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10話
「ほづみさん、運動音痴でしょ? 子犬を追い掛けて、怪我するなんて」
「ノーコメントだ」
予想していた通りの遼の反応に、ほづみはギリギリと唇を噛みしめた。
「まあ、とにかく隣に座ってください。絆創膏、位置がズレていますよ。僕が直してさしあげますから」
デスクの抽斗を開け、救急セットを取り出す遼にほづみは顔をしかめた。
「なんで、そんなものを会社に持ってきているんだ?」
絆創膏だけならまだわからなくもないが、遼が取り出した救急セットは絆創膏から消毒、湿布に包帯など、過保護なラインナップだった。
「そりゃあ、ほづみさんがなんだか危なっかしくて」
「なんで、オレのせいになってんだ」
促されるまま椅子に座り、ほづみは未だにひりひりと痛む頬を遼の前に差し出した。
「なんでまた、部屋の中で子犬と追いかけっこする羽目になったんですか? ペットなんて、飼っていないでしょう?」
べりっとはがされる絆創膏に、ほづみは背筋を振るわせた。わざと痛くされているのではないか? ほづみは不機嫌を隠そうともしない遼を盗み見る。
「たぶん、玄関を開けたときに入ってきていたんだろう。昨日の晩は疲れてたから、気がつかなかったんだろう。すごく、真っ黒な毛並みだったしな」
コットンにしゅっ、しゅっと消毒液を拭きかけている遼に、ほづみは「うへぇ」と眉をひそめた。
「痛いのは、お嫌いですか?」
「好きな奴がいるのか?」
「そういうプレイを好む層も、いますよ」
からかうなと反論しようとしたところで、ほづみは昨日、引っかかれたばかりの生傷にしみこむ消毒液に悲鳴を上げた。
「……で。大格闘の末、ほっぺたにひっかき傷という名誉の勲章が残ったと。犬は、ちゃんと処分できましたか?」
「処分、ってお前……い、痛いっ!」
遼の物騒な物言いに引っかかるものがあるが、今は頬の痛みで頭がいっぱいだった。
きゅっと堅く口を閉じて、ほづみはこくこくと頷いた。
「駄目じゃないですか、きちんと手当しないと。化膿したら大変ですよ。痛いからって、消毒サボったでしょ?」
「お、追い出せた……と、思う。今朝、出社するときは見なかったしな」
しつこいまでにコットンを当てられ、もう嫌だと漏れる泣き言に、遼の口の端が持ち上がった。
「ちゃんと、手当しろっ!」
「怒らないでくださいよ。痛いの我慢したご褒美に、珈琲おごってあげますから」
四十にもなって、どうしてモノでつられなければならないのか。
「絆創膏じゃあ、ちょっと足りないですね。ガーゼを当てますね」
ほづみの不機嫌などモノともせずに、遼はガーゼを小さく切って頬に添えてテープで留めた。
「いやぁ、ほづみさん。ひどい顔ですね。酔っ払って喧嘩をしてきたみたいです」
茶化してくる遼に「だまれ」と舌打ちをして、椅子から立ちあがった。
「どこに行くんですか?」
救急セットを元の位置にしまいつつ、上目遣いに聞いてくる遼に、ほづみは肩をすくめてみせた。
「珈琲を、おごってくれるんだろ?」
酒も煙草も嗜まないほづみだが、ややカフェイン中毒の衒いがある。休憩時間も作業中も、珈琲がないとどうにも落ち着かないのだ。
「ご褒美が欲しいんですか? もうちょっと、可愛く言ってくだされば、クッキーもつけてあげますけどね」
遼のデスクの上に積み重なった書類の海の中に、《Virgin》の広告チラシのサンプルを見つける。
ほづみと遼が組んだ《Virgin》初の商品である結婚指輪は、広告塔として起用した女優の天木志保里の影響もあってか、幅広い世代で好評を得ている。
「よく撮れているでしょう? 知り合いのカメラマンに依頼したんですが、本当に良い腕をしている」
ほづみの視線に気付いて、遼がチラシをすくい上げた。デザイン案段階とはいえ、目を惹かれる出来になっていた。
「純粋無垢でありながら、どこかエロティックな雰囲気をも併せ持っている。わがままなお姫様の魅力を充分に惹きだしてくれています」
遼は「これは、売れますよ」と楽しげに声を弾ませた。
三十代のマーチャンダイザー。
若手でやり手の遼は、デザインしたジュエリーの命運の預ける相手として、とても頼もしい存在だ。
(……複雑だ。とても、複雑だ)
散々だめ出しをくらい、いくつも没をだし。
気が狂うほど、若造に悔しい思いをさせられているが、投げずに食らいついていけるのも、ストレスの現況である遼の巧みな手腕があるからだ。
遼のプロデュース力と、空恐ろしいほどの人脈は、どうあがいてもほづみには築けない。
「どうしたんです? ご自分のデザインに見ほれちゃいました?」
「――まあな」
強がって言ってみたものの、自分だけの力でないのは嫌でもわかる。
様々な職人の手に渡り、商品として洗練されてゆく課程を目の当たりにしていると、嫌でも気付かされる。
遼が《Sparkle》にくるまでのほづみが、力足らずだったというわけではない。
一定の評価を得ていたし、遼が現れなかったとしても、問題はなかったろう。
順風満帆、満足していた日々をほづみなりに送っていたからだ。
「そういえば、社長はどこに? さっきから、見当たらないんですが」
「営業に一人、新人が入るらしい。たぶん、一階のカフェで説明なりなんなりしているんじゃないか?」
《Virgin》のヒットで社名が上がったおかげで人手が必要になったと、嬉しそうに笑う氷室の顔を思い出す。
「新人ですか。どんな人でしょうかね」
遼とつれたってオフィスを出て、エレベーターホールに向かう。
「履歴書を見たわけじゃないからな、詳しくはわからない」
「……興味、無いんですか?」
いつもの、人好きの言い口調から一転して、湿り気を帯びる遼の声に、ほづみは頭に疑問符を浮かべて振り返る。
「うわっ」
間近に迫る遼の顔に驚いて後じさったほづみは、エレベーターのドアに背中をぶつけた。
「危ないですよ、ほづみさん。ドアが開いたら、転んじゃいますよ」
当然のように引き寄せられ、股間が触れるほどがっちりと腰をホールドされたほづみは、顔を引きつらせた。
「なっ――なっ?」
困惑のあまり、声が上手く出ない。
「なんだ、い、いきなりっ」
腰から尻へと移動してくる腕から逃げようと身じろぐが、くやしいことにびくともしない。
スーツ越しに感じる、以外にも筋肉質な遼の体の感触に、ほづみの心臓が暴れ出す。
「いや、良かったなぁ……って。ほっとしたら、抱きしめたくなっちゃって」
「――はぁ?」
「僕以外の男に関心もたれるなんて、嫉妬でどうにかなっちゃいそうですもん」
「はぁ? 熱でもあるのか、お前」
訳がわからない。
「とにかく、離せよ。尻を揉むんじゃあない」
「まったくその気になってくれないのは、僕としては、だいぶ残念だなぁ」
首筋に顔を埋めようとしてくる遼に、ほづみは頭突きで返した。
「だめですよ、ほづみさん。こんな、可愛い反応をされると、たががはずれちゃうでしょ」
ごつん。と、かなりいい音がしたのだが、遼はにやにやと笑っている。
「なんだよ、気持ち悪いぞ」
抱きしめられたまま、ほづみは少しでも遼から離れようと体を反らせた。
休憩時間にはまだ早く、エレベーターホールはがらんとしているが、同性に抱きしめられている状況は……たとえ、相手が異性であったとしても落ち着いていられる状況ではない。
ほづみは早くエレベーターが降りてこないかと、ボタンを後ろ手で連打した。
「とにかく、離せ」
ほづみの願いが通じたか、エレベーターの到着ベルが鳴った。
「いいでしょ、別に。ほかに誰もいませんし」
「良くないから、言って……うわっ」
不意に視界が持ち上がり、ほづみは反射的に遼にしがみついた。
軽々と持ち上げられたまま、二人してエレベーターに乗り込んだ。
「ふふ、ほづみさん赤ちゃんみたいですね」
「ふざけるな、降ろせよ!」
遼は「はいはい」と、子供を宥めるようにほづみの背中を叩いて床に降ろした。
「ねえ、ほづみさん」
背筋を這い上がってくるようなねっとりとした遼の声に、ほづみは怒りをすっと引っ込めて、目が合わないように俯いた。
顔を上げれば、キスをされてしまうかもしれない。ほづみの直感を肯定するように、遼の指先が唇をいじってくる。
「正直に言えば、夢だけじゃもう……足りないんですよね」
いくら性に疎いほづみでも、毎週末、夢の中で抱かれていれば、何を求められているのかくらいは察せられた。
「嫌だからな、絶対に」
遼の唇から、重いため息が漏れる。
犯罪者のような気分にさせられるが、無理強いをしているのは向こうだ。
ほづみは折れそうになる心を叩いて、ついでに遼の手も振り払った。
気まずい雰囲気を読まず、軽快なベルを鳴らすエレベーターに、ほづみはほっと息をついた。
「夢でも、現実でも。僕は本気なんですよ、ほづみさん」
告白を無視するよう、ほづみは精一杯の力で遼の体を押しのけ、エレベーターを降りた。
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