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9話

 夢と割り切ってしまえば遼との淫らな邂逅も、必ずしも悪いものではない……のかもしれない。 「……よくもまあ、飽きないな」 「キスの合間に言うには、無粋な台詞ですね。お仕置きされたいんですか? 僕は、してみたいです。ほづみさんにエッチなお仕置き」 「馬鹿言え、殴るぞ」  柔らかい、ベッドのようなものにほづみは押し倒されていた。  顔は良いものの、同性から体中を舌で舐めまくられている状況。ほづみからすれば充分、仕置きのたぐいに含まれているのだが、口に出して言えば、遼は臍を曲げて何をしでかすか分かったものではない。 (夢じゃなかったら、ぶん殴ってるんだがな!)  ジュエリーブランド《sparkle》の専属デザイナーを任されている雲越ほづみは、マーチャンダイザーとして引き抜かれてきた新見遼と現在、チームを組んでいる。  今日も、会社を出てから夕食とるために立ち寄った飲食店で、新作のアイデア出しを閉店間際まで激論していた。  仕事が押しているせいで会社に戻る遼を見送り、ようやっと捕まえたタクシーに乗って帰宅したほづみは、さっさと風呂に入ってベッドに倒れ込んだ。  直後、これだ。  ほづみは、遼のテリトリーに引き摺り込まれ、体を思う存分弄ばれている。 「興が冷めたなら、家に戻っていいんだぞ。俺は、疲れた。寝たいんだ」 「ほづみさんが締め切りぎりぎりまで頭をひねっていたせいで、進行が随分と押しているってさっき話したでしょ? 僕は今、オフィスで仮眠中です。薄いマットレスで、ストレス倍増ですよ。心は荒野のごとく荒んでいます」 「仕事が押してるなら、さっさと起きて仕事に戻っ……んむっ」  唇が触れ、舌が差し込まれる。  濃厚なキスは不本意ながら気持ちが良くて、遼を受け入れるように体から力がぬけてゆく。 「ほづみさんのせいで、酷い目に遭っているんです。慰めてくださいよ」  人肌の生暖かさはとてもリアルで、夢の中にいるのか現実なのか分からなくなってくる。  ほづみは溺れそうなほどの強い快感に眉をひそめ、遼の肌を引っ掻いた。嘘とは思えない質感に、腰がきゅんと甘く痺れる。 「キス、慣れてきちゃいました? あまり嫌がらなくなりましたね」  嬉しいなぁ。と微笑む顔に、胸が苦しくなるのは、遼の造作がほづみの美的センスを刺激してくるからだ。  決して、キスをされて喜んでいるわけではない。  どんなに腹の立つ相手でも、美しいものは美しい。  小さい頃から、ほづみは綺麗なものが好きだった。だからこそ、ジュエリーデザイナーをしている。 「さんざんされてるんだ、さすがに慣れる」 「ずっと、恥じらってくれていてもいいんですよ? 処女みたいなほづみさん、すごく可愛いくて……何度も、何度も見たくなる」  恐ろしいほどに、遼のルックス……とくに、顔は、ほづみの審美眼をうならせる出来になっている。 (化け物じみている……いや、実際に化け物なんだっけか? 夢魔っていったか。何が何だか、まったくわからないが)  頬を撫でくり回し、執拗にキスをねだってくる遼に、ほづみは口をぎゅっと閉じて拒否をした。好きにさせていては、いつまで経っても終わらない。  ほづみの性対象は、おそらく女性だ。男性でないことは、確かだ。  四十を迎えて女性との経験はおろか、きわどい成人男性向けの雑誌をみたところで発情などしないが、男に抱かれたいとも抱きたいとも思えない。  なのに、この状況だ。  素っ裸のまま、広げた足の間に居座る遼もほづみと同様に全裸で、隠す気もない凶悪な太さを持つものはすでに一度、濃厚な精を吐き出していた。 「やることは、やったんだ。もう、戻れよ」 「余韻を楽しみたいんですよ。ハードな仕事ばかりですり減った心を、ほづみさんの愛で満たしてほしいなぁ」  遼はためらいなく、萎えたほづみの中心に触れた。 「止めろよ、まだ……するのか?」 「当然でしょ? まだ、一回ですよ」  誘う手つきに、不覚にもほづみの雄が反応を示す。 「まあ、飾らないで言うなら。ほづみさんの精気が欲しいんです。僕、こう見えて夢魔ですから。栄養ドリンクよりもずっとずっと、効くんですよ。ほら、仕事のためとわりきって、もう一回しましょう?」 「枕営業なんてしないぞ、帰れ」  夢はお互いに都合が良すぎて、セックスの経験がなくとも不快感を与えず、困惑するほどの快楽だけを与えてくる。  拒みきれないのは、なんだかんだで気持ちが良いからだろう。童貞でも、不能ではないのだ。 「でも、ほづみさんのここ……気持ちよくなっていますよ?」  男らしい骨張った手に握り混まれたものの先端から、とろりと先走りが零れる。 「こっちだって、僕を誘うようにひくついてるでじゃあないですか? 先月まで、男を知らない体だったのに……淫らですね」  濡れた声で耳打ちされ、ゾクゾクと背筋が痺れる。 「せ、先月もなにも……俺は、誰ともした覚えはないっ」 「夢は、ノーカウントですか?」 「当然だ! こんな、おかしな夢……お、お前のせいで、俺も……おかしく……」  吐き出す息が、熱で籠もる。  遼の手を汚して得る快感に、瞼の奥がちかちかと明滅した。  夢でなければ、憤死していただろう。男のモノで絶頂させられたなんて、認めたくもない。 「寂しいなぁ。こんなに尽くしているのに、僕とのセックスは、ほづみさんにしては自慰程度だったなんて」  泣くまねをしつつ、遼はほづみの内ももを鷲づかみ、さらに大きくこじ開けた。 「慰めてもらわないと、仕事に戻れそうにありません」 「や、やめ……」  嫌々と首を振るが、夢での支配権は遼にある。どういうわけか、ほづみは逃げることも夢から目覚めることも、自分の意識では出来ない。 「それでは、いただきます」 ◆◇◆◇  夢での邂逅が必ずしも最高と思えないのは、翌日の朝のせいだった。  男に抱かれる行為に、慣れもなにもあったものではないが、快感は日々のストレスを緩和してくれているのは否定しきれない。  ほづみは寝起きの厚ぼったい瞼をこすり、自室の天井を見上げてほっと息をついた。  淫らな夢は終わり、清々しい朝が来た。  薄いカーテンから差し込んでくる柔らかな朝日の眩しさは、とても神聖なものに思えてくる。  が、すぐにほづみは顔をしかめた。  不快感の残る下肢に、ぐったりと四肢をベッドの上に投げ出す。 「畜生め……だれが、これを洗うと思っているんだ」  毎度のことながら、腹立たしい。  高校生でもなかろうに、寝間着を汚すほど大量に夢精しているだなんて。  それを、渋々ながら洗濯しなければならないなんて、滑稽にもほどがある。  一人暮らしをしていて良かったと、今ほど感謝したことはない。 「あぁ、面倒だ。寝具一式洗濯にかけなくちゃならないなんて」  身じろげば、ぐちゅっと水音がして、否応なしに、遼との行為を意識させられる。  勃起した男根に体の奥を貫かれ、快感を覚えて達した。  屈辱であるはずなのに、何度も何度も、しつこいほどにもてあそばれているうちに、脳は快楽の味を覚えてしまったようだ。 (……夢だ。所詮、夢の中だ)  吐精後の倦怠感に、ほづみはがしがしと頭を掻いて起き上がった。  股の間を濡らしたままでは、二度寝もできやしない。気持ちが悪くとも、動くしかないのだ。  ほづみは大きく息をついて、サイドボードに置いてあったスマホを手に取る。  仕事のためと、強引に登録させられたSNSから、『おはようございます』と遼からの通知が来ていた。 「朝から、元気な奴だ」  仏頂面を作って無視し、スマホを元の位置に置く。  ほづみは湿った不快感をなるべく意識しないようゆっくりとベッドから降りて、浴室へと歩いて行った。  週末の情事は、ほづみがどんなに嫌だと言っても、遼は我が物顔で勝手に押しかけてくる。  どういった方法でか、仕組みすら全くわからないが、拒む術がまるでないほづみは、なし崩しに体を開かされていた。 『現実世界じゃないから、いいでしょう? 何をやっても、夢なんですからね』  毎度毎度、嫌がって愚図るほづみを言いくるめる遼の言葉。  さすがに「ああ、そうですね」とは言えないが、一人では絶対に得られない快感を得る免罪符になっているのは否めない。 (まあ、気持ちが良いのは確かだ。だからって、実際に抱かれたいかといえば……ノーだ!)  フィクションだから、男に揺さぶられて感じていたところでどうってことはない。  気持ちが良いだけなのだから、アダルトビデオを見ているのと同じ。  ほづみがようやっとのところで出した妥協点だが、遼は不服であるらしい。  姑のように、ことあるごとに文句をつけてくる。 「ぶん殴らないだけ、まだましだって思え」  シャワーの蛇口を開き、まだ冷たい水を手ですくって顔を洗う。  顔は拭かずにそのまま浴室に入り、服を脱いだ。 汗でしっとりと濡れた寝間着を、ランドリーボックスに放り投げる。  下着は思った通りに、精液でぐしょぐしょに濡れていた。ベッドシーツも、同じような惨状にちがいない。 「今日が、天気で良かったよ」  少しでも、ポジティブな要素を見いだしていないと気分が滅入って仕方ない。ほづみはしばし悩んだ末、下着もランドリーボックスに投げてシャワーを出した。  暖かいお湯に打たれる気持ちの良さに、苛立ちが緩和されてゆく。  昨日、帰りがてら駅で買ったレーズンパンと珈琲で朝食をとれば、気持ちもまるっと切り替わるだろう。  いちいち気にしていると、子供っぽいと馬鹿にされそうで嫌だった。  週末なら、いい。  毎日、毎夜。セックスを強要してくる遼に出した妥協案だったが、今更ながら、ほづみは後悔していた。  金輪際、夢でも触れるなと、強気に出てみれば良かったのかもしれない。 (まあ、素直に言うことを聞いてくれるような奴だとはおもえないが)  シトラスのボディーソープで、汗ばんだ体をすっきりさせる。スポンジを手荒く揉んで、泡立たせるうちに、気分もいくらか持ち直した。  汗の臭いも精の臭いも、すべて排水溝に押し流す。ぐだぐだ考えても仕方がないと、ほづみは自分に言い聞かせた。  毎週末の情事のおかげかどうかはわからないが、仕事は順調だ。  倫理観にさえ蓋をすれば、遼とのセックスは必ずしも悪いわけではないのだ。  睡眠時間を削られるのは問題だが、後腐れなく性欲を処理できるのは、都合が良いといえば良い。  「どちらかといえば、被害者は俺なんだがな」  遼を裏切っている気分になるのは、解せない。 「好きです」とささやく遼の言葉が、真剣なのか、冗談なのか。体を重ねていても、わからないものはわからないし、わかったところでどうすべきかほづみにはわからない。  会社以外でのつきあいは皆無に等しく、恋人もいなければ、休日は家の中でまどろむような生活になる。  人を遠ざけたいわけではないが、自然と一人になる生活が続いていた。  新見遼が現れるまでは、とても平穏な日々を送っていた。  タオルに移った柔軟剤の甘い香りを吸い込みながら、ほづみは湿った体のまま浴室から出た。  まだ、眠気の残る足取りでクローゼットまでよたよたと歩いて行って、着替えを引っ張り出す。  パンツと新しいスウェットパンツを量販店のビニール袋から引っ張り出して、タグがついたまま履く。  新品の、ごわごわとした肌触りに顔をしかめつつ、ほづみは汚れたシーツをベッドから引っぺがした。  料理は外食、掃除はロボット。  家事の一切が苦手でも、洗濯だけは己の手でしなければどうにもならない。  ほづみは「めんどうくさい、めんどうくさい」と、会社に泊まり込みで仕事をしている遼を呪いながら、シーツを洗濯機へ放り込んだ。  洗濯開始のボタンを仰々しく押し込んで、珈琲をいれるためにキッチンへと移動する。  一人暮らしには大きめのテーブルには、昨日買ったレーズンパンが入ったビニール袋が置いてある。 「……ん?」  ほづみは湿ったままの髪を掻き上げ、首をかしげた。  あまりにも疲れていたので、パンの入ったビニール袋を放り投げた記憶はある。……が、だからといって中身が飛び散るほど投げつけた覚えはない。 「いや、パンがない。ないぞ」  ほづみは、がさがさをビニール袋を漁った。  五百ミリペットボトルに入った炭酸水。コンソメ味のポテトチップス。  一緒に入っていたはずの、レーズンパンがどうしてか見当たらない。  帰ってくる途中で落としたのか?  半信半疑でほづみは玄関ドアへと視線を向けたが、転がっていたのはネクタイだけだった。 「まいったな、さすがに朝食が水だけなんて味気ないにもほどがある」  パンを焼くか珈琲を入れるくらいでしか台所に立たないので、冷蔵庫に入っているのは氷くらいだ。  卵すら、最近は買った覚えはない。  無いとなると途端に自覚し始める空腹感に、ほづみは情けなく腹を鳴らせた。  ここに、遼がいなくて良かった。馬鹿にした顔をうっかり思い浮かべて、ほづみはとりあえずポテトチップスの袋に手を伸ばした。  朝一で口に入れるには油っぽいが、背に腹は代えられない。  片手に抱え、ぱりぱりと貪りながら、ほづみは台所へ歩いて行く。  記憶にないだけで、もしかしたら棚に放り込んでいるかもしれない。  一縷の望みを抱いて探してみるが、どこにもレーズンパンらしきものはなかった。 「本当に、あいつと関わってからろくなことがない」  レーズンパンを無くしたのは、週末の情事に憂鬱だったからだ。そうに違いない。  指についたコンソメの粉末をなめつつ、珈琲を入れるためにコンロの前に立ったほづみは、なにか、柔らかい感触を足の裏に覚えた。  こんなに、毛足の長いラグを敷いていただろうか?  ポテトチップスを探る手を止めず、視線を足下にやって、ほづみは絶句した。 「――い、犬?」  猫よりも一回り大きい、狸のような……チワワのような犬。首輪はしていないが、黒い毛皮は雨露を弾きそうなほどに綺麗だ。  ほづみが踏みつけたのは、犬のしっぽだった。  くんくんと、悲しそうな鳴き声に慌てて足をどけると、犬は足音もなく駆けだした。 「あっ、俺のレーズンパン!」  犬がうずくまっていた場所に、食い散らかされたレーズンパンの残骸が残っていた。  どうやって侵入したかはわからないが、ほづみのささやかな楽しみをぶちこわしたのは、あの犬に違いない。  犬はキャンキャン吠えながら、リビングを駆け回っていた。  玄関ドアも窓も閉め切っているため、犬の逃げ場はどこにもない。 「食い物の恨みは、深いんだ。覚悟しろ、くそ犬め!」  ほづみはポテトチップスの袋をリビングを占領している机に置き、スウェットパンツのひもをぎゅっと締めた。

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