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第1話

「”初恋のキスの味”、だって。めぐはどんな味だと思う?」 机に置かれたお菓子のパッケージを開きながら、珠希(たまき)が少し揶揄うような口調で言った。 ”めぐ”、というのは珠希が俺を呼ぶ愛称だ。俺は、本名を巡琉(めぐる)という。 “どんな味”、という質問に俺は一瞬ひどく戸惑ったけれど、俺たちは付き合いたての恋人で、今は初めてのお家デートで。 だから多分、味について答える必要はない。 俺はそのことに少し安堵する一方で、今から自分が口に出す内容を思って頬を染めた。 「どした?めぐ。顔真っ赤。」 黙っている俺のすぐそばから、たっぷりと甘さを纏った低い声が鼓膜を揺らしてくる。 「……た、珠希が、おしえて…?」 漆黒の瞳を見上げながらそう紡げば、彼は形の良い唇を優しく笑ませ、俺の頭を撫でた。 「なにその答え、かーわい。…じゃあ目、閉じて。」 珠希の手の感触は、いつも温かくて気持ちいい。 その感触に身を委ねるようにして目を閉じた。 とくとくとく。 目を閉じた途端にやけにはっきりと聞こえるようになった心臓の音が、自分が今どれだけ緊張しているのかを改めて教えてくる。 優しい手が頬にそっと触れて、彼の息が肌を掠めて。 張り裂けそうなほど心臓が強く脈打つから、耐えきれずに瞑った瞼にぎゅっと力を込めた。 唇が、触れる。 初めてのキスは、溢れんばかりの幸せに包まれて、この思い出だけでも永遠に笑っていられる気がした。 彼の舌は味わうように何度も俺の唇をなぞってから、そっと離れて。 目を開ければ、彼と目が合う。 「どんな味?」 ニヤニヤしながら尋ねられて、味なんてするわけがないと思いながらも自らの唇を舐めてみた。 嘘でも甘いと言ったなら、彼は喜ぶだろうか。 けれど、自分の唇に舌が触れた時、今まで感じたことのない蕩けるような快楽に脳が支配された。 なんで。どうして。……神様。 自然と口元がにやける。潤沢な唾液が口内をいっぱいに満たす。 そんな中で、心だけが泣きそうな絶望に支配されていた。 「めぐ?」 心配そうな珠希の声。 今の俺にはそれに答える余裕すらなくて。 「ご、めん、今日は帰る。」 全身が震える中で、目一杯の力で口を押さえ、逃げるように珠希の家を後にした。 「えっ、めぐ、どうした?めぐっ!?」 そんなはずはないと思いたかった。 彼とキスしたいという思いが具現化した夢だと思いたかった。 けれど、これは違う。だって俺は、味覚を持っていないのだから。 ”美味しい”、って、感じるはずがない。……否、感じてはいけないんだ……。 急いで家に帰り、洗面台の蛇口をひねる。 口に水を含んでは、ゆすいで吐くことを繰り返した。 忘れろ、……忘れろ。 暗示のように自分に言い聞かせ、あの感覚を記憶から切り離そうと努める。 けれど少しも離れてくれなくて、それどころか忘れようとするたびに記憶にはっきりと刻まれ、あの感覚をもう一度と望んでしまうその無常さに、自分と自分のいる世界を呪い殺したくなった。 「……そっか、やっぱり、俺は…….。」 大きくため息を吐く。 今まで必死にそうではないと言い聞かせてきたけれど、おそらく俺は、”フォーク”と呼ばれる先天的な味覚異常の疾患者だ。 そしてきっと、珠希は”ケーキ”と呼ばれる特殊体質の持ち主なのだろう。 ……こんなこと、俺は知らずに生きていたかったのに。 ただ普通に恋をして、珠希と笑い合いながら日々を過ごす、当たり前の幸せを望んで手を伸ばしただけなのに。 理想がぼろぼろと崩れ去って、代わりに背後から絶望の足音が近づいてきた。 明けない夜が、始まる。

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