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雨に打たれる花の皇子
雨が降っている。
雨は嫌いだった。自分の名前も、嫌いだった。
「――阿霖 、そんなところに居ては、雨に濡れてしまうわ」
歳を重ねるごとに、母はその美しさは増していく。一人息子を溺愛する月花の美人が手招いた。
腰まで覆う夜の帳を想わせる射干玉の黒髪。白雪の肌に、しっとりと濡れた紅要らずの唇。母の美貌をしっかりと受け継いだ麗しい青年。
美しさを好む美神仙や花神仙が賛美を贈るだろう美貌は性差を感じさせず、流麗な青年にも、憂いた乙女にも見えた。
皇帝の第二側妃・蒼 薔香 とその息子・第三皇子の蒼 霖 、字 を蓮雨 と言う。薔香 が住まい暮らしているのは後宮の東区画にある薔薇宮 。妃たちが住まう宮の中で、一番小さな建物だった。
薔薇宮の庭園には一望できる薔薇園がある。強い香りを放ち、雨の降る季節にだけ花を咲かせる赤い薔薇だ。まるで薔香 のようだと、皇帝は零したことがある。それから、この宮は薔薇宮と呼ばれるようになった。
「……薔薇を、見ていたんです。今の時期にしか咲かないでしょう」
「あぁ、そうなのね。でも、母に一言かけてからにしてちょうだいね。心配してしまうでしょう?」
「はい。申し訳ありません」
「いいのよ。それより、猫鈴 が蒸し菓子を作ってくれたわ。お茶にしましょう」
艶やかに笑む母の手に連れられて、室内へと足を踏み入れようとした。その時、招かれざる客の足音に振り返る。
冷遇されている第二側妃と第三皇子の過ごす宮に来客が訪れることは滅多にない。複数の荒々しい足音が、雨音を乱しながら近づいてくる。
「第二側妃様! 第三皇子様! 御前を失礼いたします!」
「……何事? 先触れは聞いていないわよ」
愛息子に向けていたとろりと甘い熱を冷ややかに凍えさせて、無粋な男たちを見遣る。
かつて、花街一と謳われた遊女だった薔香 の美貌は、他の妃たちの追従を許さない。それがまた、やっかみを買う要因でもあったのだが、薔香 は蓮雨 さえいればそれで良かった。自分によく似た、美しい愛息子が何よりも大切で宝物だった。
冴え渡る美貌に頬を染める者もいれば、冷ややかな眼差しに顔を青褪めさせる者もいた。
「皇帝陛下より、蒼 蓮雨 第三皇子へ勅命でございます」
「……陛下から?」
訝し気に鼻の頭に皺を寄せた薔香ショウシャンは無言で男を促す。
「蒼 蓮雨 第三皇子にはこれより、花神仙が住まいまする梦見 楼閣へ赴き、華結びの儀式を行っていただきます」
全ての音が消え、時が止まった。
蒼い瞳を見開いて、はくり、と声にならない吐息を零す。
華結びの儀式とは、この国では結婚を意味する。通常の華結びの儀式ならばとても喜ばしいことだ。けれども、蓮雨 に突き付けられたのは姿かたちも存在しない神仙との結納だった。
「なん、ですって……? わたくしの阿霖 を、――影も形も、姿もない神仙に、捧げると言うの!?」
パキリ、と母が手に握っていた気に入りの扇子がひび割れる。留め具が外れ、バラバラと竹が落ちていく。
華蝶国を創った五人の神仙。
国のために剣を持ち、人々を護る武神仙。
すべての傷を癒し、人々を愛する癒神仙。
学問を授け、人々を慈しむ秀神仙。
芸事を授け、活気溢れる国を楽しむ美神仙。
花々を咲かせ、美しく緑豊かな国を愛する花神仙。
国の五州には尊い神仙を祀る楼閣が建てられている。影も形もない、神仙のために建てられた、主人も使用人もいないのに不思議と塵一つない無人の楼閣だ。
北に花神仙、東に武神仙、西に癒神仙、南東に秀神仙、南西に美神仙が位置しており、五つの楼閣を結ぶと五芒星となって国を護る結界陣のひとつになる。
「――……はッ、つまり、皇帝陛下は、私に、国を護るための礎となれと、そう仰ったのですね」
口を開くと、抑え込んだ激情が溢れ出そうだった。
民に慕われる心優しき皇帝陛下。本当に優しいのなら、どうして母を、無理やり後宮などという毒の園へ連れてきたんだ。
「そ、そういうわけでは……!」
「いくら第三皇子と言えど、口が過ぎますぞ!」
「痴れ者はお前たちよ!! わ、わたくしのッ、わたくしから阿霖 を奪おうと言うのね!? そんなの、許さないわ!! 阿霖 はわたくしの子よ! わたくしだけの、愛しい息子なのよ!? それを、神仙に捧げろですって……!? あの男、頭が可笑しいんじゃないのッ!?」
「第二側妃様!? 今のお言葉は陛下への、」
「五月蠅いッ!! わたくしから阿霖 を奪おうだなんて、」
「――母上」
酷く、穏やかな声音だった。
「母上、私は大丈夫でございますよ」
「あぁ、あぁ……! 阿霖 ……!」
涙を溢し、泣き崩れる母の体を支える。私は大丈夫、だが、きっと母は大丈夫じゃない。
「えぇ、いいですよ。かまいませんよ。花神仙? えぇ、どこにでも連れていけばよいじゃぁありませんか」
「猫鈴 、母上を」と騒ぎを聞いて駆け付けてきた侍女に母を任せて、雨の降る庭へ足を踏み出す。沓の裏で、濡れた土を踏む感触がした。
目前へ降り立った第三皇子に、形だけの拝をした兵士たちはすぐに立ち上がると蓮雨 の両脇を固める。逃げ出さないように、だ。随分と、信用されていないらしい。
雨の中、傘を差す者もいない。水に打たれ、頬を流れていく。
「阿霖 ……!! 行かないで……!」
細く華奢な、指先が雨の中をもがいた。
足を止め、振り返る。両脇の兵士が不満げに眉根を寄せたが、そんなの関係なかった。
「――母上、そんなところにいては、風邪を引いてしまいます」
「あ、あぁ……! りぃ、え……!!」
「行ってまいりますね、母上」
別れを告げて、今度こそ、振り返ることなく前を向いた。
薔薇宮は、強い花の香りに包まれている。雨に濡れた、赤い薔薇。雨季にしか咲けない、可哀想な花。――雨も、花も、大嫌いだった。
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