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「坂の上の僕たちの城」(後編)

「坂の上の僕たちの城」 早春太郎 ***  駅の雑踏を抜け改札口を出る。  国道を渡ると山の斜面に沿って長い長い坂がある。この坂の上に、僕とサトルの二人だけの城がある。城とは言っても、よくある2LDKの賃貸マンションだけど。  僕はこの坂が好きだ。国道から見上げる坂は、ずっと空まで続いているように見える。  朝、坂を下る時はサトルと二人だけの世界から現実に引き戻されるようで寂しく感じたりもする。でも夕方になると長い長い坂を息を切らしながら夢の城へと向かうのだ。  僕たちは二人は高校生の時に知り合った。  お互いを意識し始めたのは多分、入学早々の時だったように思う。もう十年近くも前の話だ。  僕たちは学年は同じでも別々のクラスだった。いつも僕がサトルの教室の前を通り過ぎるのは、開始のチャイムがなる直前だ。それは朝、サトルと顔を合わせる絶好のチャンスだった。  いつの頃からか、サトルは僕に気付くようになった。照れ臭くて無理やり笑顔を繕う僕に、サトルは左手を顔の横でパッと開く仕草を返してくれた。僕は嬉しくてすっかり舞い上がった。  朝の僅か数十秒だけのその時間は、僕にとって至福の時間だった。  僕たちの距離が近づくチャンスは、高二の修学旅行の時に訪れた。  この学校では、学年のクラスの枠組みを取り払った、コース別に組まれた京都旅行が慣例なのだ。  僕は必死に情報を集め、サトルが選んだ嵐山・三千院コースを選んだ。  古都の景観は確かに綺麗だった。でも僕は皆んなが景色に見惚れている間に、ただサトルだけを見つめていた。  宿は日本家屋の玄関口を模してはあるが、奥へ続く長い廊下を抜けると、部屋はホテルのような洋間になっていた。部屋には風呂とトイレはついてなくて、長い廊下をさらに歩いた突き当たりにあった。きっと学生の修学旅行向けの施設なのだろう。  僕は夜中に、寝息を立てる同室の他の二人を起こさないよう気遣いながら廊下に出た。別にトイレに行きたい訳ではなかった。ただ、眠れなくて一人になりたかった。  僕は廊下の突き当たりの灯りが落とされた浴室に入ってみた。考え事にはちょうどいい気がした。僕はお湯が抜かれた湯舟の縁に腰掛けた。頭に浮かんでくるのはサトルのことばかり。  思わず深いため息をつき、湯舟のへりを撫でた。  その時、浴室の入り口に人の気配を感じた。こんな時間に風呂に入る人はいない。僕はじっと息を殺して様子を伺った。 「ケイタ、いるんだろ?」  僕は息が詰まりそうになった。サトルの声だ。  黒い人影が僕が座っている浴槽に近付いてきた。窓外からの月明かりに照らされたのは紛れもなく、あの優しいサトルの顔だった。 「あ、いや、なんで?」 「お前が浴室に向かって歩いていくのを見掛けたんだ」  まさか、それで僕を追ってきてくれたの?  サトルは僕の前に屈み込むと、僕の頭を抱えた。 「逆光でケイタの顔がよく見えない」  ち、近い。顔が近すぎるよ! 「初めて二人きりになれたな」  サトルの息が顔にかかる。僕は心臓がめちゃめちゃに暴れるのを抑えられなかった。 「ケイタ、ドキドキしてる。ほら、俺も」  そう言うとサトルは僕の左手を掴み、自分の胸元に引っ張った。はだけた浴衣を避け、僕の左手はサトルの肌に触れた。  僅かな月明かりでもサトルの股間の辺りが大きく持ち上がっているのがわかる。僕は呼吸まで乱れていった。乱れているのは僕の理性もおなじだった。 「ケイタ……」  僕の名を呼ぶと、サトルは僕の両脇に手を回し、僕を立ち上がらせた。 「ケイタ、好きだ」  僕の頭の中で何かが弾けるような音がした。そのまま唇にサトルの唇が重ねられた。  こんな時、息をしていいのかどうかもわからない。僕は必死で苦しさを我慢した。サトルの左手は僕の浴衣を乱暴にめくり、胸を直接触られた。嫌じゃない、嫌じゃない。でも息ができない。立ちくらみがして、僕は膝から崩れ落ちそうになった。  それに気付いたサトルが僕を全身で支えてくれた。ますます濃密に半裸の身体が絡み合う。サトルは腕を僕の頭に回すと、そっと浴室の床に寝かせた。 「ケイタ……俺……ずっとお前が好きだった」 「ええっ?」  僕は気が遠くなりそうなほど驚いた。 「俺が修学旅行のコースをここにした事、誰から聞いた?」 「あ、いや、それは女子の上野チカから……」 「お前が上野と仲がいいのは知ってた。幼なじみなんだろ?」 「うん。えっ? まさか……」  あとの言葉はサトルの唇で遮られた。初めてのキスは、初めて好きになった人に捧げることができた。 「お前が欲しくて仕組んだ」  耳元で囁かれるたび、身体中を何かが這いずり回るような感覚に襲われ、身を捩った。サトルの手が僕の下着を剥がし、膨らみきった陰茎をきつく握った。僕の塞がれた口元から漏れる、だらしない嗚咽をサトルが口で吸い込んでいく。  もう僕は思考することができなくなっていった。 ***  何、これ? これって、ケイタが僕で、サトルは剛士のことじゃないか。こんな事、絶対に僕と剛士しか知らない話ばかりだし……!  その時スマホから着信のメロディが流れた。バンちゃんからだ。急いで画面を切り替える。 「明仁、教えてあげた小説読んでみた?」 「えっ、ああ、まだ全部じゃないけど。ねえバンちゃん、この小説、誰が書いたのか知ってる?」 「作者の名前、書いてあるでしょ?」  僕はつい苛立ちを覚えた。こんなありきたりの名前なんか知るわけがない。 「これって僕と剛士の出会った頃の話だよ。何でこの作者が知っているの?」 「知ってるに決まってるでしょ。書いているのは剛士なんだから」 「ええっ?」  僕は驚いた。今聞かされた言葉が頭の中でぐるぐるとかけ回ってはどこかで跳ねる。 「嘘でしょ?」 「そこに書かれたエピソードが誰のことを書いているのか、分かるのはあんた達二人だけでしょ?」  そうだ。バンちゃんの言う通りだ。これが事実だということを知っているのは当事者の剛士と僕だけだ。 「明仁、よく聞きなさい。あんたは剛士がスマホばかりいじっていて相手にしてくれないとか、どこかのサイトで新しい恋人を探しているとか言っていたけど。それは勘違いよ」  えっ? バンちゃん……。 「剛士はね、そこのサイトで毎日のように小説を更新していたのよ。どこかの知らない誰かと火遊びをしている時間なんて無かったと思うよ。アリバイとまでは言わないけど、ようく更新された日を見てみることね」  そうだったのか。僕はてっきり剛士は誰かとメールをしたり、僕の知らないサイトで知らない人と仲良くなろうとしているんだと思っていた。とんでもない勘違いじゃないか! 「あんたは小説になんか興味ないからね。剛士はそれを知ってたわ。だからそのサイトに投稿していることはあんたに話さなかったのよ」  確かに剛士に言われていたとしても、僕は素直に読んだりはしなかっただろう。 「もう見ていらんないのよ、あんた達を。すれ違いを二人とも自分のせいにして。そのくせ何もしようとしない。馬鹿よ、あんた達二人は」  バンちゃんの言葉は的を得ていた。確かにその通りだ。 「そのお話、よく読んでごらんなさい。剛士はあんたの事を誰よりも理解しているってわかるから」  通話はそこで切れた。  僕はもう一度小説のサイトを開き、物語の最終章に目を落とした。 ***  今でも僕の目の前には長い長い坂がある。きっとこの坂は永遠に存在するのだろう。そして僕とサトルも、たとえ永遠ではないにしろ二つの命が続く限り存在すると信じている。  時には喧嘩もするだろう。互いを傷つけ合う言葉も口にしてしまうかも知れない。でもそんなことは小さなことだ。  大切なのは愛するということ。  小さなことの繰り返しが日々なのだとしたら、その日々を積み重ねていくことが永遠の入り口なのだから。お互いを敬い、尊重し合うこと。その気持ちさえあれば二人の積み上げていく時間は永遠と同じだけの意味を持つ。 「ただいま」 「おかえり」  ただそれだけの短い時間さえもやがては永遠になっていく。  今日もこの長い長い坂を上って、サトルは僕の待つ城へと帰ってくる。そして二人で永遠の時を重ねていくんだ。 (終わり) ***  僕の両目に涙が溜まっては零れた。僕の手の中は剛士の愛で満ちていた。  今まで気付くこともなかったけれど、剛士の心を追いやっていたのは僕の方だった。  思わず声が出るほど泣いていた。 「剛士、ごめん。ぼくこそ独りよがりで勝手なことばかり考えていた。ごめんなさい」  その時、廊下で物音がした。驚いて顔を上げると、寝室の入り口に剛士が立っていた。僕は慌てて両目を拭って、顔を背けてしまった。 「明仁、読んだんだね」  僕の中からまた堪え切れない感情が込み上げてくる。 「剛士、ごめん。僕は、僕は剛士のことをすっかり……」  僕の謝罪の言葉は出口を失った。涙でグシャグシャになった唇を剛士の柔らかな唇が塞いだからだ。 「謝ることなんてないんだよ、明仁。お前にいつの間にか寂しい思いをさせていたのは俺だ。俺は小説を書くことで、自分が忘れかけていた気持ちを思い出した。俺がお前を大切に想う気持ちは今でも変わらない。だけど、明仁を思いやることを、お前の気持ちに寄り添う努力を忘れていた。だから謝らなきゃならないのは俺の方だ」  僕は胸の奥から突き上げてくる感情を抑え付けるのをやめた。たった一つの思いは、ただ一つの言葉になっていった。 「剛士、剛士、愛してる!」 「俺もだ明仁!」  剛士の中から溢れ出してきた思いが僕を包み込んだ。剛士は僕の頬を両手で挟み込むようにして唇を重ねてきた。  僕が一番好きな剛士のキスだ。そっと目を開けると、剛士の頬にもキラキラと光る涙が零れていた。僕をそっとベッドに寝かせると、剛士は着ていたスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイに手をかけた。  僕は息を整えながら剛士を待つ。この僅かな時間が僕は好きだった。期待と不安が入り混じった高揚感と、もう一度剛士の顔が近付いてくるのを待つこの時間。僕はこの時間が好きだった。まだ何ひとつ知らなかった、あの初めてのキスをした時からずっと。今も変わらずに好きなんだ。  でも剛士は一つだけ、僕の本当の気持ちを知らない。僕はちょっぴり汗の匂いがする剛士が好きなんだ。こっそり夜中に剛士の匂いを嗅いでいることだけは永遠に秘密にしておこう。  上気した顔で剛士が僕の上に戻ってきた。熱い眼差し、僕の顔にかかる剛士の荒い息。そしていつもよりはっきりと感じられる剛士の汗の香り。  僕は剛士の唇が重ねられた瞬間にそっと瞳を閉じた。この長い長い坂の上にある僕たち二人だけの城の中でーー。

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