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ファイナル・ビュー 3

 ――――……。  はっ、と体を起こし、起き抜けの軽いめまいにこめかみを押さえた。  遮光カーテンを引き、午前中なのに薄暗い部屋の中、明滅するテレビのストロボがコクヨーくんの真剣な表情を照らし出している。 「ぅ……、ごめん、寝ちゃってた」  彼がかけてくれたのだろうか、ベッドに投げていたはずのブランケットが僕の体にふんわりと掛かっていた。  よほど集中しているのか、コクヨーくんは前かがみのような姿勢で肘をつき、親指で唇をいじっている。僕の声かけにも気が付いていないようで、熱い眼差しは画面から揺るがない。連動するようにその視線を追い、仕方なく同じように画面を眺めた。  “雪とし、夢見の随。”  復讐を終えた侍が絶望の果てに雪深い山麓で行き倒れそうになったところを、村八分にされた母娘に助けられ心を取り戻し云々というストーリー……、らしい。今時珍しい白黒映画、なおかつ無声映画ということもあって、一部のファンからは熱烈な支持を受けている……、らしい。ネットでそういった紹介のされ方をしていたのでそう認識しているのだが、その実、再生して三十分もしないうちに寝てしまうので物語の結末も何も知らないのだ。  画面の中で、役者と白いニューシネマフォントの字幕が浮かぶ黒背景とが言葉と息継ぎのように交互に映し出されていく。コクヨーくんは瞬きも少なに画面に食い入っている。 (真剣だなあ。あ、爪噛みそう。……えらい、気付いてやめた)  テレビや映画に熱中しすぎると、彼は爪を噛む癖がある。本人も気にしているようだが、僕がそれを一度やんわり注意してから、より一層意識して癖を直そうとがんばっていた。 (喉仏が動いている。あ、くちびる舐めた。喉、乾いていないかな。コップが空いてる。……何か、持ってきてあげようか。でも、いま立ち上がったら邪魔しちゃうかな)  物語が進行していく映画よりも、恋人の方を見守ってしまう。ありもしない空気のスクリーンを通して、〝コクヨーくん〟というキャストを眺めているような気分だった。 「……ふぅ」  物語の進行に、コクヨーくんは詰めていた息を吐いた。  画面の中で、侍と娘が恋に落ちていた。すると、白黒だった画面が少しずつ、少しずつ色味を増し、ついにはふたりの恋が成就されたことにより完璧なる色彩を持った、息を呑むほどに鮮やかな有色の映画として生まれ変わる。 (こんな仕掛けがあったのか、知らなかったな……)  コクヨーくんも寄せていた眉根をほんわりと解き、小さく感嘆する。画面の中のふたりを静かに祝し、彼女らとともに歓びを分かち合っている。  うらやましい。彼に一喜一憂を共感してもらえるこの映画が、そして登場人物が、心底うらやましい。  僕の存在さえ忘れて映画に見入っているであろう彼が、さきほどまでの喜色はどこへやら、ふいに表情を強張らせ、きゅっと手と手を握り合わせる。緊張した仕草が僕の興味を画面へ向かわせる。  身も凍るような冷たい水にたおやかな手を真っ赤にさせて洗濯をしていた娘の背後に、村の屈強な男が仁王立ちをして、そして――――……。  画面いっぱいに躍動していた彩度が、娘の絶望に呼応するように剥がれ落ち、喪われていく。無体を働かれた娘に侍が駆け寄る。泣き喚く娘を抱きしめて慟哭する姿がズームアウトし、寂しげな雪山にスクリーンは支配される。灰色の川が激情を表すようにごうごうと流れ狂い、黒い染みのような烏が不吉に飛び去る。走り出す侍が四つ辻にて暴漢に追いつく。侍は娘と出会ってから一度も抜かなかった刀を手に、鬼気迫る表情で得物を振りかぶった。殺気に気付いた男が振り返る。  暗転。娘が息を切らせ、まろびながら四つ辻へと走ってくる。しかしそこにはひたすらに白い雪と、村男の無残な遺体、そして愛した侍の亡骸が転がっているだけ。飛び散る血液がモノトーンの中で唯一色付いている。唇がわななき、娘は膝から崩れ落ちる。そのまま長いあいだ無音が続き、顔を上げた娘はただひとこと、 『ただ貴方様さえ、生きていてくれたのなら……』 と、字幕ではなく、おのれの声で語った。  映画はそこで終わった。  僕は呆け、胸の中に遺るしこりのような不快感を弄ぶ。我が父ながら、少々悪趣味が過ぎないだろうか。これでよく、出来上がった映画を意気揚々と郵送し、友達と見ろだなんて言えたものだ。 「あー……、なんか、ごめんね春斗くん。つまんなかった、よね」  頭を掻きながら気まずく言うと、彼は瞳を充血させながらぐるんと振り向いた。 「わっ、びっくりした」 「ぜんぜん! つまんなくなんて、なかった!」 「え、あ……、そう?」  本当に? 素直に受け取れない僕が訝しむも、コクヨーくんは何度もうなずいて瞳を輝かせた。 「殺生はしないと八千代と約束していたのに、善兵衛は最期に刀を抜くんです! 八千代のために反故にするんです! 僕は、彼の決意は正しいと思う。思います」  侍は善兵衛という名で、あの娘は八千代といったのか。 「案外、きみは男らしい考え方をするんだね」 「ウ、ウン。……だけど八千代は、そんな善兵衛の矜持なんて本当はどうでもよくて、復讐なんてしなくてもただ善兵衛が生きて一緒にいてくれたらそれでいいと思っていた。そのすれ違いが哀しくて、でも俺は善兵衛の矜持は貫いてこそだったと思うし、八千代の健気な愛もよくわかる」 「健気な愛、ねえ。春斗くん、そういうこと言うんだ」  意外に感じて目を丸くすると、彼は途端に顔を赤くして咳ばらいをした。 「……と、とにかく、おれ、この映画、すごく好きだとおもう。白黒の画面が鮮やかに生まれ変わるところも、最後のせりふだけ八千代の声で語られるところも、全部、よかった」  瞠目する僕に一瞥すらせず、彼は何も映っていないテレビ画面に瞳を向けた。余韻に浸っている。僕の父の映画にこんなにたくさんの感想を、想いを馳せてくれている。 (これは――……)  胸に来るものがある。動揺している。は、と熱い息を吐くのが精一杯だった。  テーブルの上に無造作に投げていたDVDのケースを、コクヨーくんが恭しく取り上げた。一般販売すらしていないので、簡易的なパッケージのそれは見るからにみすぼらしい。関係者だけに配られた無名のそれを、彼はまるで高価な宝石を扱うような手付きで撫で、慈しむように瞳を細めた。 「秋津さんのお父さん、こんなに素敵な映画を一生懸命に撮っていたんですね……。埋もれているなんて、絶対にもったいない」  僕は言葉が出ない。目頭が痛いほど熱くなって、慌てて顔を隠す。が、思いがけず傾ける角度になってしまった耳に、更に柔らかい声が春風のように吹き込まれた。 「おれも、たくさん紹介する。します。秋津さんのお父さんの映画、もっと観てみたいな。お母さんが出ていた舞台も、これから志都子さんが出る舞台も、観てみたい。観てみたいです」  もう堪え切れなかった。震えてしまう背中が恥ずかしくて、格好悪い姿を見せたくなくて、ごめん、とコクヨーくんとのあいだに鎮座する透明な空気のスクリーンに手を翳した。意味をなさない防御だけれど、涙を引っ込めるための努力に頭がいっぱいで、自分がどんな醜態をさらしているのかも想像できない。 「あ、秋津さん……、泣いている、の?」  不安げに揺れる声が近付いてきて、僕の震える防御の腕を取られる。指と指が絡んで、縮こまる背を慰めるようにゆったりと撫でられる。 「ない、泣いてない、よ。だいじょうぶ、だいじょうぶだから……っ」 「……秋津さんが泣くところを見るのは、二回目だ」  くく、と喉を鳴らすようにコクヨーくんが笑って、耳に柔らかい皮膚の接触を感じた。キスを、された……? 「君の前で泣くのは、今が初めてのはずだけど……」 「初めて泊まった日、歌ってくれた日に見たんです」  思わず隠していた顔を上げると、少年らしい悪戯めいたはにかみを浮かべた表情があった。 「……やっと、顔、見せてくれた」  真剣なまなざしで映画に見入る彼を、キャストを観ているようだと思ったけれど、やはりそれは間違いだった。僕と彼の間にスクリーンなど存在していない。そんなただの空気の隙間、コクヨーくんはいとも簡単に引き裂いて、涙に濡れた僕の頬を両手で包み込んでくれる。 「ありがとう、春斗くん……」  人に涙を見せたことなんて、いつ以来だろう。  うれし涙を流したことなんて、いつ以来だろう。  コクヨーくんは満足げに僕の泣き顔を真正面からのぞき込み、先とは打って変わって大人のような優雅さで笑んだ。  この子とずっと一緒にいたい。  映画に打ち込む父に取り残された、過去の僕を救ってくれたコクヨーくんと。  父の映画を肯定することで、僕の孤独を価値あるものだと認めてくれたコクヨーくんと。  亡くなった母も、今現在の母である女性も、どちらも等しく女優として扱ってくれたコクヨーくんと。  やさしい彼が健やかで傍にいてくれればいい。それで、すべてが満たされる。  ああ、父に生み出され、映画の中で生きる八千代は、そんな想いだったのか。  僕は、今まできっと、愛を理解っていなかった。それをいま、コクヨーくんと父に教えてもらったんだ。

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