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第1話

「な……んや、これ……」  狭いシングルベッドからうつ伏せた上半身を起き上がらせて、石田(いしだ)(あつし)は呆然と呟いた。  息も口の中も酒臭い。あまりに勢いよく飛び起きたためにくらくらしている頭も、ズキズキと二日酔いを主張している。  が、それどころではなかった。  石田は自分自身に冷静になれ、と言い聞かせた。その時点で既に冷静ではないのだが、何とか事態を把握しようと痛む頭で思考する。  まずここはどこなのか。自分のマンションではない。大学を卒業してから引っ越した築六年のマンションの一室は、ごく淡いクリーム色の壁紙で統一されていたはずである。こんなコンクリート打ちっぱなしの薄汚れた白壁ではない。少なくともヒビなどは入っていなかった。だいたい広さが違う。1LDKが一夜にしてこんな安普請を豪語するような六畳一間に豹変するというなら、石田は不動産屋を訴えるところである。  そして。それ以上に石田は惑った。  ――この、隣の体温をどう説明すべきなのだろうか。  更に、その理由を考えることすら恐ろしいことに、隣で静かに寝息を立てている男も自分も、全裸なのである。その全身の倦怠感と痛みを引き起こすに至った経緯を考えるのはとりあえず避けたくて、石田は昨夜のことを思い出そうと冷たく汗ばんだ両手を握り合わせた。  再び、落ち着けと自分を諭して息をつく。  昨夜、石田は柴崎(しばさき)亜弓(あゆみ)の部屋に呼ばれていた。中村総合病院の薬局で薬剤師として働く石田の同僚である。  石田より今は五つ年上の三十一歳の男、という響きは『亜弓』という名前の響きにひどくそぐわないような気がするが、実物の亜弓はほとんど、というか全く男臭さを感じさせない、線の細い、綺麗という形容が最も適切な、不思議といえば不思議な青年なのだ。  その亜弓に、石田は恋をしていた。  その場には、石田の他にあと二人の男性がいた。一人は中村(なかむら)一臣(かずおみ)。亜弓より一つ年下で、中村総合病院の跡取息子で、一昔前の石田の恋人で、現在の亜弓の恋人である。  実は昨日亜弓が石田たちを自室に招いたのは、先日生じた中村との破局の危機の際に迷惑をかけた人々への感謝と謝罪の意を込めた、ちょっとしたパーティー、というほどでもない飲み会だったのだ。  なにしろ亜弓は中村との仲を思いつめるあまりに自殺企図騒ぎまで起こし、それにハラハラさせられたもう一人の招待客が、『あんたらのおごりで酒でも飲ませてくれなきゃ納得できない』といってその飲み会を提案したのだそうだ。  それが佐野(さの)秀明(ひであき)。少し前から亜弓と中村の共通の友人だったらしいのだが、詳しいいきさつは石田は聞いていない。栄養失調寸前で行き倒れていたところを亜弓に拾われたのだということだったが、このご時世にそんなことがあるものかと思うと少々疑わしい。  まあそのあたりに深く触れるつもりもなかった石田は、その場で初めて会った秀明と妙に意気投合してしまった。というのも、石田と秀明だけが四人の中で同い年のペアで、しかも二人とも亜弓に失恋していたのである。 「まぁでも、仕方ないよねぇ」  そう言って秀明は、隣り合って座っている亜弓と中村を親指で指し示した。  そこには、もう誰も入り込む余地などないほどに雰囲気を寄り添わせ、適度な酔いに目元を綻ばせて、どこかピントのずれた会話を交わす二人の姿があった。 「せやな」  仕方ないと言って笑った秀明に、石田も同調した。  二人とも、亜弓には自分ではダメなのだということを自主的に悟って自ら失恋の道を選んでいた。どこを取っても、石田と秀明の間にあるのは共感だった。  やがて、恋人たちに気を利かせた秀明が石田を連れて席を立った。 「じゃ、若者はお二人のラブラブっぷりに当てられちゃったんで、河岸を変えて飲むことにしますねー」  秀明は石田を自分の部屋に誘い、亜弓の部屋を出る際にくすねてきた中村持参の高級ウィスキーのボトルをしっかりと抱えていた。外は雨が降っていて、二人で一本の傘に入って、タクシーで移動した。  ベッドの上から視線を巡らせ、石田は床に転がっているそのボトルを見つける。空である。あれの大半を自分が飲んだことを、石田は思い出した。そしてここが、秀明の部屋であることも。  石田は酒に強くない。というか弱い。秀明と中村はそこそこには飲む。一番強いのが意外なことに亜弓である。ザルと評して問題ないほどだ。  とにかく石田はアルコールにはめっぽう弱い。酒が入るとテンションが急上昇し、関西弁で機関銃の如くまくし立て、度を越すとスパッと記憶をなくす。  だが、そうした羽目外しは学生時代で卒業した。はずだった。  ――意気投合したんがあかんかったんや。  後悔と反省ならできるのだが、その当時に自重できなかったところでアウトなのだろう。どこで箍が外れてしまったのか、今なら正確に思い出すことができる。  普段石田は、自分の恋愛話を持ち出せるような場所を持っていない。堅気の社会生活を送っている人間は迂闊にカミングアウトなどできないのだ。それゆえ、悩みも相談事も誰にも打ち明けられず鬱々と内省に転じることが専らとなる。  そういう類の人間が一旦相談相手を持ってしまうと、それはもう大変なことになるものなのである。そうして案の定、石田は大変なことになってしまった。  同性愛嗜好者の部屋、そのベッドの上で、一糸纏わぬ姿で目を醒まし、よりによって記憶を飛ばしているという事態である。これが大変でなくて何が大変であろうか。  ――そこまで思い出してやっと、石田は貞操の無事有事の問題に行き着いて真っ青になった。痛い。体が痛い。  おそるおそる、本当にゆっくりと、石田は掛け具をめくって中を覗いてみた。  …一目で卒倒しそうになる。下半身付近のシーツが、紅い。  当然といえば当然といえる。石田は同性を好きになってしまう種の人間ではあるが、過去の乏しい男性とのつき合いは全てプラトニックな関係で完結していた。  互いに同意の上での無行為の場合もあれば、思いっきりその気だった相手がストイックな石田を見限って破局を迎えたというパターンもある。そのため、肉体関係で言えば、石田は女性経験の方がよっぽど豊富である。 「嘘や……」  この期に及んで、確定した事実を覆そうと無駄に足掻いてみる。だがそうしたところで、やはり無駄なものは無駄なのだった。  それがわかって、涙が滲んだ。

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