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 諦めに似た感情を抱いたまま、俺は先輩を見る。 「よく言うじゃないですか。『人を優しいと思える人こそが、本当に優しい人なんだ』って」 「なるほど。だけどその理論でいくと、僕を『優しい』と言った君も、結局は【優しい人】なんじゃないかな?」 「そういう屁理屈は要りません。あと、書類を返してください。それは俺の仕事ですよ、この泥棒」 「ふふっ。嫌だよっ」  手を伸ばすが、先輩は俺に書類を渡さない。それどころか先輩は、俺の手を握ろうとしてきた。 「そうだ! せっかくなら今、僕と寝てみない? そっち方面で僕が優しいかどうか、確認してみるべきだよ。それに今だから、あえて言わせてもらおうかな。自慢じゃないけど僕、結構優しいよ?」  寸でのところで、俺は手を引く。  そのまま俺はある一点に向かい、すっと指を指した。 「先輩、出口はあちらですよ」 「そっちは窓だよ?」  当然だ。俺が指し示したのは人生の出口なのだから。  まったく、少し感心したらすぐにこれだ。この人は本当に、ろくでもない。ヤッパリ俺は、この先輩が苦手だ。  ……だけど、まぁ、いいか。俺は先輩から視線を外し、パソコンに向き直った。 「──俺が優しいかどうかは分からないですけど、こういう俺を先輩が『優しい』って言うなら、俺は先輩にとっての【優しい奴】でいてあげますよ」  どうせ、俺は変われない。他人に深い関心を抱けないだろうし、誰かを深く愛することもできないのだ。  だったら、少し──いや、かなり癪ではあるが。  ──先輩にとって【都合がいい】男でいてやってもいいか。  キーボードを叩き始めると、ふいに、隣から視線を感じた。目を向けると、なぜか先輩が驚いたように俺を見ていたのだ。 「なんですか?」 「なん、だろうね?」  はっ? なんだよ、いきなり。疑問で疑問で返すなよ。  先輩は自分の口元を手で押さえて、ポツリと呟いた。 「──今とても、冗談抜きのマジで、君にキスをしたくなった」  ──ガタタッ! と。俺は騒々しい音を立てながら、先輩と距離を取る。 「マジで勘弁してください。ホンットに勘弁してください」 「さすがにそこまで全力な距離の取られ方をすると、少し傷付くなぁ」 「そう言いながら距離を詰めてくるんじゃねぇッ!」  椅子のキャスターを滑らせ、背もたれに体重をかけて、できうる限り全力で先輩から距離を取った。  しかし、先輩は妙に高揚している様子で。 「君にこうして拒絶されると安心するのに、もう少し迫りたくなる。なんだろう、この気持ち……? もしかして僕って、サディストの気があるのかな?」 「先輩はマゾ担当でしょうがッ!」 「そんな担当を担った覚えはないんだけど……」 「だからッ! 迫ってくるなッ!」  迫る先輩の椅子を、ガッと掴む。いくら若干見直したからって、これはさすがに勘弁してくれ! 俺は自分の貞操にまで関心を失ったつもりはないんだよッ!  自分の最低限度にさえ抵触されなければそれでいいが、これはバリッバリに触れている。ツンツンどころではなく、結構激しめなタッチで触れているのだ!  これはさすがに、受け止めきれない。なので俺は物理的に、先輩を横に流した。 「本当に油断も隙もない! 先輩のそういうところ、本気でどうかと思いますよ!」  先輩はよろめきながら、顔を上げる。 「──それでも、僕に優しい君でいてくれるんだよね?」  ……あぁ、なんて男だ。信じられない。こんな時でも笑みを浮かべて、俺からの返事を決めつけているのだ。  俺は額に手を当てて、頭の痛みを吹き飛ばすように叫ぶ。 「あぁもうっ! そうですよ、俺は変わりませんよ! 先輩にとって優しい奴でいてやりますし、先輩から何度迫られたって引き千切ってやりますよ!」 「そこは『振り払う』じゃないかな?」 「うるさいなぁッ! 文句言うなら通報しますよッ!」 「極端すぎないかな!」  ──嗚呼、神様仏様閻魔様。  ──どうかこの世界を、優しさで包んでください。  ……いっそ、先輩が圧死してしまうくらいの優しさで。 3章【先ずは優しさで包んでくれ】 了

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