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第3話

 古い植木鉢が窓の下にいくつか積み重ねてあった。うっかり蹴飛ばし、散乱する音が静寂(しじま)を破った。  野良猫の仕業ですませてもらえるだろうか。駄目だ、表の様子を窺う気配が感じられる。  今にも鎧戸が開いて怒鳴り飛ばされるどころか、濃密かつ秘めやかな愉しみに耽っていたのをぶち壊した(かど)で折檻を加えられかねない予感がした。母屋に逃げ帰ると、今さらめいて嫉妬の(ほむら)が燃え盛って全身の血が沸騰する思いを味わった。  悶々と()を明かし、そのころアトリエでは死神の大鎌が一閃していた。  もっとも死神が(おとな)うた、と簡単には言い切れない。何しろ父の遺体は干からび、皺くちゃに縮かんで、床にへばりついていたのだ。  まるで体液を吸い取られてしまったように。  死因は特定されなかった。いや、最新の科学捜査をもってしても解明できなかったのだ。結局、病死ということで落ち着いた。  彼を描いている最中だったはず。ところがイーゼルに立てかけられていたキャンバスには、ただ絵の具が分厚く塗られているのみだった。  不可解な状況の、事の真相を知る生き証人の彼は、忽然と消え失せていた。僕の記憶に面影を留めている以外、彼が確かに存在していたことを物語る痕跡は何ひとつ残っていなかった。    胸にぽっかりと穴が開いたような、という使い古された言い回しがあるが、あれは真理だ。喪失感と折り合いをつけるコツを曲がりなりにも摑んだのは、季節がひと巡りしたあとだった。  彼とふたりきりでいたのは正味三十分足らず。だが短くとも凝縮されたひとときであり、魂の一部をもぎ取られて、初恋に搦め取られたのだ。  彼は、いったい何者だったのか、父は果たして何を招き入れてしまったのか。  (まぼろし)に等しい相手を恋うるのは愚かしい、と自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、かえって想いはつのる。あの夏から四半世紀もの歳月が流れても、行く先々で彼の姿を追い求める。  初恋に呪縛されて流浪しつづけた。  霧が立ち込めて乳白色に染め変えられた港町を歩いていた日のことだ。ついに邂逅(かいこう)を果たした。霧が人形(ひとがた)に裂けた瞬間、歓びと驚きがせめぎ合って(くずお)れた。  なぜなら白いものが髪にちらほらと混じるこちらに引きかえ、彼は二十代の若さを保ったまま現れたのだ。他人の空似と考え、だが間違いなく彼だと第六感が告げる。  折りしも逢魔が時。 「やあ、久しぶりだね画家の息子。あの節は父君をごちそうさま。放牧した甲斐あって栄養を蓄えてコクを増したようだし、四半世紀越しの収穫祭をはじめようか」    朱唇が、にたあと弧を描いた。舌なめずりするさまは、獲物を(あぎと)に捕らえた肉食獣そのものだ。  魅入られ、そして凍りついている間に、首筋に牙があてがわれた。奇しくも父と同様の(むくろ)をさらす運命の皮肉さに微苦笑を誘われながら、生存本能に従って抵抗するどころか、むしろ嬉々として身をゆだねる。だんだん意識が遠のいていくなかで、うっとりと訊いた。 「正体が知りたい、教えてくれないか」 「ルーツは現在の東欧。ヒトの精気を分けてもらって永らえる種族といえば察しがつくね」  つまり、どの程度精気を補給したかを示す目盛りだ。特殊な条件下──(かつ)えが満たされたぶん華やかさを増す仕組みの刺青が、(かんばせ)まで紅薔薇の文様で彩っていく。  捕虫嚢に誘い込まれてウツボカズラの養分となった蠅は自分自身の未来図だったのだ、と悟った。想い人の血肉と化して、彼ともども永遠に時をさまよう。  至福のと、うそぶいて悔いのない初恋の実り方だ。     ──了──

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