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前編
(ネコーーー!!)
さあ、来い。頼むから早くこっちに来てくれ、お願いだから。高所恐怖症のおれにとって今の高さは、とっくに恐怖の極限を超えている。必死に手を伸ばしているのに、肝心の子猫はぷるぷると小さな体を震わせ、か細い声で鳴くばかりで動いてくれない。
(俺が泣きたいよ、ネコぉ……)
かといって、カラスに襲われかけているのを見かけたのに、そのまま見て見ぬふりをすることもできなかった。キャンパスの中でも目立たないところにあるこの木に、登ってからどのくらい時間が経ったのか。すごく長い時間、ここにいる気もしてきた。セミが元気いっぱい鳴いている夏の暑い日に、おれは一人だけ冷や汗をかきまくっている。
「……大丈夫だから。ほら、お前も早く下に降りたいだろう?」
猫に話しかけている自分の声も、笑えるくらい震えている。それでも、話しかけたのが良かったのか子猫はようやくおれに向かって少しずつ歩み寄り始めた。
「よし……よし!! いい子だ」
今にも落ちそうだった細い木の枝の端から、おれが腰かけている太い木の枝へ。何度か足を滑らせつつも、子猫は必死に歩く。
(もう少し……!)
手が届くところまで来てくれさえすれば。しかし、そんなおれの願いを嘲笑うかのようにカラスは子猫へと迫ってくる。さっきから俺がほとんど動けていないのを見極めたとばかりだ。
「ダメだって、あっち行けよ!」
あと少しなんだ。無我夢中で子猫の方へとにじり寄り、その小さなもふもふを抱えようとして――子猫は驚いてしまい、逃げ出そうとしたのか枝から足を踏み外した。それを助けようとしたおれも、仲良く落ちる。
「いってぇ……」
足からなんて、上手く着地できるはずもなく。全身を打ってしまい、少しの間痛みに悶えてから子猫を思い出し、上体を起こしたおれに「大丈夫か」と知らない奴が声をかけてきた。
「ネコ! 小さいのが、落ちちゃって……!!」
「ああ、こいつ? 俺が受け止めたから、怪我とかはないと思うけど……犬山の方こそ怪我していないか」
動揺しまくりのおれに答えたのは、びっくりするくらいすらりと背の高い男だった。黒く短い髪に、男らしく整った顔。剣道か何かやってきましたか? っていうくらい硬派な雰囲気。実際、何か運動はしているのだろう、ゴリマッチョではないが腕とかもしっかり筋肉がついていて、背も高く均整がとれているのが、同じ男としてとても羨ましい。背は伸び悩み運動も苦手なおれの、対極にいる人間。そんなイケメンが、子猫をナイスキャッチしているなんて、カッコよすぎる。
「おれは平気。ネコが無事でほんとよかった……ありがとう!」
きょとんとした顔をしている子猫を見ていたら、やっと高いところにいた恐怖も落ち着いてきた。落ち着いたら、あちこちズキズキと痛いよアピールしてくる体を無視して相手に礼を述べる。男はおれを見て眉根を寄せると、「この猫を助けた後は、どうするつもりだったんだ」と尋ねてきた。
「ええと……助けるのに夢中で……。うちは家族が猫アレルギーだから飼えないし、可愛がってくれる人をちゃんと見つけるよ」
「自分で飼うつもりはないのか」
男に確認されて、おれは悄然としながら頷く。確かに、おれが飼ってこの子猫を幸せにしてやるんだ、くらいの覚悟がなければ、手を出してはいけなかったのかもしれないし、無責任さを責められても仕方ない。それでも、この子を見殺しにはできなかった。
「……ごめん」
なんとか声を絞り出すと「違う!」と男は慌てたような声を出した。
「すまない、責めているわけじゃないんだ。犬山が良ければ俺が預かってもいいか、聞きたかった。それより、足と腕から血が出ている……ここで待っていてくれ」
硬派な剣道部員っぽいイケメンは一瞬困り顔を見せ、それから子猫を連れて事務棟へと走り去ってしまった。
(ちょっと怖かったけど……)
でも、最後にほんの少し見せてくれたあの困り顔を思い出したら、気持ちが和らぐ。きっと彼は優しいのだろうな、と思った。イケメンで性格が良くて。そんな完璧な人物が、この世には実在するらしい。そういえばそんな奴と仲良かったこともあった。仲良くなりたくて、会えば声をかけて。今思い返せば、引かれていてもおかしくなかった。
数少ない友人たちに感じるのとも違う、よく分からない緊張感を紛らわせるために立ち上がると、彼の姿が見えないことを確認して講義室へと向かうことにした。
「これ以上迷惑かけられないし。でも、なんでおれの名前知っていたんだろう?」
同じ学科なら、名前は知らなくても顔くらいは見かけたことがありそうなものだ。ただ、おれは人の顔も名前も覚えるのは苦手だから、自信はまったくない。
(あの子、可愛がってもらえるといいな)
自分の手で、最後までちゃんと助けてあげられなかったけれど。彼は、どんな名前を付けるのだろう。それとも、彼の家族か誰かが飼うのかな。そんなことを考えながら講義室に入ると、すっ飛んで来た友人たちによって強制的に保健室に連れて行かれる羽目になるのだった。
(あれ? あの時の……?)
子猫を助けようとして木から落ちた一週間後。図書室に続く長い廊下を歩いてくる背の高い男におれは気づいた。短い黒髪。硬派な印象。ピシッと綺麗に伸びた背筋。挨拶しようとは思ったものの、もう相手はおれのことを忘れているかもしれない。返事を無視されたら、とか悶々と考えているうちに、相手もおれに気づいたらしい。走りだしそうな勢いでこちらへと向かってきた。
(もしかして誰かと待ち合わせていたのかな)
おれの後ろにも、図書室に向かう学生が何人もいて、時折ふざけて笑う声が静かな廊下に響く。よし、会釈だ。会釈をすればいいんだ。軽く頭を下げて、通り過ぎよう。そう決めて相手が俺の近くまで来た瞬間――おれは何故か、男に両肩を掴まれていた。
「やっと会えた……! 犬山、怪我の具合は⁈」
「え? ……え⁈ あの、おれ?」
おれの後ろから来ていた、同じ学科の学生たちが驚いた顔でおれたちを見ていく。それが恥ずかしくなり、まだ誰もいないだろうカフェテリアへとおれは必死に男を引っ張っていった。
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