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第2話

  「新鮮で滋味に富んだエキスだけど、最低でも二十年ほど熟成を重ねたほうが好ましい」  そう評して莞爾(かんじ)微笑(わら)うさまは、売約ずみという札を貼るところを思わせた。背丈だけがひょろひょろ伸びた中学生男子は、大人の世界を垣間見る種類のからかい方に免疫がなかった。 「宿題……宿題やらないと」  もごもごと言って駆けだした。Tシャツが波打つほど心臓が踊り狂い、暑熱のせいばかりでなく全身が火照った。  宿題云々は口実にしても、受験勉強はしなければ。とはいえ数学の問題集を開けば、双曲線の図が汗をさらい取っていったさいの指の軌跡を表しているように感じられてノートは落書きで埋め尽くされた。  先ほどのやり取りを反芻すると、戸惑いと背徳感をない交ぜに赤らんだ顔が鏡に映る。また、話す機会に恵まれるだろうか。そう思うと無性にドギマギして、シャープペンシルの芯を押し出すそばから折れるありさまだった。  父は素描の段階でモデルに幾通りものポーズをとらせる。彼は骨が軋むような要求にもこたえてみせるのだろうか。しどけなく襦袢をさばいて、寝椅子に横たわる。それとも羽ばたくように両腕を広げたまま、微動だにしないのか。  母屋の自室から、ブナの葉叢(はむら)を透かしてアトリエを見下ろす。あたりが闇に包まれると、ランプの(あか)りが窓辺でちらちらと揺らめくにしたがって、ガラスがぼんやりと明るむ。  時折、明度の異なる白いものがふたつ、窓ガラスというキャンバスの上におぼろに浮かびあがって蠢く。あれも、描く工程の一環……? もつれ合い、離れて、再び絡み合う。  奇妙なダンスを踊っているような光景に魅せられて、瞳を凝らしつづけたものの、はっきりとした像は結ばずじまいに終わった。  あくる日のこと。季節柄、さすがに堪りかねたのだろう、父が母屋にシャワーを浴びにきた。彼も浴室に案内しては、と出来るだけさりげなく切り出したとたん一喝された。 「よけいな口出しするな!」  父は芸術家らしく気難しい面はあったが、粗暴な言動一切を嫌っていた。すさまじい形相に驚いたあまり涙ぐんでしまったのかもしれない。  父は、うろたえたふうに弁解しはじめた。といっても、彼は入浴や飲食等々の世俗的なものを超越した存在との一点張りで、そう、まくしたてる間じゅう、げっそりとやつれた顔の中で目だけがぎらぎらと輝くのが異様だった。  もののけの類いが〝父〟になり澄ましているのでは。怖気をふるう一方で、彼を独り占めにしたいのだ、と邪推した。息子に敵愾心(てきがいしん)を燃やす狭量さゆえに、なおさら父を妬んだ。  彼とばったり会うのを期待して、やぶ蚊がたかっても構わず庭を行ったり来たりしたあげく、自制心を失った。  夜陰に乗じてアトリエに忍び寄ると、珍しく鎧戸が閉め切られていた。蝶番が一箇所ぶら下がっていて、隙間から内部(なか)を覗く。イーゼルの傍らに画材がそろっているが、父の姿は見当たらない。視線をずらしていくと、床の上に()った。  それより、彼は……?  押し殺した笑い声が、おぞましく響いた。父に覆いかぶさったものが前後に、はたまた上下に動くのにともなって紅絹(もみ)がはためく。  あたかも交尾を終えたカマキリの雌が、ばりばりと雄を貪り食らう場面が繰り広げられているのにも似て。  鋭い何かが朱唇のあわいで光ったせつな、しゅうしゅうと等身大の風船人形から空気が抜けていくように見えたが、それはどういう現象なのか理解するのを拒む。ただ原始的な恐怖に駆られて後ずさった。

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