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第一話「Stray Cat」
「おいちゃん、しょうが大人んなったら、しょうと結婚してくれる?」
「……しょうちゃんと?」
子どもは、やけに真剣な目をしていた。
「よかよ。じゃあ、おいちゃんが、しょうちゃんが大人になるまで、ずーっとしょうちゃんば待っとけたら、しょうちゃんと結婚しよう」
そんな呑気なことを言った。この発言を後悔する日が来るなんて、思ってもみなかった。だって、この子どもが大人になるまで、あと十数年もあるのだ。十数年経てば、自分はとっくに結婚しているだろうし、この子どもも、自分のことなど忘れているはず。これなら、今、上手くこの子をいなせるはずだと、そう思っていた。
「…………で、まだ左手の薬指が空いてるってことは、俺と結婚してくれるんでしょ?」
「知らん! 分からん! 覚えとらん!」
その子どもは、山も秋めいてきたある日、野良猫のようにふらっと、裕二 の前に現れた。
「……だいたい、お前小学校くらいで東京に行ったっちゃなかったとか。行くとき泣きわめきよったろうが」
「今日帰ってきた」
「帰ってこんでよか! ……こがんか田舎より東京のほうがよかったろうもん」
「東京、空気汚い。人多い。星も見えない」
仮にも十数年育ててもらった東京に失礼なやつだ。裕二はため息をついた。
「……それに、俺は裕二さんと結婚するって決めてたし」
「……将平 、お前そんな約束が未だに有効て本気で思っとるとか?」
「思ってなかったら言わないよ」
将平は、椅子からこちらをじっと見た。裕二は首を振り、ケーキのショーケースに腕を乗せた。
子どもの頃はかわいかった。小さくて、猫のようなふわふわの毛と丸い目が愛らしくて、この辺りでは有名なイケメンさんだった。
それが、どうしてこう変貌したのだろう。彼は今、まるで話が通じない狂人で、おじさんを口説く図体のでかい変態だ。唯一、モデルのような顔だけは、“しょうちゃん”の面影を残している。
対応に困っていると、店の自動ドアが開き、常連さんが顔を出した。
「あ、いらっしゃい! 誕生日ケーキやろ? できとるよ」
「ありがとう裕二さん」
彼女は、にこにこと笑って鞄から財布を取り出そうとした。しかし、店にいた先客に気付いて、手を止める。
「…………あら、しょうちゃんやない!?」
「はい」
「あらぁ、がば大きゅなっとる! ちょっと立ってん!」
将平はガタガタ椅子を鳴らしながら立ち上がった。スラリと伸びた足から、整った顔までまじまじと見上げて、彼女はケラケラ笑った。
「あらぁ、大きさぁ。190ぐらいあるばい」
「そんなにないですよ、187センチです」
「あら、がーばい大きかやんね! いやぁ、もう、今の子たち足ん長かぁ。何歳になったと?」
「23歳です」
「いやぁ、もうそやんなると? 早さぁ」
ケーキを箱と共に台の上に乗せながら、裕二が声をかける。
「松尾さん、よう将平て分かったね」
「分かるさぁ! 椅子の座り方のこまか時と一緒やんね!」
将平は少し恥ずかしそうに椅子に座り直した。確かに、昔も、彼は背もたれを腹側にして座っていた。
「なんしに来たと? 裕二さんに会いにや?」
「はい。会いにというか……裕二さんの家に越してきました」
「は!?」
「あら、裕二さんの家にや!? ちょっと、裕二さんなんで教えてくれんかったと?」
「いや、違……、将平!?」
そんな約束はしていない。何なら、彼とはさっき再会したばかりだ。裕二は驚きのあまり絶句した。
「あらぁ、そいなら早 よ言うてくれたら良かったとに…………。あ、こいばやろうで、こいば。しょうちゃん甘いもの好きやもんね? さっきそこで買うてきたけん」
彼女は買い物袋の中からみたらし団子のパックを取り出して、将平に手渡した。将平はにこりと笑う。
「ありがとうございます」
彼女は、ケーキを受け取ると、満足そうに笑って帰っていった。レジ周りを整理して、裕二は、ゆっくりと口を開く。
「…………将平」
「いいでしょ?」
「良うなか!」
叫ばれて、将平は、困ったように笑った。
「でも、俺、今家もないからさ」
その言葉に、お人好しの裕二がたじろぐ。将平の母の実家は東京で、この街で生まれ育った彼の父は早くに死んだ。父の実家も、もう廃墟になっている。彼は、今、この田舎で頼れるものがない。
「おねがい」
将平が――“しょうちゃん”が、寂しそうな瞳でこちらを見た。
「裕二さんの部屋、思ってたよりは綺麗だね」
「あんまい見るなさ」
「これから住むんだから、どうせ死ぬほど俺に見られるよ」
「まだ住んでいいって言 っとらん!」
裕二は、床に置きっぱなしになっていた道具類を上に上げながら、部屋を進んでいく。後ろからついてきていた将平が、裕二の腕を掴んでにやりと笑った。
「じゃあどうして俺をここに連れてきてくれたの?」
裕二は将平の手を払うと、机の上のペットボトルをゴミ箱に放り投げながら言った。
「あんまい可哀想やけん、家が見つかるまでおらせてやろうと思っただけくさ」
「……ふ、裕二さんって……」
将平は少し困惑したような声で言った。言葉の続きは分からなかったが、何か馬鹿にされていることだけは分かった。将平は、裕二の腰に手を触れて、くすくす笑った。
「……いいの? そんなこと言って。裕二さん、きっと俺が出てくの嫌になっちゃうよ?」
裕二は再び将平の手を振り払うと、ため息をついてゴミ袋を広げた。
「ならんけん大丈夫」
「それはどうだろうね」
将平が、薄気味悪くにやりと笑った。
「寝ると、布団でよか? まあ、そもそもうちにベッドなかばってんさ」
「大丈夫。ありがとう」
布団を敷き終えた裕二は、自分の布団の上に座った。将平が、不満げにズルズルと布団を引き摺ってくる。
「どやんした?」
「離れてたから」
「離しとるとばってん」
ぴったり横に布団をくっつけて、将平は満足そうにした。なんだか子猫を見ているようだと、裕二はぼんやり思った。
「俺朝早いけん、もうすぐ寝るけんが、寝るとき電気消してね」
「大丈夫。裕二さんが寝るときに電気消していいよ。俺も一緒に寝るし」
裕二が手帳で明日の予定を確認していたら、将平が裕二の布団に乗ってきた。将平は当たり前のように、裕二の横に並んで座った。
「将平?」
たまらず声をかけると、彼はゆったり目を動かして裕二を見た。見たことのない色を浮かべて、彼の瞳が小さく揺れる。そしてあろうことか、将平は、裕二の唇にキスをした。
「…………将、平?」
驚いた裕二は、唇が離されてしばらく経ってから、やっとのことで彼の名を呼んだ。
「……ん? ああ、大丈夫だよ、酷くしないから」
「……しょう、……ん」
裕二は頭が混乱した。ぽかんとしている間に、彼の唇は何度も自分の唇を食む。彼の舌が、下唇をなぞった。
「……は、………ん、ん……」
「口開けて」
「な、ん……ッ、は、……は……」
半ば強引に舌をねじ込まれる。彼は今何をしている? 自分は何をされている? どうして彼の顔が、こんなに近くにあるのだろう。
「……ン、っ、ん、………ん、ンン……」
「裕二さん、ちゃんと呼吸して」
「しょうへ……っ」
文句を言いつけようにも、口が塞がれている。だんだん息が苦しくなってきた。将平の舌が、自分の奥深くを嬲るように動く。
「……は、……ん……んん……ン……」
「………裕二さん、大丈夫? 鼻で呼吸するんだよ?」
「……は、わ……分からん……ッ」
何も分からない。気分がやけに高揚し、身体が火照った。将平の熱っぽい瞳を見ていたら、なぜこんなことをときくのは野暮な気がした。文句も言わず、理由も問えず、裕二はただ将平の目をぼんやりと見つめていた。
将平は裕二をゆっくり布団に押し倒した。その時、裕二は突然はっとして、将平の胸を弱く押し返した。
「裕二さん?」
「や、やめてさ……しょうちゃん……」
しょうちゃん。思わず将平は心の中でその言葉を復唱した。
「…………」
「……将平?」
将平が、ピタリと動かなくなる。裕二は心配になって将平の肩に手を触れた。その手を、将平が掴んで、顔を上げた。
頬を赤く染めて真剣な顔をした将平は、なんだか不服そうにも見えた。
「…………あ、あんさ、将平はさ……その……、本気で俺 と……」
「本気で、裕二さんをお嫁さんにしに来た」
将平は、不満げな、しかし真剣な顔でこちらを見下ろしていた。
「……ちゃんと覚悟して」
子どもっぽい顔。なぜだかこの時、この男は、間違いなく“しょうちゃん”なのだと実感した。わがままで、傍若無人だった、子猫のような“しょうちゃん”。
「……お、お嫁さん、に、しに……?」
「そう」
将平は、裕二の両手を片手で布団に縫い付けて、もう片方の手をするりと腹に滑らせた。
「ま、待って将平! いかん、ちょっと……! 待てさ、将平!」
待てと言われ、将平が、こちらを睨むように見た。裕二はたじろぐ。
何か言わねば、何か言わないと、彼は、このまま……、このまま自分を――。
「…………あ、明日も早いけんが…………」
自分の声が震えていたのが、酷く恥ずかしかった。将平は、少しだけ迷っていたが、裕二と時計を見比べて、おとなしく手を離した。
「……分かった。おやすみ裕二さん」
将平は、おとなしく隣に並べた自分の布団に帰っていった。
バクバクと、裕二の心臓が音を立てている。混乱していて分からなかった今までの羞恥心が、一気に押し寄せてきたような感覚がした。
裕二は、将平に背を向けて布団を深くかぶった。心臓の音は、なかなか鳴り止まなかった。
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