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2章 金を支払って呼ぶしかない

 翌日、月曜日。  最高潮に行きたくない体を引きずって、無理矢理会社の自動ドアに入る。  きのうはあのあと、完全に意識を飛ばしたらしい。  体を揺すられて目を覚ますと、篠山が神妙な顔をして、オレの目を覗き込んでいた。  外は日が暮れていて、とっくに時間オーバー。  それでも、オレが目を覚ますまで居てくれたらしい。  延長料金を支払おうとしたが、固辞して、何か会話をするわけでもなく、逃げるように去っていった。  その後、特に連絡もなし。  エレベーターで3階に上がり、重い足取りでデスクに向かう。 「あっ、安西さん。おはようございまーすっ」 「おはよー……」  付き合いたいオーラをガンガン出してくる女子社員をスルーして、どかっと鞄を床に置く。  ちらりと目の端で確認すると、陰気な奴が、端っこの席にいた。  いつもと変わらない、愛想のかけらもない、篠山歩夢。  始業時間になるまでは絶対に人としゃべらない主義のようで、PCの画面から一切目を離さず、作業に没頭している。 「あれー? 安西さん、なんか疲れてません?」 「いや? 別に」 「肩揉みましょうか!」 「いい、いい。そういうの、コンプラに引っかかるんだから」 「えー? イケメンならなんでもセーフですよぉ」  コンプラ、と口にした自分の言葉が、ブーメランのように胸に刺さる。  法令どころの話ではない。  願わくば、いまの会話が本人には聞こえていませんように。  9:00になり、皆が仕事を始めたところで、篠山のデスクの横に立った。 「おはよ」 「おはようございます……」  いつもどおりすぎるくらい、いつもどおりだった。  覇気のない声と、合わない視線。  これでは、動揺しているのかさえ分からない。 「きょうミーティング10:30からだけど、その前にちょっと打ち合わせしたい」 「あ、はい」 「共有フォルダに資料つっこんどくから、読み終わったら声かけて」 「はい」  会話終了。  何も得られないまま席へ戻る……と、15分ほどで、紙の束を手にした篠山がこちらにやってきた。 「あの……追加資料、読んで、コメント入れておきました。共有に安西さん宛で戻してあるので、あとでチェックお願いします」 「ほい。んで、その持ってんのは?」 「いえ、その……打ち合わせを、どこでやるのか分からなかったので、一応プリントアウトを……」  こいつ、仕事はできるし、察しはいいんだよな。  オレが打ち合わせを口実に呼び出したがっているのを、よく分かっていらっしゃるようで。 「部屋移動するか」 「はい」  黙ってエレベーターに乗り、7階会議室へ。  ドアパネルに社員証をかざし、『使用中』にする――社内システムに反映されて、リアルタイムの空室状況が分かるようになっているので、誰かが間違えて入ってくることはない。 「はー……心臓にわりぃ」  チラリと見ると、篠山は、机の上に紙の束を広げようとしている。  オレはそれを止め、長いため息をついた。  お互い無言。  先に口を開いたのは、篠山だった。 「……きのうは、すみません」 「いや、別に謝ることじゃねーっていうか、合意だし、店と客だろ?」 「あの、そうではなく。ひとつ、訂正したくて」  篠山はうつむき、いたたまれないような声で言った。 「きのう、『また呼んでください』と言いましたが、すみません、あれは無しで……」 「あー。なんかそんなこと言ってたな。全然、普通に忘れてたわ」 「そ、そうですか」  本当に同一人物か? と疑いたくなるような、挙動不審ぶり。  まれに、オンオフで別人格みたいな奴はいるが、ここまで弾け飛んでいるのは見たことがない。 「なー、篠山ぁ。お前、どっちがほんとなの」 「どっち……というと」 「ほんとは明るいのに、仕事中は隠してるとか?」 「そういうわけでは」 「じゃあ、職場が居心地悪い?」 「そんなこともないです。どちらでもないっていうか……、その」  もごもごと言い淀んだあと、篠山は、とんでもない爆弾発言を、ぽろりとこぼした。 「すごい、セックスが好きってだけです」 「はあ!?」  思わず大声を上げてしまった。  篠山はびくっと肩を揺らし、上げかけていた目線を、再び床に戻してしまった。 「わ、わりわり。いや、ちょっと……ってか、だいぶびっくりしたけど。別に、変に思ってるとかじゃないから。あと、誰にも言わねーし」  言えるか、と。 「まあ、お互い無かったことにすればいいじゃん。オレは支払った金がもったいなかっただけだし、お前は仕事を全うしただけ」 「でも……安西さんは、その、喪失したじゃないですか。初めて、を」 「はー? 生娘じゃねえんだから、誰が初めてとか気にしねえし、いつまでも覚えてないない」  多分、一生忘れられないだろうけどな。  地獄体験としては。  篠山は軽く息を吐き、いくぶんかは和らいだ表情で、小さくお辞儀をした。 「ありがとうございます。胸のつかえがとれました」 「お、その表情いいじゃん。きょうの発表、売り上げ予測のとこでお前に話振るから、そのときもその感じでよろしくな」 「はい」  終わりよければ全てよし。  悲劇的な大事故ではあったが、これにて終了だ。  印刷してくれた紙を机に並べ、ポケットからボールペンを取り出し、話を元に戻すことにする。 「じゃ、段取りなんだけど――」  ふと顔を上げると、思ったより近い距離に、子犬顔があった。 「うわっ!?」 「あ、すみませんっ。ちょっときょう、コンタクトをつけ忘れて仕事に来てしまいまして。よく見えてなくて……」 「へえ、裸眼だと思ってた」 「視力悪いです」 「あーじゃあこれ全然見えなかったりする?」 「近づければ大丈夫です。すみません……」  入社して9ヶ月で、一番話している気がする。  そして、コンタクトをつけ忘れるほどの慌てっぷりで出社してきた本人の気持ちを考えると、ちょっとおかしくなってきてしまった。 「……ぷ」 「え? な、なんですか?」 「いやー。よく会社来たな。えらいよ、オレならバックれてそのまま会社辞めるわ」 「まあ……朝起きた時点では、そのくらい絶望してました」  曰く、本当は逃げ出したかった。  でも、新規立ち上げ一発目のミーティングで、まとめ役であるオレの足を引っ張るわけにはいかないと、真面目に考えたのだそうだ。 「仕事はできるんだよなあ、篠山は。絶望的にコミュ力がないだけで」 「……すみません」  何を話したらいいか分からないらしい。  学生時代もずーっとなんとなく浮いて生きていて、自分はそんなものだという、軽い諦めもあるそうだ。 「まあ、きょう一発発表やってみたら、ちょっと自信つくかもよ。お前の資料、よくできてるし。オレもサポートするからさ」 「え……と、ありがとうございます」 「あはは。お前そんな、照れ臭そうな顔すんだな」 「……みたいです、ね」  篠山は、少し嬉しそうに、両手を軽く握ったり開いたりしていた。  何かの手応えを感じとれたのだろうか。  ……しかし、10:30から始まった発表では、やっぱり篠山は『ほとんど喋らない新卒の篠山』のままで、その後終業まで、誰とも話していなかった。

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