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悠真

 悠真(ゆうま)は、賑やかな談話室でペーパーバックを開く、美しい男の正面に座った。 「何読んでるの?」  男がゆっくり顔を上げる。あまり表情が変化しない人みたいだ。でも、しずかな切れ長の目には、確かに驚きが浮かんでいる。 「ごめん、びっくりさせて。横顏がめっちゃカッコよかったからさ」  テーブルに頬杖を突いた悠真が悪びれず笑うと、男――お兄さんは戸惑うように目を伏せた。「カッコいい」なんて「おはよう」くらい言われ慣れてそうなのに。  柔らかな茶色の髪を真ん中で分け、白い額は頭がよさそう。初夏なのにシャツのボタンを上まで留めて、長い脚も組んだりしない。品のある大人の男って感じ。  直毛がつんつん跳ね、サッカー部の練習で年中日に焼けて、昼休みは欠かさずパック牛乳を飲んでいるのに背が伸びず、クラスの女子に友チョコばっかもらう悠真とは正反対。 「俺、悠真。お兄さんは誰かのお見舞い?」 「まあ、そうだよ」  声も落ち着いてる。言葉少なだけど拒絶の色はない。 「いいなあ。俺なんて入院二日目なのに、だーれも来てくんない。土曜で高校休みなのに。〈暇だからヤンジャン最新号とオランジーナ買ってきて〉ってデコメ送ったのに」  悠真は言いながら腹が立ってきて、頬をふくらませた。  ここは市立病院の入院病棟だ。  部活帰りにバイクとぶつかった、らしい。昨日目が覚めたらベッドの上で、中学のジャージを着ていた。個室に押し込まれてるけど、骨が折れたりとかはしていない。「大事を取って」というやつだ。  だから全然遠慮はいらないのに、それもメールに書いたのに、一向に病室の扉はノックされない。暇過ぎて、自分から談話室に繰り出したというわけだ。どのテーブルも見舞い客と入院患者が盛り上がっていて肩身が狭い中、ひとりで座るお兄さんを見つけた。 「さっき『カッコよかったから』って言ったけど、ホントは俺のいちばん仲いいやつに似てたんだ」  悠真が打ち明けると、お兄さんはペーパーバックを閉じた。 「どんな子なの」  自分と同じレベルのイケメンが存在するのか、って対抗するみたいな声色。  それが存在するんだな、お兄さんよ。 「美術室の石膏像に紛れてかくれんぼできそうなやつだよ。成績はずっと学年三位以内で、パソコン部だけどオタクって感じじゃない。モテるけど友だちは少ないかな。いっつもひとりでいる」 「へえ」  お兄さんが可笑しそうに口もとを綻ばせた。そこは自分と違う? それとも思い当たる節がある? 「一年のときから同じクラスで、部活中に脛当てが割れちゃって教室に予備取りに行ったら……あ、脛当てってのは」 「サッカーの」 「そそ! 教室行ったら、窓際の席に理人(りひと)がいて。何も声掛けないのも感じ悪いじゃん? 本読んでたから『何読んでるの?』って訊いたんだ。それ以来、しゃべったり一緒に帰ったりするようになった。俺だけだよ、理人とそんなんできんの」 「でも、理人くんは見舞いに来ないと」 「言うなって~!」  鋭い指摘を受け、テーブルに突っ伏す。〈わかった〉って返信きたのに。 「……ま、お兄さんに会えたから、今日のとこはいいや」  翌日も、悠真の病室には母親以外誰も来ない。メールさえ来ない。友だちは多いつもりだったんだけど。 「仲いいって思ってたのは俺だけってパターンか……?」  ベッドに沈んでいたら、半分開いた引き戸の向こうに人影が見えた。ガバッと起き上がる。  悠真が「あ」と言うと、目が合った人影――お兄さんも「あ」と言った。 「寄っててって! ん?」  必死に呼びかけたから、ヘンになった。お兄さんがくすりと笑う。病室に入ってきてくれた。  ベッドと棚と椅子しかない殺風景な部屋が、大輪の花が咲いたみたいに鮮やかになる。お兄さんの服装はモノトーンなのに。 「今日もお見舞い? マメだね。もしかして、入院してるのって恋人さん?」 「うーん……片想い、かな。まだ」 「まだ、って勝算あるやつだ」  お兄さんはちょっと憂いを浮かべた。手強い相手なのか? 「今度必勝法教えてよ」 「好きな子、いるの」 「いやいないけど」  そもそも恋人いたことないけど。サッカーが恋人なの! と心の中で言い訳していたら、頬にひやりと冷たいものが触れる。 「オランジーナ! もらっていいの?」 「たまたま見つけたから」  お兄さんが、ベッドの横の椅子に腰掛けながら微笑む。ちょっとドキッとした。このさり気ない気遣いが必勝法なのでは? 悠真にも惜しみなく使うあたり、大人の余裕を感じる。 「午前中には誰か来た?」 「だーれーも! てか、理人が来なきゃ来ないよ。俺交通事故でさ、ケータイのほうが重傷だったんだ。母ちゃんと理人以外のメアドも、保護してたメールもぜんぶ消えちゃった。メール以外の機能も何個かバグった。ほら見て、今日の日付1970年の1月3日」 「へえ」 「リアクション薄過ぎ」 「それは大変だ」 「棒読み過ぎ!」  お兄さんは一見近寄りがたいけど話しやすくて、つい甘えてしまう。でも、お兄さんのほうは十個くらい下の高校生の相手をしても楽しくないかな。  早速、必勝法を実践してみよう。本番でいいパフォーマンスを出すには、練習が必要だし。 「テレビ見る? 日曜の昼って面白い番組あるかな」  棚のテレビに手を伸ばす。お兄さんが「僕がやるよ」と腰を浮かせたけれど、悠真のほうがスイッチに近い。 「あれ?」  スイッチを何度か押しても、画面は黒く沈黙したまま。お兄さんが小さく息を吐く。 「テレビカード買わないと見られないよ」 「そうなの!? 母ちゃん教えろよ……」  必勝法どころか、カッコ悪いところを見せて終わった。練習でもミスのダメージはでかい。 「それより、理人くんの面白い話聞かせて」  しょんぼりする悠真を見かねてか、お兄さんが取り成してくれる。出会って二日なのに好きになりそう。 「じゃ、『台風の日に二人とも傘吹っ飛ばしながら登校したのに休校だったから体育館のスクリーンで映画観てやった事件』のこと教えてあげる」 「何それ」  お兄さんと理人を引き合わせたら、もっと面白いことが起こりそう――なんて思いながら、眠くなるまで理人の話に花を咲かせた。  どこも痛くないのに退院できず、火曜になった。  あんなにだるかった高校の授業に出たい。数日部活を休んだだけで、脚も細くなってしまっている。悠真は筋肉がつきづらい体質だ。  夕方、回診にきた先生に「退院したいな~」とアピールしたけど、かわされた。  何だか世界に置いていかれるみたいで、急に心細くなる。  屋上庭園でらしくもなく黄昏る。思ったより寒いし眠くなってきたしで踏んだり蹴ったりになっていたら、アルミ扉の開く音がした。  お兄さんだ。まるで悠真がいるって知ってたみたいに表情を変えない。 「お仕事はー?」 「在宅なんだ。フリーのSE」 「ふーん……」 「どうかしたの? 妙に静かだけど」  悠真が座るベンチの左半分に収まる。夕陽を浴びて顏に陰影ができている。  家族や友だちにはぜったい言えないけど、お兄さんならいいか。 「理人、まだ来ない。……ベッドで寝てるとさ、あいつのことばっか頭に浮かぶ」  お兄さんが、小さく息を呑んだ。でも悠真だって泣き言くらい吐く。 「理人って、いつも俺が部活終わるの本読みながら待っててくれるんだけど、『何読んでるの?』って聞いても教えてくんないの。でも、ちょっと笑うんだ。ちょっとだけね? 俺にだけわかるくらい。俺の『見舞い来て』デコメも笑ってんのかも」  我ながら女々しい。  入院前はほとんど毎日会っていたから意識しなかったけれど、理人との時間は悠真にとって大事なものだったんだとひしひし思う。 「笑っては、ないと思うよ」  お兄さんが、大きな手で口元を隠したまま言う。イケメンの気持ちは同じイケメンにならわかるのかな。 「んー、ありがと」 「普段も、本読んでたわけじゃないんじゃないかな。たぶん」 「……へ?」  お兄さんは、ボディバッグからペーパーバックを取り出した。タイトルは英語で読めない。  それを開いて目を落とす。  でも、いつまで経ってもページはめくられない。よく見たら、眼前に広がる街並みを眺めている。 「本の世界も楽しいけど、こうして外を見てるほうが楽しいこともある」 「そう、なんだ……?」 「僕は、ね」  お兄さんが微笑む。きれいなのに、どこか儚げだ。  悠真も街並みに目をやる。遠くに高校の校舎が見えた。あの小さな窓のひとつに理人はいるんだろうか。彼はいつも窓際の席にいた。  会えない間、その人のことばかり考える。そういう気持ちって、何て言うんだろう。  悠真が病院のベッドで目覚めてから、明日で一週間になる。  理人に関してはもう諦めというか、きらいだ! みたいな境地に至ってもおかしくないのに、不思議とネガティブな感情は湧かなかった。  むしろシンプルに会いたいって気持ちだけ残って、〈会いに行く〉とデコメを送った。  体力を落としたくなくて、病棟の廊下をぐるぐる歩く。  何周目かに談話室の横を通ったとき、お兄さんがいるのに気づいた。昼間から優雅にペーパーバックを読んでいる。いや、周りを眺めてるのか、どっちだろう? 「お兄さんっ」  悠真は壁の陰からひょいっと顔を覗かせた。  お兄さんが弾かれたように顔を上げる。 「お見舞い、どうだった? 両想いになれそ?」  一昨日女々しいところを見せちゃったぶん、努めて明るく振舞う。 「いや、まだ。これからなんだ」 「わ、じゃあ俺としゃべってる場合じゃないね」  ウォーキングに戻ろうとしたら、「待って」と引き留められた。  ……お兄さんの手、冷たい。もしかして、片想いの人に会うってことで緊張してる? 「俺としゃべりたい? しょうがないな。それじゃ、お兄さんの片想い相手ってどんな人?」  今までおしゃべりに付き合ってくれたから、気を紛らわせる手伝いをしてあげよう。  悠真はお兄さんの正面に座った。 「……図々しい」 「え」  目を伏せたお兄さんがひとつ目に挙げた特徴は、予想外過ぎた。 「人懐っこいとも言うけど。小動物系で」 「ほうほう」 「鈍感」 「え、その人のこと好きなんだよね!?」  悠真を揶揄っているのかとも思ったけど、表情は真剣だ。 「好きだよ。僕が病院に来られない日に考えるのは、その子のことばかり」  また、ドキッとした。本人の前で言ってあげれば、きっと万事うまくいくのに。  ……ん? ちょっと待って。 「会えないとき、その人のこと考えるのって、恋なの?」  つい声が上擦ってしまう。  お兄さんは、この一週間でいちばん優しく笑った。 「僕はそう思ってる」  もしそれが真理なら、悠真は理人に――恋をしているということになる。  そうか。そうなんだ。この一週間の苛々やもやもやの理由が、すとんと理解できた。できてしまった。理人をきらいにはならないのも。 「へ、へー。入院しなきゃ、知らないままだったな」 「顏赤いよ、悠真」  悠真は反射的に立ち上がった。実際、顏がめちゃくちゃ熱い。「お見舞い頑張ってね!」とエールだけ送って病室に逃げ帰ろうとして、慌てて足を止める。 「来週も会えるよね?」  また話を聞いてほしい。あわよくば恋愛の師匠にもなってほしい。  でも、お兄さんは申し訳なさそうに首を振った。 「実は、お見舞いは今日が最後なんだ」 「そ……か」  思ったよりがっかりしてしまう。片想いの人が退院するなら、いいことなのに。  俯くと、視界がぼやっと歪んだ。あ、これ世界史の授業でよくなるやつ。 「ごめん、急に眠くなっちゃった……。俺の話に、付き合ってくれて、ありがと……お幸せ、に」  悠真の脚から力が抜ける。でも、温かく頼もしい手に支えられた。

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