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「坂の上の僕たちの城」(前編)

柚月美慧様からリクエストを頂きました。 お好みに合えばいいのですが(汗 「坂の上の僕たちの城」(前編)  氷が溶けたアイス珈琲のグラスの中に宇宙が見えた。  琥珀色の珈琲は、まるで水と分離するようにグラスの底に沈んでいく。決して混じり合わないふたつのコントラストが、どこか天空の遥か彼方の宇宙を連想させる。それはまるで、お互いの距離が曖昧になってしまった恋人との関係のようにも思えた。  向かい合う席には、遊び仲間の板東有之介、通称バンちゃんが不機嫌そうな顔つきで座っている。右手でストローを摘み、グラスの中をせわしなくかき混ぜている。  聞けばバンちゃんは最近BL小説にハマっているらしく、暇さえあればスマホばかり覗き込んでいる。僕は小説には興味がない。そもそも本なんてほとんど読まないのだ。ましてBL小説なんて開いたことさえない。 「ねえ明仁、あんた何よ? 昼間っから冴えない顔をして。趣味でも持ちなさいよ、あたしみたいに。素敵な小説でも読むとか。何かみつくろってあげようか? 柚月美慧様なんか最高なのよ! そうだ「恋獄の枷〜オメガは愛蜜に濡れて〜」読みなさい。勉強になるわよあんたには。あー、そう言えばあんたってリアルオメガよね。そうだわ!きゃーっ!」 「リアルオメガ?」  オメガって何だ? 何かの専門用語だろうか。それにしても、いくら客がまばらとはいえ大声で騒ぐのはやめて欲しい。 「あんたはね、男は剛士しか知らないんだから、少しは世間のことを学びなさいよ。もしかして剛士となんかあったの? まああんた達二人は付き合いが長いからね。明仁、もしかしてあんた剛士に飽きちゃったとか?」 「飽きるとか、意味わかんないよ。ま、最近セックスはないけど、それだけじゃないじゃん。それにもう長いからさ」  我ながら苦しい言い訳だった。剛士に他に好きな人がいるかも知れないと悩んでいるなんて、バンちゃんが知ったら大変だ。すぐに皆んなに知られてしまう。それだけは避けなきゃ。  バンちゃんが両足を交差させ、右脚を上に組んだポーズはいつもの彼の決めポーズだ。気になる男性が見つかると、重ねた右脚の先を指先で弄びながら小首を傾げて見せる。だからバンちゃんは分かり易い。 「バンちゃん、お目当ての人が来たの?」  僕は店の入り口の方へ視線を向けた。 「じゃなくって、今入ってきた客よ。イケてるわ。あれだけの身長で、広い肩幅をした細身のマッチョ。アタシ好みよ。きっとアソコもでかいわ」  いつもの事だが、彼は相変わらず好き放題を口にする。でもバンちゃんはその軽口とは違い、身持ちが固いことは仲間内ではよく知られている。  彼はウルフカットに明るく脱色したワイルドなヘアスタイルがよく似合う、なかなかの美男子だ。歳は僕より二個上の三十歳になったばかり。そして彼が一番嫌うのはアラサーという言われ方だ。彼が好んで使うのは「エンドレス二十(場合により数字の読み方は変わるのだが)」だ。    僕は上澄みの水を避け、グラスの下半分に残った珈琲だけを吸い上げると、席を立った。 「あら、トイレ? 早くしてね。もし先に彼が来たら、ツレはうんこしてますって言ってやるからね」  冗談じゃない。トイレの所要時間なんかであれこれ言われたくもない。  僕は早足にトイレに向かった。このカフェはやたらトイレの入り口までが遠い。細長い廊下を二度も曲がらなくてはならないのだ。最後のコーナーを曲がった所で、中から出て来た人とぶつかりそうになった。 「あ、すみません」  僕は思わず俯いていた顔を上げた。その瞬間、足元で何かが弾けた。履いていたビーチサンダルがスルッと足から離れ、三十センチ先まで飛んでしまったのだ。  慌ててサンダルを拾おうと腰を屈めた時、相手も手を伸ばしながら身を屈めた。  すれ違いもままならない狭い廊下はこれだから困る。二人とも尻を壁に跳ね返され、お互いの二の腕を掴み合って辛うじて転ばずに済んだ。  顔が近い。心臓が口から飛び出してしまうかと思うくらいに驚いた。何だろうこの感覚は? 昂まった動悸がなかなか静まらない。相手の顔にも緊張の色が浮かんだ。きっと変な奴だと思われる。 「ごめん、俺が悪かった。怪我はないかい?」 「あ、大丈夫です。こちらこそ狭い場所で急ぎ過ぎました。ごめんなさい」  きっと呆れられたんだろう。じっと僕の顔を見つめている。どうしよう。  だがあとの言葉はどちらの口からも出ては来なかった。短い静寂が二人の間を漂う。  僕がサンダルを拾って立ち上がろうとすると、不意に肩口を掴まれた。 「どこかで逢ったかな?」  僕はドキリとした。もう一度彼の顔を見る。だけど記憶のどこを探せばいいのかもわからず、つい視線をオロオロと彷徨わせてしまった。だけど僕はバンちゃんの教育よろしく、ちゃっかりと相手を観察することだけは身に付いてしまっていた。 「あ、たぶん人違いだと思いますよ」 「そうか。不躾でごめん」  年齢は僕より少し上だろうか。よく見ると黒髪で左右の長さが違うアシンメトリースタイルだ。人の目を惹くのはきっと瞳の印象だ。瞼の下が水平で、黒目は大きくてまるで漫画で見かける四角い目のように思えてしまう。しかも眉も太く尻上がりに流れるとくれば、女子はおろか男子さえ虜にしかねない。口元はキリリと締まり、とても清潔そうな印象を受ける。  もしかすると僕の動悸の原因はまさか? いや、あり得ない。僕が動転したのは単に他人に気恥ずかしいところを見られてしまったからだ。  僕はその人に一礼してトイレに入った。乱れた鼓動がうまく収まらない。僕は落ち着きたくて個室に入り、蓋の上に腰を降ろした。  少しづつ落ち着きを取り戻しながら考えを巡らせた。  ほんの少し出掛けただけだというのに、何でもないハプニングだというのに、この鼓動の騒ぎようは何だ? もし下心を持っていたなら、すぐにでも出会いに繋がるかも知れない。毎日都心まで通勤する剛士にハプニングが起きたとしても、不思議じゃない。剛士が素敵な子に出会ったとしても不思議じゃない。  そう考えると剛士だけを責めるのはどこか間違いのように思える。  馴れ合いは信頼を生みもするが、誤解や勘違いも生む。  しかも物事への関心は「良いこと」よりも「悪いこと」へ向かいがちなのだ。  あれこれ考えながらテーブルに戻ると、バンちゃんの隣にさっきの男の人が座っていた。 「あれ? 君は」  僕の心臓がまた跳ねた。 「あら明仁、何よ知り合いなの?」  僕は胸に手を当てて暴れる心臓を押さえつけた。 (続く)

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