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夏につながれて

 忘れじの夏。父のアトリエにはテレビン油の匂いの底に、秘密の香りがひそんでいた。  の存在が秘密の中心にあった。  たいがいの画家がそうであるように、父もまた筆が乗ってくると寝食を忘れて制作に没頭する性質(たち)だった。こもる、と言い置いて庭の奥へと向かえば、それはアトリエに(みだ)りに近づくな、ということを意味した。  だが父に宛てて急ぎの届け物があり、逆鱗に触れるのを恐れた母は、僕に持って行かせたのだ。  日盛りで足下に伸びる影が濃い。樹齢を重ねたブナの木蔭に建つアトリエは、ハレーションを起こしたように六角柱の輪郭がぼやけて見えた。  扉の前に立ち、深呼吸してからノックした。てっきり父が仏頂面で出てくるものと思って身構え、ところがドア口に姿を現したのは見ず知らずの青年だ。  ぞろりと襦袢(じゅばん)をまとい、はだけた胸一面に紅薔薇が咲き誇っていた。へどもどして、そのくせ磁力が働いているように視線を吸い寄せられて仕方なかった。  スラヴ系の血が混じっているらしい麗しい顔立ちで、新しく頼んだモデルとおぼしいが、砂糖壷に砂利がまぎれ込んだような違和感を受けた。なぜなら植物的な雰囲気を漂わせる青年あるいは女性をモデルに、透明感にあふれた世界を描きだすのが父の画風だった。  ひるがえって彼には、その禍々しさゆえ人を惹きつける毒蛇の妖しさが(そな)わっていた。  父は、といえば根を詰めて絵筆をふるったあととみえて、寝椅子で眠りこけていた。彼は人差し指を口の前に立てると、その指を庭に向けてひと振りした。  ハーメルンの笛吹き男におびき寄せられる子どもよろしく、ふらふらとついていった。陽炎が燃え、草いきれがして、ブナの幹でも母屋の軒先でも蝉が鳴きしきる。  Tシャツはたちまち背中に張りつき、ビーチサンダルがべたついた。対する彼は汗ばむ様子もなく、襦袢の(たもと)がひらりと舞った。  紫陽花の大株の陰に、やや離れてしゃがむと、彼は儀礼的に問いかけてきた。 「何歳(いくつ)」 「十、よん……中三」  気のない相槌で受け流されてしまうと、話の接ぎ穂を失う。いきおい穿鑿(せんさく)するのはためらわれて、名前を聞きそびれた。  気づまりで、なのに立ち去りがたい。ぐずぐずとビーチサンダルにこびりついた土をこそげ、蝉の抜け殻をちぎった。  恐らく鳥が運んできた種が芽吹いて育ったものが蔓を巻きつけ、捕虫(のう)を持つに至った。  彼はしなびるに任せた、いわば紫陽花のミイラから垂れ下がるウツボカズラを揺らした。 「罠を仕かけて、あとは獲物がかかるのを待つだけ。凄腕の狩人だ」  捕虫嚢を覗いてみるよう促され、そうすると、どろりとした液体になかば溶けた(はえ)が浮かんでいた。弱肉強食の掟の縮図といった眺めに背筋がぞわぞわして、それでいて甘やかな吐息がこぼれた。  消化するのを手伝うふうだ。彼は紫陽花をひと枝手折ると、それで嚢をかき混ぜた。  袖がめくれるたび(ろう)さながら真っ白い肌がちらついて、(なま)めかしい、という言葉の意味を体感として初めて知ったように思う。  沈黙が垂れ込め、痺れた足を伸ばすのもはばかられるうちに、たとえば雪原にしたたり落ちた血の痕のように、鮮やかに胸を彩っていた紅薔薇が薄れていくのが不思議だった。  ついつい凝視していたに違いない。彼は衿をかき合わせると、やわらかいものを小刻みにつつく真似をした。 「特殊な技法によって彫られた刺青(いれずみ)。飢えのおさまり具合に応じて華やぐ工夫がほどこされている、一族の証しだ」  一族、と鸚鵡返(おうむがえ)しに呟くにつれて汗の珠が頬を伝い落ちた。拳でぬぐうのを制して、しなやかな指が雫を掬い取っていく。  そして、きょとんとするのを尻目に指が朱唇に含まれた。

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