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ファイナル・ビュー 4

 元旦の太陽が落ちようとしている。陽が傾き、窓ガラスの向こう側が赤紫にぼんやりと落ち窪んでいる。  コクヨーくんは、スーパーで買ったオードブルを前にして妙にそわそわしていた。一体なんだろう、とカーテンを閉めながら怪訝に思いつつも放っておいたのだが、彼は意を決したかのようにカバンをごそごそしたかと思うと、長細い包みを僕に差し出した。 「……なに? どうしたの、これ」 「……おめでと、ござましゅ」  もごもごと、いつも以上に不明瞭な言葉をぽろぽろっとおざなりに零す。 「ん?」 「……誕生日、おめでとうございます」 「……?」 「……誕生日」 「……、ああ!」  忘れていた。今日は僕の誕生日だった。そういえば、いつだったか何気ない会話の片隅で誕生日の話題が上ったような気もする。 「覚えていてくれたんだ……」  生まれたときから、誕生日は『明けましておめでとう』という新年の挨拶にかき消されてしまうのが常だった。思い返してみれば神社で会った時、父が『おめでとう』と言っていたが、もしかしてあれは僕の誕生日を祝う言葉も兼ねていたのか。  呆けたように、青色の包装紙で包まれたプレゼントの外装を眺める。聖夜、僕からの贈り物をぼんやりと眺めていたコクヨーくんのように。あの時の彼も、こういう気持ちだったのか。嬉しいより先に、用意をしてくれていたという驚きに頭がいっぱいになる。わざわざ、店で頭を抱えながらプレゼントを見繕い、包装紙とリボンを選んで、こっそりカバンに忍ばせて、そしてソワソワと渡すタイミングを見計らって――――。 「えあ、あ、ちょっ、ちょっと、ちょ、あ、あ、秋津さん!?」  慌てふためき、両手をバタつかせる彼の姿がじんわりと滲んで見える。  僕は、また泣いているのか……? 「あ、な、なんで、泣くの……」  突然、大の男がぼろぼろと泣き始めたら誰だって驚くだろう。ましてや、今日涙をこぼすのはこれで二度目だ。コクヨーくんはどうしていいのか分からないという表情で、尚も両手をバタつかせ立ち上がったりしゃがみ込んだりと忙しい。 「ご、ごめん……。今日は涙腺が緩くなってるみたい。なんだか、びっくりしちゃって」 「びっくり、ですか……」 「うん、驚いたよ。……ありがとう、嬉しいなあ」  涙を拭いって破顔する。すると、ようやく落ち着いたのかコクヨーくんは安心したように胸を撫で下ろしてそろそろと包みを指した。開けろという意味らしい。  包装紙を破かないように、リボンをめちゃめちゃにしないように、最大級の慎重さで包みを開ける。和紙で装飾された箱を開けると、美しい緑色のネクタイが収まっていた。ぱきっとした色ではなく、どちらかと言えば紺に近い深緑だ。 「わあ、ありがとう……!」  ネクタイを恭しく取り出し、手のひらの上で撫でる。 「あ、柚葉色というらしい。らしいです、それ。……秋津さんに、一番似合う色かなと思って」 「へえ……」  一見無地に見えるがうっすらと同系色のピンドットが描いてあり、スーツにも違和感なく合いそうだ。 「喜んでくれてよかった。この日のために、俺は頑張れたから」  はにかむ表情に思い至る。はじめてのアルバイト代でこのプレゼントを用意してくれたのだ。彼の努力は、僕のためにあったのか。去年、彼の家で鍋を食べた後、なぜバイトを始めるのかと問うた時に少し歯切れが悪かったのだが、あの時から計画があったのかもしれない。 「欲しいゲームとか漫画とか、あっただろうに……」  鼻の奥がツンと痛む。引っ込んだと思ったはずの涙が再度じわりと染み出し、慌てて袖で拭った。コクヨーくんは少し身を引いて目を見張り、苦笑して僕の冷たい頬を指で拭った。 「秋津さんのため、ですよ。このくらいじゃ全然お返しできないほど、俺は秋津さんからたくさんのものを貰ってますから」  珍しくはっきりとした口調で言葉を紡ぐコクヨーくんを、情けなくも呆けて眺めてしまう。こんなにもしっかりとした彼を前にして、なんて情けない男だ、僕は。 「俺が好きな世界のこと、笑わないで相手にしてくれたの、秋津さんがはじめてだったから……」 「そんな、……そんな簡単なこと。僕こそ、それ以上のものを貰っているのに」  僕の言葉にコクヨーくんは首を振った。真摯な瞳で射貫かれる。 「簡単じゃない。簡単じゃないですよ。俺は、秋津さんに出会ってから毎日がうれしかった。ずっと、うれしかった」  会っている時間も、想っているだけの時間も、ずっとうれしかった。そう言う彼の瞳にうっすらと美しい水の膜が張られる。染み出すように、少しずつ、じんわりと。 「秋津さんが俺の好きなものを必死に覚えようとしてくれた時、本を読んでくれたとき、俺、本当にうれしくて。それに、誇らしかった。他の人がばかにすることでも、俺は好きなんだって、ちゃんと口に出して伝えることができる人がいて、それが秋津さんで、……よかった」 「春斗くん……」  潤んで充血した瞳を細める仕草がいじらしい。しっとりと濡れた睫毛が、瞬きの瞬間に小さく涙の粒を跳ねさせた。僕は胸が苦しくて、きっとそれが表情にも出ている。彼の顔に穿たれた二つの美しい鏡に、その姿が映し出されている。 「ちゃんと、お礼を言えてなかった。ありがとう、秋津さん。俺に話しかけてくれて。……俺の、話を聞いてくれて」  瞳の湖面が揺れる。眉根を寄せ、涙を堪えるように、泣き笑いに似た表情をつくる。 「だいすき、――――誠二郎さん」  大人びた貌でありのままの言葉を連ねていたコクヨーくんの表情がふいにくしゃりと崩れた瞬間、そのすべてがたまらなくなった僕は飛びつくようにして彼の体を抱き締めた。 「春斗くんっ!」 「へわぁっ!」  頬に彼の耳が当たる。触感の違う、他人の皮膚。それがこんなにも愛しいなんて、今まで全然知らなかった。  彼はやはり特別だ。僕の人生で出会うべき、最初で最後の特別な人。隣で息をしてくれているだけで、それだけでうれしい人。  それを今、体中すべてで感じている。 「君のことが大好きだ! 本当は、これから先の未来に春斗くんが女性と付き合ったって、黙って見て見ぬふりするつもりだった。男の僕に抱かれて、執着されて、可哀想だと思っていた。でも、やっぱり嫌だ。君が僕以外の誰かに好かれるのも、想われるのも、嫌だと思う。心底、そう思うよ……」 「秋津さん……」 「呆れるかもしれないけれど、僕はいつだって君の一番でいたい。君が就職しても、歳を重ねていっても、きっと変わらない。春斗くんは、ずっと僕の特別な人だよ」  コクヨーくんのさらさらとした髪に手を差し入れて掻き抱く。こんな情熱が僕の内に眠っていただなんて、信じられない。彼と出会ってから僕は、すっかりかっこ悪い男に成り下がっている。きっとこの姿こそ、僕が彼だけに見せる、本当のじぶんなのだろう。 「秋津さん、秋津さん。……俺も、同じ。秋津さんは、特別です。これから先も、特別。特別、ですよ」  背中に彼の腕が回される。あたたかくて驚いた。心地の良い体温だ。  目にかかりそうな彼の前髪を指で流して瞳をのぞき込むと、僕たちは意図せず同じタイミングで瞬きをした。一瞬、ぼくたちは同じタイミングで夜を見たのだ。こんなふうに、ささやかだけど重要な時間の共有をしていけたらどんなに幸せだろう。隣で成長を見守れたら、それだけで僕はしあわせだ。  僕たちの間に横たわる、広く深い大河に月の橋が架かった。  たとえ、投げ込まれた小石から波紋が広がり橋が砕けようと、湖面はすぐに凪ぐだろう。そしてまた橋は輝く。いつでも行き交い、対岸に留まることだってできる。  きっと、最初から橋は架かっていた。ただ単に、僕たちは橋の渡り方を知らなかった、それだけだ。  出会ったころよりも少し大人びて見える彼に無限の愛しさを感じる。どこまでも湧き上がる。久方ぶりに温かく、独りではない誕生日に、僕たちの甘やかで蜜のような関係はたしかに終着した。  そしてまた、変わらぬ甘痒いとろ火のような日々が続いていくのだろう。  となりで、健やかに息をし続けてほしい。  明日も、来年も、いつまでも飽くこと なく、僕たちはただそればかりを願い続ける。目の前で息づくいのちの行く末を祝福してやまない。  ふたりで飛び越えた河のその先、夜の向こう側でも――――……

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