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 すぐに俺は、先輩の手から右手を引っこ抜く。  そのまま握っていた資料を手放して、俺はしっかりと先輩の方へ体ごと向き直った。 「……な、よ……っ」 「子日君?」  不思議そうな顔をしている、先輩の。  俺の気持ちを知らない先輩に、俺は思わず……。 「──ふざけんなよッ!」  叫ぶように先輩を糾弾した後、俺は強引に先輩の襟を掴んだ。そのまま無理矢理自分の方に、先輩を引き寄せる。  するとすぐに、先輩が。 「──ん、っ!」  先輩が、くぐもった声を漏らした。  ──俺が、体当たりのようなキスを先輩にしたからだ。  いつも変なことばかり言う唇は、想像以上に温かい。  俺は『先輩がいつか、トラウマを克服できたらいいな』と、本当に思っている。それは、嘘なんかじゃない。  先輩は勝手に気持ちを押し付けられて、おかしな女に自殺しようとするところを見せつけられて……沢山、傷付いた。そんな先輩が、このまま誰も好きになれないで、しかも怯えながら生きていくのは、嫌だと思う。  だけど、トラウマを克服した後。  ──先輩の隣に立っているのは、俺じゃないと嫌だ。  ──先輩が変わっていく中、どうして俺は変わっちゃいけないんだよ……っ。 「ねの──んっ!」  一瞬離れようとした先輩の襟をもう一度引っ張り、先輩の口腔に無理矢理舌をねじ込む。 「んっ、ふ……ッ」  お互いの舌が触れて、どちらからか分からない唾液による水音が、二人きりの事務所に響く。  いつも俺にキスをしてこようとした先輩と、俺は今、キスをしている。結果は嬉しいことのはずなのに、中身が空っぽどころではない現状に、涙が出そうだ。 「……は、っ。……子日、君……っ?」  この人は、誰も好きにならない。  それは逆に、誰にも関心を持てないのと同じだ。 『『好きの反対は無関心だ』なんて言うけれど、僕に関心を持ってない人のことを、僕がどうこう思うはずもないでしょう? だから、僕にとったら【嫌い】が安心できるんだ』  ……だったら。  先輩が、俺を好きになってくれないと言うのなら……ッ! 「先輩、俺は……ッ」  互いの唇を解放して、至近距離で呟く。 「──俺を好きじゃない先輩に抱かれるくらいなら、俺は俺の好きな先輩を抱きたいんですよ……ッ!」  先輩にとって唯一嫌いな人になることで、心に残るしかないじゃないか。  先輩になら、抱かれたっていい。先輩にだったら、なにを捧げたっていいのだ。  だけど、それは先輩が俺を好きになってくれたらという話。  なにも変わらない、なにも変えちゃいけない。  だったらせめて一回くらい、拗らせた初恋に思い出が欲しかった。 「子日、君……っ? なにを、言って──」 「──うるさいッ!」  怒りで震える手で、先輩の襟を強引に広げる。  緩んだ首元に無理矢理噛み付いて、強く吸い上げた。 「俺を好きじゃない先輩に抱かれるのは、絶対に嫌です。だから、俺は今から先輩を抱きます。先輩は黙って抱かれてください」 「……っ! なにを、言って……っ! 子日君、自分がなにをしているのか分かっているのっ?」 「先輩こそッ!」  駄目だ、止まらない。  こんなところで、泣いた顔を見せたくなんかないのに……っ! 「──なんで……っ。どうして、俺は変わっちゃ駄目なんですか……っ?」  好きで好きで、仕方なくて。先輩にいつか、振り向いてほしかった。  だから嫌っている演技だってし続けたし、それで安心してくれるのなら、傷付かず笑ってくれるなら。これからだってなんでもしてみせようと、本気で思っていた。  なのに……。  ──なんで俺じゃ、駄目なのだろう。  先輩のことを一番心配して、一番愛しているのは俺なのに。『好き』なんて言葉じゃ足りないくらい、先輩のことを想っているのは俺で。  ……強引に唇を奪ってみせたくせに、首筋にキスマークだって付けてみせたのに。  ──どうしてそれ以上、手が動かせないのだろう。 「ごめん、なさい……っ。ごめんなさい、先輩……っ!」  いっそ、嫌われてしまえと思ったのに。  もうやらかしてしまった後なのに、なんで……っ。  ──『傷付けたくない』なんて、まだ考えているのだろうか。  先輩には、笑っていてほしかった。さっきは『仲良くなれるわけないじゃないですか』と言って、自分の気持ちを隠せていたのに。  俺だけは先輩を傷付けたくなかったはずなのに、どうして……っ。  これでは、先輩に深い傷をつけたあの女性と同じだ。  先輩に振り向いてもらうために、先輩の気持ちを無視した。先輩に選択肢を与えずに、先輩から奪おうとしただけだ。  こんな俺はもう、先輩のそばにいてはいけない。  ──もう嫌だ、もうたくさんだ。  こんな気持ち、抱きたくなんてなかった。【庇護欲】と言って、諦観している気になっていれば良かったのだ。先輩に拘泥していると、気付くべきではなかった。  それでも言わなくてはいけないことや、言うべきことはたくさんある。俺に傷付く権利なんてないし、泣く権利もないのだ。  けれど、俺は見てしまったから。 「──変わってしまって、ごめんなさい……っ! あなたが求める俺でいられなくて、ごめんなさい……っ! 嘘吐きで、ごめんなさい……っ!」  それだけ言い、逃げるしかなかった。  俺に首筋を強く吸われた先輩が、ただ静かに。  ──右手首を、掴んでいたのだから。 7章【先ずは変わらせてくれ】 了

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