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後編

「……驚かせてしまったみたいですまない」 「いや、こちらこそ。突然カフェテリアまで連れてきちゃって悪い」  ちょっと怖そうな雰囲気の持ち主がしょんぼりすると、男のおれすらグッとくる何かがある。 「酷い怪我をしていたのに、戻ったらいなくなっていたから心配だった。痛みとかはもう大丈夫なのか?」 「ああ、血とか出てたから大げさだったよな。大丈夫だよ、骨もなんともなかったし。戻ってきてくれたんだ……ごめんな。ええと、ネコはどうなったの?」  元気だという相手の返事に、おれは安堵する。男はまだ傷跡が残るおれの手のあたりを見て、眉根を寄せた。 「まだ、痛そうだ」 「このくらい、大したことないよ。それより、木の上にいた時の方がよっぽど怖かったし。おれ、高いところダメなんだよ。遊園地でも観覧車とか、ほんとダメ。自分の足が地面から離れている、って思った時点でこの世の終わりかと……」 「犬山は勇気があるんだな」  自分でも情けないと思う話しをしたのに、思ってもみなかった返事に照れてしまう。 「別に、そんな立派なもんじゃないって」  気恥ずかしさを堪えつつ、相手をちらりと見やる。男は優しそうな、柔らかな笑顔を浮かべていた。 「俺に話しかけてきたの、犬山くらいだから。勇気あるよ」 「……おれが? ええと」  誰だっけ。こんな風に親し気に話しておいて今さら、名前を訊くのは非常に気まずい。 (くっ、どうして大学生には名札がないんだ……ッ!)  名札があれば相手の名前を知ることができるのに。それとも、本当に過去に出会ったことがあるのだろうか。必死に思い出そうと脳をフル回転させたところで、男が我慢しきれないとばかりに笑い出した。 「俺が分かるかなんて、意地悪い質問はしないから安心しろよ。英文科の久原だ。高校は違ったけど、犬山と同じ塾に通っていたことがある。曜日もバラバラだったから、犬山は覚えていないかもしれない」 「ひさはら……? 同じ塾……?」  英文科のキャンパスは、おれたちの学科とは別のところになる。それより、一時期同じ塾だった久原という名前には一つだけ心当たりがあって、おれはつい、相手を――久原を、まじまじと見た。ネコ救助の時に思い返したのは、まさしく久原だったから。 「おれが知っている久原は、金髪で……背だって、おれより少し高いくらいだったのに」 「すごいな、覚えていたんだ?」  そうやって笑った久原の顔は確かに、おれの記憶の中にある久原のものと、重なった。 「びっくりしたなあ。髪の色だけじゃなくて身長もそんなに伸びてさ。目つきも違うし……別人じゃないか」 「背は俺もびっくりしたんだって。元々目が悪かったから、今はコンタクトを入れている。……髪も、別にあの色が好きだったわけじゃないし。今どき、あんなえぐい髪の色していたら浮きそうだから」  二年ほど会わない間に、こんな硬派になって背も伸びて一気に大人びてしまったら。そもそも、人の顔の判別が苦手なおれに見分けがつくはずがない。せめて「久しぶり~! 久原だよ~」くらいは言って欲しかった。  あのネコに会わせてくれるという久原の提案にちゃっかりと乗り、バス停に続く緩やかな下り坂を二人並んで歩く。セミたちが元気よく鳴く強い日差しの中、こうやって歩いていると、以前もこうして久原と並んで歩いたことがあったな、と段々と思い出してきた。  髪の色も派手でヤンキーばりの外見なのに、いつも一人で黙々と勉強していた久原は不思議な存在だった。そんな久原と偶然街の図書館で会って、おれのお気に入りの本を彼が持っていたから、気づけば勢いよく話しかけていた。当時の友人たちはみな、久原を怖がっていたけれど、外見が派手というだけで、久原は頭も良かったし……笑顔は、柔らかかった。 「なんかもう、ほんと別人みたいになるんだなー。ん……? 英文科なのにこっちのキャンパスに来ているのって、なんで?」 「借りたい本がこっちのキャンパスにしかなかったから、たまたま。……教職取ろうかと思っているんだ」  唐突に話が変わった気はしたが、おれは「へえ!」と間抜けな相槌をした。 「すごいなあ。あれだろ、赤点取っちゃダメとかいろいろ条件あるんじゃなかったっけ。久原頭いいしね」   「……犬山が、言ったんだ。『久原は教えるのが上手だから、先生に向いてそう』って。本当に先生になるかはまだ分からないけど、進路を決めた時は、なんかその気になって。そんなこと言ってもらったの初めてだったから、すごく嬉しかった」  少し早口で、久原が返事をしてきた。確かに久原は下手な教師よりずっと、勉強の教え方が丁寧で上手だった。 「おれ、そんなこと言ったっけ? でも、それが久原の進路決めちゃったんなら、なんか責任取らなきゃかなー」 「……取ってくれるわけ?」 「どう取ればいい? アイス奢るくらいの財力しかないけど」  久原は笑いたいのか、顔が赤くなったのが恥ずかしいのか、口のあたりを自身の手のひらで覆うと立ち止まった。 「金とかはいい。俺の方が多分ある。……じゃあ、この間犬山が助けた子猫に名前を付けるとか」 「えっ、だって久原の家で飼うんだよね。おれに決定権があったらご褒美じゃないか。……でも一緒に考えさせてもらえたら嬉しいな。いい?」  いいよ、と立ち止まったままの久原が優しい笑顔を浮かべながら短く返してきた。それに見惚れている間に、バスが近づいてくる。これを逃がすと、次は二時間後だ。暑い中下まで歩くか、キャンパスにもう一度戻るかしなければならない。 「急ごう、ほらほら!」  久原の手首を掴むと、バス停へと急ぐ。  こんな風にまた出会えるなんて、思わなかったから。必死な素振りでもしていないと、嬉しくて変な顔をしそうになるんだ。自分でもよく分からなかったこの感情に付ける名前を、おれは少し後に知る。  それは、初恋と言った。 ◆了

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