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俺は一度、わざとらしいため息を吐いた。
「あのですね、先輩。俺はね、もうとっくの前から知っているんですよ」
「……なに、を?」
「先輩が、完璧超人じゃないってことをですよ」
俺は自分のデスクにあるパソコンの画面を、コツンと軽く叩く。
「なんでも自分一人でできると思い込んでいるのでしたら、その自己認識は間違っています。今すぐ要らない書類と一緒に、その考えは裁断機へぶち込んできてください」
眉を寄せた俺は、それでも眉尻を下げている先輩を見つめる。
「それに、こんなのはなんてことないです。大層な理由なんか必要ない。俺はいつだって、先輩を助けますよ。……これも、前に言ったでしょう? 俺は、先輩にとっての【優しい奴】でいてあげますって」
先輩はしばらくの間、俺を見ていた。
だがようやく、視線を外したかと思うと……。
「……困ったなぁ。仕事なんて放り出して、今すぐ君と仮眠室に行きたいよ」
先輩は、実に先輩らしいことを口にした。おそらく、なにかしらの納得か理解をしたのだろう。
「先輩と仮眠室に行くくらいなら、バスティーユ牢獄を爆破した方がマシですよ」
「僕はフィガロの結婚じゃないんだけどなぁ。ただ純粋に、君を抱きたくて堪らないって思っているだけの男だよ」
「凄いですよね、法律って。先輩でも、裁判を受ける権利があるんですから」
「あれっ? 僕が投獄される流れなのっ?」
これだけ低俗な軽口を言えるくらい元気なようなら、問題はないな。
そこでふと、俺は先ほどのやり取りを思い出す。
「そうだ。先輩、さっきの態度は優しすぎましたよ」
「『さっきの』って、いつのこと?」
俺は先輩から視線を外し、パソコンに向き直る。
「飲みに誘われた時ですよ。『上司なんだから、部下の仕事を手伝ってくれてもいいんじゃないですか』くらい言ったらいいじゃないですか」
「そんなこと言わないよ。思ってもいないもの」
確かにそう言われると、先輩が怒っているところは見たことがないかもしれない。俺はマウスを操作しつつ、質問をした。
「先輩は喜怒哀楽の【怒】がないんですか?」
「うぅん、どうだろう? 確かに今日、食堂で生姜焼き定食を頼んだのにラーメンが出ても、特に腹は立たなかったかなぁ?」
「食に対して関心がないんですか? 農家さんや料理人に対して失礼ですよ?」
「あれっ? そう捉えるのっ?」
俺ならなにがなんでも変えてもらうな。生姜焼き定食とラーメンは、どうしたって『まぁいいか』にはならないだろう。
「まぁ、先輩の昼食事情はどうでもいいです。仕事を再開しましょうか」
「そもそもの話題は子日君から振ってくれたのになぁ……っ」
こうして喋っているのが不快というわけではないが、これでは先輩を手助けするために残った意味がない。むしろ、本末転倒もいいところだ。
作業を始めた俺に対して、先輩は兎田主任から渡された資料に目を通しながら、ポツリと呟いた。
「──ありがとう、子日君」
その声は、妙に弾んでいて。
「──君がそばにいてくれて、嬉しいよ」
ザワザワと、胸が騒がしくなる。
──やめろよ、聖人かぶれ。
──なんて声を出すんだよ、馬鹿野郎が。
少し前なら、きっとこのザワつきを【不愉快】と思っていただろう。だが、今はただただ……。
ただ純粋に、不可解で堪らなかった。
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