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転職研修はまず語学から
うららかな白い陰日が射す午後、長かったおれの戦いは、やっと終わりを迎えた。
「ところどころニュアンスで適当に端折る癖があるが――まあ、良しとしよう。合格だ」
「やったーーーーー!」
「おわったーーーー!」
思わず手を取り合い、歓喜の声を上げてしまう。
おれと喜びを分かち合うのは勿論今日もふんぞり返っている黒い男ではなく、供にこの苦行を乗り越えたおっとり狐顔メン、イエリヒさんだ。
『あなたはこれから、我々の言葉を覚えます。勉強です』
まだネット翻訳状態だったイエリヒさんのこの言葉を、正直おれは舐めていた。
外国語の勉強かぁ、だるいなぁ、っていうかイエリヒさんとは意志の疎通できてるのになんで? まあ、やれっていうならやるけど、えーとおれ高卒だから英語しかやったとこないし正直点数良くなかったし、今は『これはペンです』なら翻訳できるかもね! くらいの英語力なんすけど。でぃすいずざぺん。
なんて思ってた。馬鹿だった。イエリヒさんの怯え諦めたような顔と、黒いイケメンのやたらと真剣な顔を見て察するべきだった。
講師・黒館主人ゼノさま、補佐兼通訳・外来塔召喚士イエリヒ、両名による七日間ぶっ通し語学修行は、今までのどのバイトよりもハードでスパルタだった。
泣くかと思った。実は三日目くらいにちょっと泣いた。
隣で仮眠してたイエリヒさんに見つかって、エキサイト翻訳じゃない言葉で『ハルイは頑張ってますよ』と言われてオエッてしちまった。
カタカタしたふんわり翻訳を通さないイエリヒさんの声は、ちょっと鼻にかかっていて優しかった。
一回泣いたらなんか吹っ切れて、四日目からおれは覚醒した。つかなんでとかどうしてとかそういうの一旦全部端に避けて、ただひたすら勉強だけに集中した。
個人的に一番きつかったのは、この世界に『紙とペン』という概念がなかったことだ。
なんでも伝達はいつでもどこでも、携帯電話の魔法版みたいな器具でどうにかなるらしい。
いうて不便じゃない!? メモとかしないの!? と思ったけど、最初から言葉を遠くに飛ばせる技術があったら、人間だって石板に文字残さなかったかも。まあ、おれがどんなに疑問に思っても、召喚先の今世に『字を書く』という習慣がない、という事実は覆せない。そこは慣れるしかない。
いやぁ、ノートとペンがない授業、マジできつかった。
最初は言われるままに記憶力だけで頑張ってたんだけど、やっぱ無理だった。
結局そこらへんからかき集めた板に、釘っぽいモノで傷をつけるっていう超原始的な方法で即席ノートを作った。
人間は(少なくとも日本人は)書きながらじゃないと頭に入ってこないんだよ! たぶん!
おれの気迫にドン引いたのか、涙に同情したのか、それともマジで疲れて壊れちゃったのか、イエリヒさんも段々と表情が死んできて、言葉も最低限になっていった。
最低限の睡眠と、よくわからない素材そのままの食事。風呂タイムはなく、身体は固く絞った布で拭くだけ。
そんな生活でも、慣れればなんとかこなせてしまう。
ゼノさまのスパルタ授業は怖い。辛い。きつい。
でも、言葉がわかってくると、この黒イケメンは言葉きっついけれど別に怒っているわけじゃないし、暴言を吐いているわけでもない、と気が付いた。
ひでーあだ名付けてくる店長とか、機嫌が悪いといきなり切れる先輩とか、酒飲んで殴ってくる彼氏のような同棲相手とか、まあまあヤバい奴らと関わって生きて来たもので。
……過去のヤバい奴らに比べれば、ゼノさまの真っ当な授業はきつくても心がしんどくなる類のものじゃない。シンプルに頭が追いついていかなくて、泣きそうにはなるけどな。
でも、そんなスパルタ授業ともおさらばだ。
今日から! おれは! 自由――え、自由なのかな? 自由……じゃないよな、たぶん。
だっておれは、召喚士であるイエリヒさんに召喚された、召喚獣なのだから。
なんかその辺の説明をすっ飛ばして、とにかく言語をぶち込まれていたんだけど、そういえばおれは一体何のために呼ばれたのだろう。最初にされた質問は、料理ができるか? だったっけ。
……まさかおれ、料理人として働かされるのだろうか。
料理、まあ、ふつうにできるけどさ。ガキの頃からくそみたいな親のせいで自炊は当たり前だったし、家を出てからも金がなくて外食する余裕はなかったし。
そんでも、レシピみないでパパっとエビチリ☆ とかはちょっとあやしいぞチャーハンくらいならできっけど……みたいな感じっすけど……。
いきなり放り出されないよな?
言葉を覚えさせるまでが俺達の仕事だ、あとは勝手にしろ――とか言いそうで怖い。ゼノさまは、言いそうで怖い。
じわじわと己の境遇に思いを馳せる余裕が生まれたおれの隣で、おれの手をぶんぶんと振るイエリヒさんは、相変わらず素敵な笑顔だ。
「いやぁ、大変な戦いでしたねぇ、ほんとに大変……大変だった……わたしもうおうちに帰れないのかなぁと思いましたぁ……あーもう、何度やってもしんどいですこのお仕事」
「え……こんなん毎回やってんですか、イエリヒさん」
「やってますよ~やらされてます~。まあ、わたしも好きでお手伝いしていますがね。召喚獣を招き入れて、はいさようならあとは勝手にどうぞ、というのはいかがなものかと常々思っておりますので。……まあ、もう少しやりようがあるのでは、とは、思いますが……」
「あの人、毎回あんななの?」
「はあ。毎回、あんな……ええ、まあ、そうですね、あんなです。今回は特にハイペースでしたが。ハルイの物覚えが良かったせいでしょう」
「えー、またまたぁ……イエリヒさんは優しいなぁ~」
「ゼノ様もお優しいですよ。慣れれば」
「慣れないとかぁ」
「慣れないとですねぇ~」
「おいお前たち、目の前で主を愚弄するのはやめろ。言っとくがその言葉、俺が七日間で叩きこんだ共通言語だからな。俺にも聞こえているからな」
イケメンこと黒館様こと、ゼノさまの声は気持ちよく低い。
何を言っているのかわからなかった頃と、声の高さも響きも変わっていないのに、そこに意味が加わるとなんでかこう、耳ざわりもよくなったように感じる。
外来塔で初対面した時のゼノさまは、きっちりとした刺繍入りのシャツに、なんかこうゴテッとした装飾付きのマントを羽織っていた。確かふわーっとしたファー付きの手袋もしていた筈だ。
あれって正装だったのかな。
おれのスパルタ言語教師をしているときのゼノさまは、なんか適当なシンプルなシャツに黒いパンツ、あと手袋はしてなくって、右手は真っ黒な皮膚が丸見えだった。
この黒いイケメンは、黒の種族、というものらしい。その名の通り、身体の一部が真っ黒に染まっているって話だ。
どうやら高貴な身分っぽいのだけれど、自己紹介なんかすっ飛ばして言葉のお勉強に突入したせいで、『偉そう』『たぶん実際にえらい』『どうやらイエリヒさんより偉いっぽい』くらいのイメージしかない。
わいのわいのと開放を祝うおれとイエリヒさんを眺めて目を細めたイケメンは、何度も聞いたため息をふーっと吐く。
「……まあ、ハルイが思いのほか短時間で言葉を覚えた事実は、単純に評価する。おまえは物覚えが特に良い。意志の疎通も問題なく、言葉は滑らかだ。よって、この館にいる限りはこのチョーカーをつけろ」
「…………」
「趣味が悪い、みたいな顔をするのはやめろ。……俺も男につけるものではないとは思っているが、他にわかりやすい印もない。ほら、こっちに来い。嫌でも無理にでもつけてもらうぞ」
「……これ、なんですか? 勉強頑張った記念チョーカー?」
「そんなようなものだ。この館には――宵闇亭には、様々な異世界の住人が暮らしている。見た目も様々、文化も様々、勿論言語も様々だ。俺とお前のように、口を使い喉を震わせ頭で考え言葉を話す種族ではないものもいる。つまり、どんなに努力しても会話が成り立たないものも多い、ということだ」
言われてみればそりゃそうだ。例えばおれが猫に人の言葉を教えようとしても、絶対に無理だろう。考え方や言葉や文化以前に、学習能力の差もあるに違いない。
そこでゼノさまが考案したのは、シンプルな目印だった。
会話ができる者は、首に。
言葉を話すことはできなくとも言葉を理解できる者は、手首に。
最低限の命令や記号は理解できる者は、足に。
この館の従業員はみな、その三か所のどこかに印を巻き付けるらしい。
「声をかける際の目印にしろ。言葉が不自由なものに、言葉の応酬を無駄に求めて揉めることはなくなるだろう。それと、必要な服や生活用品は仕立て人に言え。説明さえ怠らなければ、元の世界のものと酷似したものが手に入るはずだ」
「ゼノさま、あの、待っ……早い早い、展開が早い、です! 解放されたばっかの頭がおいつかない! あと喋んの速い!」
「時間が無い俺は忙しい気合いで覚えろおまえならできる。なにかあったらイエリヒを呼べと言いたいところだが、残念ながらこいつの本拠地は外来塔であって我が宵闇亭ではない。時折顔を出す親戚くらいの気持ちで別れを告げろ、まあそこそこの頻度でその辺をふらついてはいる、今生の別れじゃない。いまのところおまえにつける先達がいない、仕方ない、非常に面倒だが俺が面倒をみる。次におまえの仕事だが――」
容赦ねえ。ゼノさまマジで容赦ねえ。
あわあわしているうちにどんどん言葉が流れていく。まずい。なんか大事なことをガンガン言われている気がするけど、おれの教育係は引き続きゼノさま担当ですって言われたことくらいしかわからなかった。
いや、てーか、仕事って言った?
「あの、つーか、仕事って……やっぱおれ、奴隷的な意味合いで召喚されちゃったんです?」
「……ああ。なんだ、俺はおまえに召喚理由を言っていなかったか?」
「言ってないです。聞いてないです」
「それは悪かった」
いや全然悪いと思っていない顔だ。見事な無表情だ。この七日間見飽きる程眺めた無表情だ。
「モガミハルイ、俺は召喚士イエリヒを媒介とし、おまえを異世界から呼び寄せた。新たな肉と命を、俺の勝手で与えたこと、まずは詫びる。本来ならばおまえの意志を尊重し、肉体の放棄か就労か選択を迫るのだが、……俺はこの幸運を何としても手放すわけにはいかない。おまえはニンゲンだ。そして、『料理』を知るものだ」
お、おう。なんか物々しい言葉の合間に、物々しく『料理』とか言われて反応に困る。
おまえは伝説の勇者だ、みたいなテンションで言われたけど。つか、そういやこの館で出て来たメシ、モノは何かよくわかんなかったけどびっくりするほど全部素材だった。
洗っただけの根菜っぽいやつとか。切ってすらいないでっかい実みたいなやつとか。肉、か? みたいなどろっとした何かとか。(ちなみに味は何とも言い難い『そざいそのもの』って感じだった)
……もしかして、この世界、『料理』ってすごく貴重なものなの?
でもおれまじで、ちゃちゃっと作れるのってチャーハンくらいしかねーけど……。
「と言っても、俺はまだおまえの腕前を見ていない。勿論、料理の腕が立たずとも、ぜひとも宵闇亭の従業員としておまえを迎え入れたい。何と言っても人手不足だ。掃除、洗濯、その他もろもろ、男も女も人手が足りない。一番足りていないのは群青だが……」
なんかこう、ゼノさまが顎に手を当ててすうっと目を細める。とても嫌な予感がして、おれは隣のイエリヒさんにこそっと耳打ちした。
「……群青ってなに?」
「ああ。群青は、娼婦の総称ですよ」
「しょうふ」
「はい。こちらの宵闇亭は、ゼノ様が取り仕切る娼館ですので」
「しょうかん」
恥ずかしながら人生二十五年、風俗には無縁だった。ホストの手伝いをしたくらいで、実際に自分が利用したことはない。
おれは同性が恋愛対象だったし、そういう人たちが集まるセックスを目的とした場所にも行かなかったし。
だからなんとなく、急に出て来た生々しい単語に実感がわかない。へーそうなんだーみたいな感じだ。
おれをじっと見つめたゼノさまは、若干嫌そうに唸る。
「……まあ、……群青として、客に出せなくも、ない、か?」
「………………んっ。え!? 待っ……何、ちょっと、おれが!? 娼婦……群青になるって話してます!?」
「勿論無理矢理とは言わない。だが、料理の腕が立たなかった場合は職種の選択肢には入れることになる。この街の男は、相手が女だろうが男だろうが気にしない者が多い。そもそも、召喚獣は異世界の生物だしな」
「つまり、ええと。おれの料理が不味かったら、身体を売れってこと?」
「いや、売れとは言っていない。選択肢には入れる」
似たようなもんだろうが。いま普通に『こいつ客つくかな?』みたいな目で見てただろうが。
なんかこう……いや、倫理観とかいろいろ、日本人とは違うのかもしんないけど、釈然としない。えええ……勝手に死後に召喚されて、勝手に拉致られて、おまえの料理不味かったら娼婦になってもらうかもね! ってどうなのよ。おれ、怒っていいんじゃないの?
とは思うけど、だからこの人は先に真剣に詫びたんだろう。
……人手が足りないってのは、本当だろう。なんとなく、そこはマジなんだろうなぁと思う。
おれはまだ、この人の事情も、この館の事情も、この世界の事情もよくわかってないけれど。
「とにかくまずは試験だ。おまえの料理を食ってみないことには、何も言えん。三日程度あれば、食材と道具の調達も間に合うか。よし、では三日後までに――」
「ちょ、ちょっと早い早い相変わらず話が! 早い! 三日後!? いや日付はいいや、とりあえず飯作れって言われても困ります! 何作ったらいいの!?」
この世界、西洋文化に似てるし、食の好みもそっちなんだろうか。とはいえ素人にフリースタイルはきっつい。せめて方向性というかお題くらいはほしい。
ローストビーフとかピロシキとか言われたらその時点で降参したい気持ちになるけど!
「要望か……まあ、そうだな、俺もあまりニンゲンの料理というものに詳しくはないが――」
「ではゼノ様、先日の祭事で振舞われた、あの油ニギはいかがでしょう? 確か群青たちもお気に入りだったのでは?」
なにそれ。待って、ニギって何? ネギの親戚? ちょっと思ったよりハードルが高い。別方向に高い。フリースタイルの方がマシだったかもしれない。
後悔し始めたおれを差し置き、二人は会話を続ける。
「ああ、あの……なんだったか、熱した羽類の卵と、刻んだ根ルルシが入っていたな」
「それですそれです。それに、蒸かしたニギの実を加えて、油でざっと熱を入れるようですよ。味付けまではわかりませんが……」
「あの、さーせん、異世界初心者に現地の食材まじ意味不明っす。申し訳ないんですけど、その根ルルシとニギの実ってやつがどんな感じの何なのか教えてもらえると……」
「そうですね、ニギの実はこのように成るもので……」
「根ルルシは普段はそのままでは食わんな。匂いがきつすぎる。こういう形で生えていて……」
「…………」
二人がおれのノート(の代わりの板)に各々描いたもの。
それは米とネギのまがい物っぽい絵だった。
米を炊いて、刻んだネギと卵を油で炒めたやつ。
「……チャーハンじゃん?」
いや、うん。
この勝負、もしかしたら勝てるかもしんないな? と思えたよ。
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