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花咲かずの呪符④

 口元にゆったりと笑みを携えたまま、右手で恋雨(リェンユー)を胸元に構え、左手で呪符を放り投げる。  はらり、と宙を飛んだ呪符から、突如黒い風が溢れ、花仙へと襲いかかった! 「花宴招来(かえんしょうらい)」  ぶわり、と。花仙の仙気があたり一面に広がって、黒い風を押し返す。  高い木々によって光の遮られた森の中に、眩い炎の光が広がった。頬を撫でていく炎は暖かく、柔らかい。衣の裾や袖がはためきき、風と炎に巻かれて流れていく。不思議と熱くなかった。白炎は呪符を焼き尽くし、天へと昇っていく。  森に火が燃え移ってしまう!  ハッとして慌てたが、周囲は白炎によって照らされているだけで、火が燃え広がる様子はない。チリヂリ、ジリジリと白い火の粉が散っては空を舞い、飛んでいく。――美しい、花の宴を見ているようだった。風が吹くたび白い花びらが散って、儚く溶けて消えていく。炎の熱さなんて感じない。ただ柔らかく、優しい、そして清らかな香り。  桁違いだった。城に仕えていた道士たちとも、自分とも。洗練された仙気に、美しい術。神業といっても過言ではない。見て覚えろ、と花仙は言った。無理だ、こんなの。できるわけがない。大規模なこの美しい術を展開するには霊力も経験もなにも足りていない。何十年修練を積んだら、彼の人の境地に達することができるだろう。  花宴招来。まさに花の宴だった。白炎の花は全てを浄化し、瘴気に侵された大樹を、大地を清めていく。 「師は、花のようでありなさい、と俺に言った。桃花流水(とうかりゅうすい)杳然(ようぜん)として去り、別に天地の人閒(じんかん)(あら)ざる有り」 「李白の山中問答ですか」 「その通り。師は、俺に桃の花のようでありなさい、といつも仰っていた。俗世と離れ、人里離れた遥か遠いところで過ごし修練をしていれば、自ずと自身の世界が拓き見えてくる、と。――どうだ、俺の術は、美しいだろう?」  白い炎を背に、悠然と微笑む男が美しかった。  瑕一つない珠の白い肌。粗雑な口調だが、親しみやすさを感じさせる声と、柔らかな花の笑みを湛える薄い唇。良家の公子や、腹違いの兄皇子と言われても信じてしまうかもしれない端麗な容姿は、人里に住んでいれば美男子として子女たちから熱い視線を送られていただろう。 「私にも、そのようになれ、と?」 「なれるかどうかはお前しだいさ。知識を学び、技術を身に着ける。お前の母も、道士ではなかったのだろう」 「……私に、できるとは思えません」 「いいや、できるさ。この俺ができたのだから。お前は俺よりもずっと真面目で誠実だから、基礎さえ学べばすぐに上達する。過信しないのは良いことだが、極度の謙遜は嫌味になるぞ」  それ以上何か言えることもなく、口を噤んだ蓮雨(リェンユー)は流れていく白炎の花をぼぅっと見つめた。  白色は嫌いだ。  無理やり、純白の婚礼衣装を着せられたのもあるが、――この世の何よりも、誰よりも嫌いな男を思い出させる。とても優秀で、見目も華やかであり、口ではなんとでも言える。心の中では人々を見下していた、あの第一皇子(おとこ)。顔も、声も、全て忘れてしまいたいのに、蓮雨(リェンユー)の心に深く傷をつけて、決して忘れることを許さない、と呪詛を吐き続けている。 「さぁ、手を出して」  思い出したくもない記憶に頭を振って、サッと左手を出した。いつの間にか白炎は消えており、来た時とは比べ物にならない清涼な空気が漂っていた。 「そっちじゃなくて、反対の手だ」  差し出した左手が不意に揺れる。バツが悪いのを隠さずに、ギュッと眉頭に皺を寄せた。  あくまでも無理強いをするつもりはない、と言った態度だが、緩やかな表情をしているのに花仙は有無を言わせない雰囲気をしているのだ。兄のように慕っていた侍従の青年に、悪戯がバレてしまった時のような気まずさに下唇を噛んでしまう。 「こら、噛んだら傷ができるだろう」 「……私に傷ができても、花仙には関係ないじゃあないですか」 「そうだね。関係ないさ。でも、傷から瘴気や邪気が入り込んだらどうするの。大変だろう。いい子だから、手を見せて」  幼い子を嗜める、まるで母のような優しい声。そっと伏し目がちに花仙を伺うと、いつもの花の笑みを浮かべて首を傾げていた。  花仙はとっくに、穴の中に手を入れた時にできた怪我に気づいていた。  そっと、袖をめくり上げると、だらり、と力なく地面に向かって垂れる右手は、手のひらから手首を辿り、肘の手前あたりまで真っ黒い痣に侵されていた。痺れる痛みが治まることなく続いた右手は、ぴくぴくと小さく痙攣を繰り返している。  呪の根源であった呪符が消滅しても、呪符から人の体に移ってしまった邪痕は別だ。手のひらから伸びる邪痕は、じりじりと白い肌を焼き、触手のように腕をゆっくりと登っている。これは、心臓を目指して動いているのだ。蚯蚓(みみず)や蛇を思わせる動きに、一瞬だけこめかみを引き攣らせた花仙は、躊躇わずに軽痙攣する手を取ると、いつぞやのように唇を寄せた。 「ヒッ……!」 「黙って。静かに動かないで」  すぐに手を引き抜こうとしたが、がっしりと掴まれてしまって無駄な抵抗に終わった。気まずさと羞恥に、手のひらに口付ける花仙を直視できずにいた蓮雨(リェンユー)だったが、花仙が触れるそこから、爽やかで清涼、けれどどこか甘い気が体の中に入り込んでくるのを感じた。  蒼い瞳を白黒とさせて、訝しげに男を見る。ただの神仙と、一国の皇子であればもちろん皇子のほうが立場は偉いが、花神仙は国お輿の神仙で、蓮雨(リェンユー)は厄介者の第三皇子。こうして他人の誰かに心配されて、傅かれるなんてされたことがなかった。それ以前に、花神仙のような誰からも敬われ、崇められる男にこんな浅ましいことをさせている事実にドクドクと心臓が早鐘を打つ。  感じたことのない胸の高まりだった。  邪まを祓うには、それを上回る清浄な気で祓ってしまえばいい。花神仙ともなれば、祓えない邪気などないに等しい。それこそ神代の仙人や神で無い限り、彼に祓えないものなどないだろう。触れた手のひらから流れ込んでくるのは、花仙の仙気で、心臓に向かってくる邪痕は徐々に動きを鈍くしていった。そうして、どれほどの時間が過ぎただろう。  花炎の舞う風で乱れた髪が一房、花仙の白い頬に落ちてくる。なんとなく、それを耳にかけてやった。 「ふふ、小花(シャオファ)の手は、剣よりも扇子の方が似合いそうだ」  ス――と水面に墨が溶けていくように、邪痕は跡形もなく消えて行った。  ぼんやりとそれを眺めて、ハッとして肘上までまくり上げていた袖を治そうと手を伸ばす。 「他に、怪我は?」 「し、してないです」  なぜか、その手を掴まれてグッと花仙が距離を詰めてきた。鼻先が触れ合うほど近く、狼狽する蒼い瞳を見つめられる。  手のひらを握っていた手が、跡形もない邪痕の影を追うように手首から腕を辿り、肘の裏が掠めて行った。ぞわぞわと背筋に鳥肌が立って、もしかしてを抱いていたことに気づかれたのだろうか。  繊細な硝子の(かんばせ)を赤、青、白と変え、花仙からどうにかして距離を取ろうと四苦八苦した。  純粋な心配で、大きな手のひらが肌の上を滑り、他に怪我がないかを確認しているが、蓮雨(リェンユー)は心臓の高鳴りが聞こえてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。 「本当に?」 「――もう! してないって言ってるだろう!!」  真っ赤な顔で、涼やかさとはかけ離れた大声を出す。  森のざわめきが風に流れ、シン、と静まり返った。  ハッとして、咳払いをして誤魔化そうとするが目の前の男はにやりと口角を上げて嗤った。 「それだけ大きな声が出せるなら大丈夫そうだな。梦見楼閣へ帰ろうか」  羞恥で口を開いたら語彙力のない罵倒が飛び出しそうだったので、ギュッと唇を引き締めて小さく頷いた。

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