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11話
宮野瑛史朗。
《Sparkle》の社長、氷室真継の隣に立つ青年が、新しく営業に配属される新人だ。
「やっと、僕、先輩になれます~」
しっぽを振る柴犬を思わせる大友圭太に、ほづみは「よかったな」と適当に返してデスクに戻った。
ご褒美に遼から与えられたプレミア価格の珈琲の香りは最高に良かったが、心の底から喜ぶには少しばかり余裕がたりていない。
黙っていると、エレベーターで迫ってきた遼の顔を思いだして、もやもやと胸が苦しくなる。
自己紹介をしている新人の声すらも、どこか遠くに感じていた。
「しゃきっとしていないと、珈琲で火傷しますよ。僕に口の中を舐められたいんですか? 僕は、舐めたいです。むしろ、キスしたいです」
「冗談は、寝てから言え」
ほづみとしては言い返したつもりだったが、遼は言質を取ったとばかりに上機嫌になって、ほづみの隣にある空席に座った。
「ぬるめにしてもらったから、問題ない。それより、新人が挨拶しているんだ、ちゃんと聞いてやれよ」
「必要ありませんよ、彼の面倒は大友君が見てくれます」
小声でやりとりしているうちに、挨拶が終わったようだ。
遼が言うように、しばらくは大友の下につき、仕事を覚えてもらうとのことだ。
「では、よろしく」
氷室のよく通る声で締めくくられ、まばらな拍手が、オフィスに響いた。
一拍遅れて拍手をしていると、オフィスをぐるっと見回した瑛史朗が、ほづみと目が合った途端……険しい表情を見せた。
視界に入った者を射殺してしまいそうなほど、強い視線に、ほづみはたじろぐ。
「怖がらなくても大丈夫ですよ、ほづみさん。彼の目的は僕ですから」
「お前の知り合いなのか? なんで、俺が睨まれなきゃならない?」
瑛史朗とは初対面どころか、噂でしか存在を知らなかった相手だ。遼が原因だったとしても、ほづみが睨まれる理由はまるでない。
「僕が《Sparkle》に入社したって、どこで聞きつけたのかな。行く先、行く先、追ってきてちょっかいかけてくるんですよ」
「まさか、お前。あんな若い子にまで手をだしたのか?」
「嫉妬ですか? 嬉しいけれど、僕だって好みはあります。あんな面倒そうな子、手を出すわけないです」
やれやれ、と暢気にキャラメルマキアートを啜る遼に、ほづみは「そうか」と珈琲を啜った。
「彼、若いですがかなりのやり手ですよ。前に勤めていた職場で、それなりに煮え湯を飲まされました」
遼はデスクに広げた書類に目を通しながら、当時のことを思いだしたのか苦い表情を見せた。
「起用する予定だったモデルを取られたり、良質の宝石を奪われたりと……何考えているかわからない顔をしていますが、犬並みに鼻が利く子でね。今回は、同じ職場か……何を考えているのかなぁ」
いつも、余裕綽々でやや傲慢にも思える自信の塊といった感を受ける遼の煮え切らない様子が物珍しく思えて、ほづみは珈琲を飲むのも忘れ見入っていた。
「……心配しないでください、ほづみさん」
ぎし。
と、椅子の背を軋ませて振り返った遼が僅かに上体を乗り出してくる。遠慮なく近づいてくる顔に、ほづみは紙カップを持つ手に力をいれていた。
「心配なんか、少しもしていないからな」
先輩風を吹かす大友に引っ張られ、瑛史朗がオフィスを出て行った。ぞわぞわとする視線はなくなったが、ぞくぞくとする体臭にほづみは椅子ごと遼から距離を取った。
「ほづみさんにしているようなことは、他の誰にもしていませんからね」
ぺこっ、と紙カップが歪んでプラスチックの蓋が飛んだ。
「あぁ、もう。ほづみさん、汚れちゃいますよ」
しょうがないんだから、と。小学生を見送る母親のような口調の遼に、珈琲をそっと取られる。
「とにかく、普段通りにしていていいんです。彼の目的が何であれ、標的はたぶん僕ですから」
「明らかに危険を感じる視線だったぞ、あれは」
「気性が荒いんですよ、彼。家系的なもので、まあ、悪い子ではないんです。困った子ではあるけれど」
ちょっとした知り合いと言った割には、親戚を語る遼の口調に、違和感を覚える。
「お前のコネで、うちに入ってきたのか?」
「いいえ。宮野くんだと知っていたら、全力で入社をさせないように動いていました。もう少し、周囲に関心を持つべきでした。ほづみさんにぞっこんとはいえ、しくじりましたね」
「一言が多いんだよ」
話を聞かれていないかと、ほづみはちらちらと視線を泳がせた。
「なあ、あの子やばいのか? 不良と言うよりは、健全なスポーツマンにしか見えないが」
問題児であるなら、氷室に教えておいたほうが良いのかもしれない。
「いいえ、根はとても素直な子ですよ。ただ、家庭環境が複雑で……まあ、人間の皆さんには関係の無い話ですけどね」
「にんげん?」
「どうしたんです、鳩が豆鉄砲食らったような顔をして」
さも当然といった顔の遼に、ほづみは「ふーん」とごまかして、資料に目を通す……振りをした。
(何なんだ、こいつらは)
隣でキャラメルマキアートを飲んでいる人間面をしている、自称夢魔の遼。
では、宮野瑛史朗の正体はなんなのか。同じ夢魔のたぐいなのだろうか?
気にはなるが、触れたくない気持ちのほうが大きい。
知らぬが華、知らなければ瑛史朗は化け物ではなく人間として接することができる。
(一生懸命になって育てた会社が、いつのまにか魑魅魍魎の巣窟になっていただなんてごめんだ)
期待の新入社員に浮かれている氷室の様子を視界の隅にいれつつ、ほづみはデザイン途中のティアラを仕上げるべく、ペンを手に取った。
◇◆◇◆
「本当に、部屋まで一人で帰れるんですか?」
「酔っ払い扱いをするな。俺は、一滴も飲んでいなひんだからな」
「飲んでいないのに、どうして顔が真っ赤なんですか? アルコールの香りに当てられたとか……ほんと、可愛い人ですね。帰り道が心配になります」
心配されてもなぁ、と。ほづみは遼を振り切るようにタクシー代を押しつけて車を降りた。
「大丈夫だよ。まだ、時間もはやいし、十歩行けばマンションの中だ」
心持ち足下が不安定だが、歩けないほどではない。遼の介助は必要ない。
いつぞやの失敗を恐れ、ほづみは頑として酒を口にしなかった。
新人の歓迎会なんだからと強要されても、オレンジジュースで凌いでいたおかげで、まだ思考はまともに動いている。
「そうですか。まあ、今日はおとなしく引き下がりますよ。明日も、仕事ですしね」
「そうだ、明日も仕事だ。だから、ぐっすり眠らせてくれ」
精液でぐっしょり濡れたシーツと寝間着を放置したまま出社するなんて、ごめんだ。
「わかっていますよ。週末だけって、約束ですしね。……なんだか、僕たち、逢い引きしているみたいですね」
「黙れ、黙れ」
遼の台詞を軽口として流して、ほづみは背を向けた。
タクシーが走り出すのを待たずにエントランスをくぐり、カードキーを差し込んで扉を開ける。
時刻は、午後九時。
まだ明かりがともる世帯の多い時間帯に帰宅するのは、久しぶりだ。
ほづみは軽い足取りでエレベーターに乗り込み、体にしみこんだアルコール臭を流すべく、帰途についた。
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