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嘘みたいな、こんな状況。
どうしたって、すぐには信じられない。
「な、んで……っ? どうして、こんな……っ」
先輩は俺にのしかかったまま、至近距離で笑った。
「あはっ。『なんで』って、そんなに不思議なことかな?」
「先輩……っ」
「世界で一番優しい君を──僕にとって一番安心できる君を、僕が好きになる。それは、疑問に思うような話?」
そんなの、俺に訊かれたって分からない。
……だけ、ど。
「──嘘じゃない、ですか……っ?」
──期待、してしまいたかった。
先輩が着ているスーツの裾を、そっと掴む。
さっきまで泣いていたせいで潤んだままの瞳を、先輩に向ける。
「俺が先輩を傷つけたから、その仕返しに俺を揶揄っているとか。……そういう、度を越したイタズラじゃないですか……っ?」
先輩は俺の頭に、そっと手を添えた。
「嘘じゃないよ。君からの好意だったら、怖くないから」
添えた手で俺の頭を撫でて、先輩は笑う。
その笑顔は、俺が大好きな先輩の表情で……っ。
「ふ……あ、っ。……せん、ぱ……っ」
もう二度と向けられないとさえ思っていたその表情に、俺は堪らず泣き出してしまう。
そんな俺を見て、先輩が困ったように笑っていた。
「僕、君には泣いてほしくないんだけどなぁ」
「だって……っ。こんな、嘘みたいな……っ」
「あっはは。嘘じゃないってば」
俺の目元を指で拭うその指に、また涙が出てきてしまって。
先輩が困っているのは分かっているのに、涙が止まらない。
「俺が先輩を抱き締め返しても、先輩は怖がりませんか……っ?」
「うん。……むしろ、してほしいかな」
俺は、ずっとずっと。したくてできなかった行為を、ようやく叶える。
──俺は震えながら、先輩の背中に腕を回した。
先輩の肩に顔を埋めると、先輩も俺を抱き締め返してくれて。その重みと体温が、あまりにも心地良かったから。
「──先輩、好き……っ。好き、です……っ。俺、先輩の隣にいたい……っ。先輩の【好き】でいたいです……っ!」
一生抱くことが許されないと思っていた感情を、先輩にぶつけてしまった。
先輩の背中は広くて、自分よりも男らしいその体つきに、頭の奥からクラクラしてきそうだ。
先輩は泣きながら気持ちを伝える俺を、俺以上に力強く抱き締めてくれた。
「僕も、子日君が好きだよ。今まで本当に、ごめんね」
「うっ、ぐ……先輩っ、せんぱいぃ……っ」
「あははっ、困ったなぁ。ねぇ、泣き止んでよ?」
「誰のせいだと思ってるんですか、馬鹿ぁ……っ」
殴ってやりたい、蹴ってやりたい。……だけど、今はそんなことをしている場合じゃない。
先輩がトラウマを抱えながらも、それでも俺を……受け入れてくれたのだ。そんな人を蹴ったりするなんて、俺にはできない。
先輩は俺の背中をポンポンと優しく、まるで子供をあやすように叩く。
そんな動きを繰り返していたかと思うと、先輩は突然真剣な声で、俺の名前を呼んだ。
「ねぇ、子日君」
「はい……っ。……なん、ですか……っ?」
「子日君はここがどこなのか、気付いているかな?」
俺は先輩の肩から顔を離して、周りを見る。そんなことを訊いてくるということは、きっとここは俺も知っている場所なのだろう。
だがここは、見覚えがない。それでも先輩は、俺に訊いてきた。
……もしかして、ここって……っ?
「──ここは僕にとって、念願の仮眠室なわけなのだけれど」
手が、頬に添えられる。さっきまで笑顔だった目に、野性的な光が宿った。
今にも噛み付いてきそうなその視線に、体が強張る。
「ねぇ、子日君。君のことを好きな僕に抱かれるのは、君としてはどうなのかな」
もう一度、頭が枕に着くほど押し倒された。
『俺を好きじゃない先輩に抱かれるくらいなら、俺は俺の好きな先輩を抱きたいんですよ……ッ!』
『俺を好きじゃない先輩に抱かれるのは、絶対に嫌です』
なら、俺のことを好きな先輩に、俺が抱かれるのは?
……そんなの、ずっと前から決まっていた。
「──いやじゃ、ない……です」
そう答えると、先輩は口角を上げて。
もう一度、俺にキスをした。
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