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第6話
石田の心配は的中していた。
部屋でぼんやりと煙草を吸いながら、秀明は物思いに沈んでいた。
今まで感じたことのなかった類の気持ちが、肺のあたりに質量をもっている。それは煙と一緒に出て行ってはくれないらしい。
なぜあの時…自分が売りをやっていたことを石田に告げようとしたとき、躊躇したのか。
こんなことは今までなかった。十年近くも男娼を続けていて、その間幾度も蔑まれながら、それでも自分がしていることを恥じたり気後れしたりすることはなかった。亜弓に拾われた時でさえ、人に飼われて暮らしていると、手もなく言ってのけた。亜弓を好きになってからも、過去の十年を後悔したりはしなかった。
それが、今更。
石田と話しているときに感じる眩しさを、秀明は思う。
彼は自分とは別人種だった。愛し合う者との性交渉さえ拒むほど、一片の穢れも持っていなかった。石田が白なら、秀明は黒。それほど対照的だともいえる。
けれど石田は、それを捨てたいと言った。泣きながら、秀明に、自分を汚してくれと懇願した。石田はそうやって自分を守ることに限界を感じていた。
きっかけは亜弓への失恋だった。綺麗な自分では亜弓を救えないのだと知って、直面した自分への失望。それは石田にとって、それまでの人生を否定することに等しかった。
そこで彼の望み通り抱いてやれば、彼の気持ちが少しでも救われるのならと思い、抱いた。
翌朝完膚なきまでに詰られた時は、別にそこで嫌われて、それまでの関係になってもかまわなかった。だがバイトから誰もいない部屋に帰ったとき、自分を詰った石田に適当な返答しかしなかったことがひどく悔やまれた。どうしてもあの夜のフォローをしておきたくなって、わざわざバイトを休んで病院の前で張った。
――優しく抱いた。涙はくちびるで拭った。
考えてみれば、そんな風にしたのは初めてだ。金で秀明を抱いた者も抱かれた者も、彼に優しさを求めたりはしなかった。
縋るように伸ばしてきた石田の指に指を絡めた。安心させるために何度も口づけた。そうしてやると石田は、涙で潤んだ瞳を向け、はっとするほど儚げな微笑を浮かべた。
自分の腕の中に収まった石田を抱いていられることに、確かに秀明は幸福感を覚えていたのだ。
それを手放したくないと、今は思う。
ならばもう一度あの幸福は秀明の腕の中に戻るのだろうか。
携帯を手にとり、メモリを呼び出す。あの夜番号を交換したことを、石田は覚えていないのだろう。切ないような気持ちが、心の表層をすべる。
声を聞きたい。そう思った。
「ねぇ中村さん。石田って可愛いですね」
そう言った亜弓に、中村はネクタイを外しながらギョッとして振り返った。いつもならネクタイなどせず、白衣の下はラフな格好なのだが、今日は院長と二人で大学病院に行っていたらしい。
「かわいいって。どういう意味?」
石田が亜弓を好きだったことを知っている中村は、冷静を装って訊く。
「わ、ネクタイどこへでも捨てないでくださいよ、皺になるから。え、だからそのままの意味で。素直っていうか、嘘がつけないっていうか」
「何か言ったの、あいつ」
「いやべつに。うふふふふ」
「何だよ、気持ち悪いな」
ワイシャツのボタンを外しながらベッドに横たわった中村を、追うように亜弓が傍らに腰掛ける。ほとんど反射的に中村がその腰を抱く。
「あのね、俺が思うにね」
「うん?」
「石田と秀明は、なんかあるですよ」
笑いを含んだ亜弓の言葉に、中村が一瞬動きを止めて眉を寄せる。
「亜弓、正しい日本語を話しなさい。淳と佐野くんが何だって?」
「だから、何かあるんですよ。あの二人の間にはおそらく」
「何かって」
「そこまで確信持ってないですけど」
亜弓は考え込むふりで拳を顎に当てた。
「なーんかおかしいんですよね。三週間ほど前から石田の様子が」
「三週間前? 亜弓の部屋で飲み会やった?」
「そうそう。あの翌日、石田無断欠勤したんですよ。で、話聞こうと思って秀明の名前出したら、なんか妙に過剰反応するわけですよ。その日のうちに秀明、病院まで石田に会いに来るし。それからもちょくちょく秀明の話して反応見てたんですけど、俺の前でそいつの名前出さんといてくれーって言われて、黙ってたわけですね、そしたら」
「そしたら?」
「今日、最近佐野と会ってますか、あいつ元気ですか、とか言い出してさ。顔赤くしてしどろもどろになりながら。俺もう、うきゃーとかって叫び出しそうになっちゃった」
「…なんで亜弓がテンション上げなきゃならないの、そこで」
「だってー。…ねねね、石田ってもしかして、秀明のことが好きなんじゃないですかね」
「うそぉ」
「なんで嘘ですか」
中村はもぞもぞとベッドの上を移動して、亜弓の膝に頭を乗せた。
「だって佐野くんは、淳の好きになるタイプじゃないよ」
「タイプ? 石田の好みは中村さんみたいな人ってこと? 色魔で横暴でわがままな?」
「…きみね」
「あ、冗談です。でもほんと、それってどういうことですか?」
「ん? う~ん。淳ってね、わりと半端じゃない感じで潔癖症なとこがあってね。ちょっとそりが合わないんじゃないかなぁ。それに出会って間もない人間とどうのっていうのは淳のポリシーに反するだろうし」
「出会ってからの時間なんて関係ないですよ。愛なんてのは後から深めればいいわけで」
「うんそうだね、そうだけど、亜弓」
言いながら中村は、膝枕したまま亜弓にしがみついた。
「僕は他人のことより亜弓と愛を深めたいんだけど」
「え」
いざ自分の話になると、亜弓はとたんに及び腰になる。腰に絡まった腕を引き剥がそうと苦闘するが、もちろんその腕は容易には亜弓を手放さない。
「中村さん、今日は疲れたでしょ!? 早く風呂入って寝ましょうよ!」
「そうか。亜弓が背中流してくれるのか。じゃあ早く行こう」
「え!? 待った、風呂はっ……」
「さ、行こ行こ。それで早く寝よう」
さっさとベッドから降りた中村は、亜弓を引き立たせようとする。
「いやだーっ、風呂はヤダーッ、あんな明るいとこ勘弁してくださいよーっ!」
「体の隅々まで洗ってあげようね」
「うきゃーッ!!」
鼻歌交じりの中村に力で勝てるはずもなく、抵抗の甲斐なく亜弓はバスルームへ連行されるのだった。
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