「お、懐かしいの見てるな」 　降ってきた声に顔を上げると、洋次郎が俺の手元を覗き込んでいた。 　写真の中の彼よりもずっと大人びた洋次郎が、目尻にしわを寄せて笑った。 「これって十年前だっけ？」 「そ。こないだ家に寄ったときに取ってきた」 「おまえ、意外とマメに写真残してるよな」 　洋次郎の家は写真を飾る習慣がないようだったけど、俺の家は年がら年中家族写真がリビングにあったから、俺も写真が好きだったりする。 　洋次郎が目を細めて俺の手から写真を一枚取り上げた。 　小学五年生の夏休み、洋次郎に連れて行ってもらったキャンプの写真だ。 　釣りをしたりバーベキューをしたり、ものすごく楽しかった瞬間を写真はしっかりと残してくれている。 「このキャンプ場、かなり評判良かったのに、おまえはもう行かないとか言うからな～」 　洋次郎がボヤいた。あれから幾度か誘われたけれど、俺が断固拒否したからだ。 　当然である。あんなに怖い目にあって行けるわけがない。 「ぜってぇ行かないからな」 「なんで」 「なんでって、アンタこそよく行きたい気持ちになるよな。幽霊が出たのに」 　幽霊の話を、実に十年ぶりに口にした。 　話題に上らせることすら怖くて封印していたが、俺ももう成人だ。幽霊に泣き出す歳じゃない。 　しかしあのとき感じた恐怖はいまだしつこく残っているようで、語尾が少し震えてしまった。 　そんな俺を見下ろして、洋次郎が目を丸くした。 　おいおい嘘だろ。あんな衝撃的な体験、まさか忘れたとか言わないよな。 　認知症にはまだ早すぎる、と俄かに洋次郎の頭を心配した俺に、洋次郎が突然肩を揺すって笑い出す。 「くくっ、陸斗、おまえマジかよ」 「はぁ？」 「おまえアレがマジで幽霊だと思ってたのか」 「……え？」 「あれはどう聞いても喘ぎ声だったろ。女の。キャンプで盛り上がってテントでハッスルしてたカップルが居たんだろ」 「…………」 　俺は絶句した。 　幽霊の正体見たり枯れ尾花。 　いや、そんなことよりも。 「あ、アンタが幽霊かもって言ったんじゃん！　トンネルで嫌な気配したとか言って！」 　勢いよくソファから立ち上がった俺の膝から、写真がバラバラと落ちて床に広がった。　　 　洋次郎がなぜかニヤニヤと笑っている。 「あれは俺の作戦」 「はぁ？」 「吊り橋効果って知ってるか？」 　なにを言い出すのか、このオッサンは。 「吊り橋を二人で渡るとな、不安や恐怖でドキドキしてるのを恋のドキドキだと脳が錯覚するんだ」 「だから？」 「だから、それを俺とおまえで実践したの」 「はぁ？？？」 　俺は今度こそ開いた口が塞がらなくなった。 「だっておまえ、ガキの頃から洋兄ちゃん洋兄ちゃんって俺にめちゃくちゃ懐いてきてものすごく可愛かったからさぁ。絶対に誰にもやりたくないって思っちゃったんだよ。でもおまえ、俺を男として全然認識してなかっただろ？」 　認識もなにも、当時俺は十歳だ。猥談よりウンコの話で盛り上がる年齢だ。 「だから、ちょっとでも俺にときめいてほしくてさ」 　照れ臭そうに、洋次郎が微笑む。 　おいなんだよその顔、ちょっとほだされそうになるだろ。 　しかし俺はキッと眉を吊り上げて男を睨んだ。 「ときめいたんじゃなくて、怖くてドキドキしてたんだよっ！」 「でもほら」 　洋次郎が両手を広げる。 「あれがあったから、洋兄ちゃんは俺の初恋だ、って告白してくれたんだろ？」 　俺はぐうの音も出ずに沈黙した。 　確かに。告白はオレからだった。 　あの夜。テントで俺を抱きしめて、陸斗をまもると言ってくれた兄ちゃんが、眩しくて、胸が苦しくて、キュンキュンしてしまったから。 　洋兄ちゃんが俺の初恋なんだって自覚したのだった。 「そして俺はあの幽霊騒動のおかげで、可愛い恋人をゲットして、いまは絶賛ラブラブ同棲中だしな」 　洋次郎が広げた腕を催促するように動かす。 　俺は「クッソ」と口の中で呟いて、仕方なさを装いながら年上の男の胸の中に飛び込んだ。 　あの日と同じ力強い腕が、巻き付いてきて。 　息苦しいほどの抱擁が俺を包む。 　洋次郎の画策のおかげでいまの生活があるのだと思うと、過去のことは水に流してやろうという気になったオレの耳に。 「いや～、それにしてもあのときはラッキーだったよな。まさか陸斗のおしっこシーンを拝めるとは思わなかったし、あれで俺めちゃくちゃ興奮して心臓バックバクだったし、ほんと昔の俺グッジョブだよな」 　なんて、デレデレと笑う洋次郎が台無しなセリフを吐くのが聞こえてきたから。 　俺の初恋はほんとにこの男のでいいのか、と過去の俺に言いたくなってしまった。 　　　　　　 　　　終