔に出たのか、兄ちゃんがよいしょと上体を起こして、 「おまえ、釣りがしたいって言ってたろ」  と言った。 「うん」 「奥に川があってな、そこが釣り堀になってんだよ」 「えっ」  なにそれめっちゃ楽しそう。  俺がやりたいって言ったこと叶えるためにこんな場所に連れてきてくれるなんて、洋兄ちゃん、いいひとすぎねぇ?    結果から言えば洋兄ちゃんとのキャンプは最高だった。  釣りも楽しかったし、炭に火をつけるのも楽しかった。バーベキューはでっかいウインナーや肉だけじゃなく、木の棒に巻き付けたパン生地を焼いたりと美味しいのと面白いのが合体してやばかった。  はしゃぎ疲れて、夜はあっという間に寝てしまった。ベッドの寝心地はふかふかで、ぐっすりと寝た俺は深夜、尿意を感じて目を覚ました。  隣のベッドでは洋兄ちゃんが寝ている。  どうしよう、と束の間考えた。  ひとりでトイレに行くべきか。それとも兄ちゃんについてきてもらうべきか。  テントの幕越しに外の灯りが見えるから、夜道が真っ暗というわけではないだろう。共同トイレは昼間も行ったから場所はわかっている。  でもやっぱり慣れない場所をひとりで歩くのは少し怖い。  俺は恥を忍んで洋兄ちゃんを起こすことを選択した。  こんもりした布団を揺さぶると、兄ちゃんが「う~ん」と唸った。 「陸斗、どうした?」  半開きの目をこすりながら問われて、俺は小声で「トイレ」と告げた。  洋兄ちゃんは「そっか」と頷いて、もぞもぞとベッドから這い出てくれた。 「外冷えるからこれ着ていけよ」  座椅子の背にあったパーカーをオレにぽいと投げて、あくびをしながら洋兄ちゃんがテントの入り口を開く。  兄ちゃんの言った通り、夜の空気は驚くほどに冷たかった。  ぞくり、と背を震わせて俺はパーカーに袖を通した。  洋兄ちゃんが先に立って、共同トイレまでの道を歩く。小道には足元灯があって比較的明るかったけど、奥に視線をやるとそこは闇に沈み、木々のシルエットすらわからなかった。  虫や鳥の声が不気味に響く。  洋兄ちゃんについてきてもらって良かった、と思いながら足を進めていた俺の耳に、不意になにかの音が聞こえてきた。    なんだろう。なにかの動物だろうか?  いや違う。  これは……これは、女のひとの啜り泣く声だ。  暗闇から、苦しげに、かなしげに響くその声に俺は戦慄して、足が竦んでしまった。先を歩いていた洋兄ちゃんが振り返る。 「陸斗?」  数歩の距離を後戻りして、洋兄ちゃんが俺の顔を覗き込んできた。 「どうした?」 「……こ、こえ」  情けないことに俺はぶるぶる震えながら洋兄ちゃんにしがみついた。兄ちゃんが首を傾げる。もしかして俺にしか聞こえないとかそういうオチなのか。俺はいよいよ怯えて必死に兄ちゃんのみぞおちあたりに顔を埋めた。  しかし女の啜り泣きは洋兄ちゃんにもバッチリ聞こえたようで、 「あ~……幽霊、かもな」  聞きたくなかった単語が、兄ちゃんの口から飛び出した。俺はひぃっと短く叫んで、さらに洋兄ちゃんに密着した。やばい。泣きそうだ。  そんなオレに追い打ちをかけるかのように兄ちゃんが、 「陸斗、行きに通って来たトンネル覚えてるか?」  と、低いトーンで話しだした。 「あそこ通るとき、俺、ちょっとゾッとしてさ。なんか嫌な気がしたんだよな」 「やややめろよバカっ!」  恐ろしさに声がブルブル震えた。  顔を上げて洋兄ちゃんを睨みつけたら、兄ちゃんは真剣な顔で暗闇の一点を見つめていて。 「……ついてきたのかも」  なんて、恐ろしいことを呟いた。  俺は我慢できずにとうとう泣き出してしまった。その場にへたりこんだ俺を洋兄ちゃんが抱き上げてくれる。 「行こう、陸斗」 「ど、どこへ?」 「どこってトイレだろ?」 「おばけ、ついてこない?」 「さぁ?」  洋兄ちゃんが暗闇を振り向こうとするのをしがみつくことで制止して、俺はその肩に顔を埋めて怖い怖いと訴えた。  兄ちゃんのてのひらが、背中を繰り返し撫でてくれる。 「陸斗、大丈夫だから」  兄ちゃんにあやされながら辿り着いたトイレは、ちゃんと灯りが点いていてきれいなトイレだったけど、俺は怖くて怖くて中々洋兄ちゃんの腕から出ることができなかった。 「ほら陸斗」  促されてようやくトイレに入ったが、ドアを閉める勇気はなくて、開けたまま洋兄ちゃんに入り口に立ってもらって用を足した。  洋兄ちゃんは帰り道も俺を抱っこしてくれた。  さっき女の泣き声が聞こえた場所をまた通らなくてはならない恐怖にぎゃん泣きした俺をしっかりと抱えて、兄ちゃんはそこをダッシュで抜けて俺たちのテントまで戻った。  テント内にあった照明をぜんぶ点けて、それでも怖さは微塵もなくなってくれずに、俺は洋兄ちゃんのベッドに入れてもらった。  震えている俺に兄ちゃんの両腕が巻き付いてくる。  ぎゅっと抱きしめられてもまだ隙間がある気がして、俺も兄ちゃんにしがみついた。 「陸斗、大丈夫。幽霊が来ても俺が追い払ってやるから」  そんなこと一般人の兄ちゃんにできるはずがない。  そう思ったけど、兄ちゃんの声はしっかりと響いて俺を勇気づけてくれる。 「陸斗、絶対におまえをまもってやるから、安心して寝ていいよ」  洋兄ちゃんが囁く。  絶対にまもるよと繰り返されて、でも、俺の心臓はずっとドキドキしていて。  本当に本当に怖かったから、ずっとドキドキしていて。  ぎゅっと抱き込まれた洋兄ちゃんの胸に耳を押し当てると、聞こえてくる兄ちゃんの鼓動も俺に負けず劣らず早かったから。  自分も怖いのに俺を慰めてくれてたのだと、わかった。  俺は自分と兄ちゃんの心臓の音を聞きながら、いつのまにか眠っていた。

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