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再会

 所々に付いた雫でキラキラと輝く木に1羽の鳥が止まる。大きさと特徴的な鳴き声からすると鳩のようだ。 暫くの間その場で羽を休めていた鳩はこちらを一度見た後、再び青く広がる空へと飛んだ。鳩に習って大きく腕を広げてみたが当然人間の自分が飛べるわけもなく、溜め息をついて視線を地面へと戻す。昨日降った雨でできた水溜まりに眉間にしわのよった顔が見えた。そいつの橙色の瞳は不気味で気持ち悪く、鳥肌がたった。嫌いだ。 小さな子供のように水溜まりを蹴る。何重もの波の輪がそいつの顔を歪めたのに、橙色だけは何時まで経っても消えなかった。 雨の日より雨の翌日の方が気分が下がる。視界に何度もそいつが現れる。現れる度に蹴り飛ばしているものだから目的の場所に辿り着くまでに時間がかかる。鳩はいつの間にか居なくなっていた。  漸く見えてきた建物は今日から通う学校。まだ出来てそれほど経っていない校舎は前まで通っていた所より綺麗な見栄えだ。壁はくすんでいないし亀裂も出来ていない。いや、あの亀裂は早々に直した方が良いと思う。転校する前に校長にでも言ってあげるべきだったかとするつもりなんて毛頭無いことを思う。  正面玄関から入って事務所の人に職員室まで案内してもらう。父の仕事の都合上この学校へ転校してきたが、外から見たものと同じように校舎内も随分と綺麗であった。廊下から聞こえる生徒の声も、職員室内に居る教師達の視線も嫌で嫌で仕方がない。込み上げてくる吐き気を必死に抑えながら、担任だと言う男性教師の話を何とか聞き取る。自分のクラスには非常に優秀な生徒会長が居るから安心してくれと、分からないことがあったら彼に聞くと良いと話す担任に、心が落ち着くことなどなかった。まだ新年度が始まったばかりだと言うのに2年生で生徒会長、優秀だと言うのは本当のようだ。だがそんなことなどどうでもいい。ただ静かに過ごしていられるのなら、そんな資格が自分にあるわけがないのにこんなことを思うとはなんて醜悪。  自己嫌悪に浸っていればもう目の前には教室が。ここが今日から過ごす教室。脳裏をかすめる景色に目の前がグワングワンと揺れる。気持ちが悪い。 おぼつかない足取りで教壇に立つと担任が自分のことを紹介してくれた。今までの自分の様子から上手く自己紹介など到底できないと察してくれたのだろうか。よく喋る人だが気が利くようで有りがたかった。だが感謝するほどの余裕なんてなくて、集まる視線、視線、視線。見えるのは自分の足元だけなのにまるでナイフに刺されたかのように痛くて苦しい。震える手をもう片方の手で押さえても、どのみちどちらも震えているのだから意味なんてなかった。 「秋元は冬木の隣の席な、先程言った生徒会長だ。冬木、よろしい頼むぞ。」 「はい。」  担任の言葉に答える澄んだ声に顔を上げる。自分の席が何処なのか確認しなくてはならない。確認したらすぐに元に戻そうとしたが、体はまるで石のように固まって動かなかった。席が分かるように手を挙げている生徒会長と呼ばれたその男はかつて自分がいじめた同級生だった。俺の最も後悔した記憶、謝罪してもしきれない相手。許されない罪。その男もまた、こちらを見て目を見開いていた。あぁ、彼も自分を覚えている。きっと心の底から俺を憎んでいるんだ。震えが強まり、呼吸が浅くなった。左腕に激痛が走った。  いつまでも教壇に突っ立っているわけにはいかない。強ばる体に渇を入れて彼、冬木の隣の席へと座る。吐きそうになって口元を手で押さえた。彼がこっちを見ているのがわかった。今すぐにでも舌を噛みきって死んでしまいたい衝動に駆られるが、父の言葉が脳内に響いて出来なかった。  朝のHRが終了すると自分の周りに人が集まる。 「どこの学校から来たの?」 「何でこの時期に転校?」 「部活は何処に入る?」  たくさんの言葉が掛けられるたびに体の震えが強くなって返事なんて到底できるはずがない。口から出てくるのは言葉を成さないものばかり。怖くて仕方がない。あまりの恐怖に叫びそうになった時、隣の冬木が言った。 「皆、そんな一気に話しても聖徳太子じゃないんだから聞き取れないよ。転校生なんて珍しいし気になるのも分かるけど、彼も転校してきたばかりで緊張してるんだからその辺にしてあげて。」  驚いた、彼はこんなに話すような人だっただろうか。記憶の中にある彼の姿と言えば、無口で無表情、無関心。まるで人形の様で不気味だと噂されていたし実際そんな感じだった。それと...。 『綺麗だね、君の瞳。』  聞こえてきたのは隣の彼のものよりもう少し幼い声だった。その一言が始まりだった。  小さい頃からこの瞳が嫌いだった。両親のどちらにも似ていないこの瞳は母親が不倫していた男の瞳とよく似ていた。俗に言う政略結婚で結ばれた二人の間に愛なんてものはなく、生まれたのは別の人間との子供。両親はその子供が実の二人の子ではないことを隠した。知られれば自分たちの身分に傷がつく。  不便はなかった。食事はしっかり食べさせてもらえていたし、学校も通わせてもらった。暴力が振るわれることはなかった。  愛もなかった。母は子供の瞳を見て別の男の名前を呟くのだ。愛おしそうに。そしてもう一度子供を見るとその表情は冷たいものに変わった。父は目すら合わなかった。家のなかはいつも冷たくて寒い。周りの友達は暖かそうだった。  だから冬木の言葉に心底苛立った。この瞳を、綺麗だなんて言ったあいつが憎かった。殴って、蹴って、物を隠して。どれだけ酷いことをしても、あいつは真っ直ぐ自分の瞳を見ていた。いじめられていることさえ無関心な様子のあいつは、いつも自分の瞳をまるで宝石でも観るように見つめてきたのだ。  中学3年に上がると冬木は転校した。これでもうこの瞳を見られなくて済むのだと思っていたら、今度は自分の番だった。殴られて、蹴られて、物を隠されて。自分の言葉は誰にも届かなくなっていた。友達だった人も、教師も見ないふり。加担する者も居た。高校に行ってもそれは変わらずむしろ悪化した。同じ中学から多くの生徒が上がってきたその学校では、人をいじめた悪として速攻で噂が広まった。まぁ、その噂は真実だからどうしようもなかった。  両親は子供がいじめをしていたことを知るとそれはもう怒り狂った。 自分たちの身分に傷をつけた ここまで育ててやった恩も忘れて 出来損ないが 自分たちの汚点だ 汚らわしい お前さえいなければ  そんな言葉が暴力と共に降りかかって漸く自分がしてきたことの悪行に気が付いた。初めて両親が話しかけてくれた言葉は自分の存在を否定するものだった。初めて目が合った父親は憎いものを見る顔をしていた。初めて触れてくれたその手は俺の体にいくつもの痣を作った。何処にも居場所などなかった。罪を償う為に死のうともしたがそれは父親により止められた。 「生きて償え。お前ごときが死んで楽になれると思うな。」  生きることが苦しくて、でも死ぬことも許されない。 罪を償い続けるしかなかった。 人が怖くなった。自分が心から嫌いになった。  高校生の冬木に中学の面影はなかった。休み時間になれば彼の周りに人が集まる。中には他のクラスや別学年の生徒、教師が居ることもある。冬木は隣の席=自分の周りにも人が集まる訳で、あまりの恐怖に休み時間はトイレに引きこもった。ちょっと吐いた。 「冬木ぃ、さっきの授業のこの問題なんだけど____。」 「冬木君、明日の生徒会の時間だけど_____。」 「バスケ部の部品でさぁ_____。」 「今度のテストの事で相談が_____。」 冬木は中学の頃から優秀な人間だった、それは今もだ。皆彼を頼りにしていることが分かる。ほとんどの人が相談しに来ていた。昼休みになれば彼は生徒会室に弁当とたくさんの資料を持って行ってしまった。せめて、一言でもいいから謝りたかったがその機会はなかなか訪れず、時間が出来たとしても喉の奥に突っ掛かって言葉は出てこなかった。  自分も弁当を持って教室を出ると一番上の階まで階段を上る。屋上はどうやら人気がないようで誰も居なかったから好都合だ。登校時の道と同様屋上には水溜まりがあったが、あんなたくさん人が居るところにいたくはなかった。午前中だけで色々ありすぎて食欲は湧かなかったが夕飯のことを考えると無理矢理にでも口に突っ込んだ。 それでも吐き気が来て少し余ってしまったご飯をぼぅっと眺めていると足元に鳩が飛んできた。今朝の鳩だろうか。残りのご飯を足元に置くと鳩は暫くそこに止まってこちらを警戒していたが、少しずつ食べだした。しまった、鳩って餌を与えていいんだったか、なんて今更過ぎることを鳩を眺めながら考えた。いつだって俺は気が付くのが遅い。溜め息をついて落ち込む俺を慰めるように鳩が隣に座った。懐いたのか。鳩と共に屋上で束の間の休み時間を過ごした。  残りの授業を何とか耐え凌ぎ放課後が来た。早くここから去りたい気持ちと家には帰りたくない気持ちがぶつかり合って、でも結局は帰るしかないのだから心は沈んでいくばかりだ。冬木にも話し掛けられず。鞄を持って席を立つと一人の男子生徒が話し掛けてきた。顔は見れない。 「なぁ、お前、秋元奏だろ。」 それは朝に担任から紹介されたから知っていはず。どういうことだと疑問に思っていると次の言葉に心臓が冷たくなった。 「遠山中学の秋元奏、1.2年の頃冬木のこといじめてたやつ。お前だろ、有名だったぜ?」 クラスの空気が凍りついたのが分かる。隣からも息を飲む音が聞こえた。 「人違いじゃない?足立君。」 「人違いじゃねぇよ、お前自分のこといじめてきたやつ忘れたのか?散々な目にあってきたって言うのに。」 「はぁ...。わざわざ皆の前で言う必要ないでしょう。それに僕は気にしてないよ。だからこの話はもう終わり、皆も気にしないでね。ほら、部活ある人もいるでしょ?遅れちゃうよ。秋元君も、大丈夫だから。」 「...ッッ!!」 「あ、秋元君!!?」 気が付いたら教室を飛び出して走っていた。苦しい、苦しい。目の前が歪んで、呼吸が上手く出来なくて、目から零れる涙を拭う余裕もなくてひたすらに走った。自分の犯した罪はどこまでもついてくる。償ったって許されない。償いきれない。  夕日によって伸びた影がまるで大罪人を処刑しに来た鬼のように見えた。鬼はこちらを嘲笑っていた。  走ったことだけが理由ではないが荒れた呼吸を整えて家の玄関を開ける。リビングからは複数人の男の声が聞こえた。父がまた人を呼んだのだろう、その声に少しだけ落ち着いた胸の鼓動がまた早くなる。自分の部屋まで微かにでも音をたてないように静かに移動するのは癖になっていた。見つかってしまえばその先は地獄だ、しかも今日は父の知り合いが来ているとなると更に事態は最悪な形になる。最終的には顔を合わせなければならないが、少しでもその時を先へ伸ばせるのであれば伸ばすに越したことはない。  だが世の中がそう上手くいくわけがないのはずっと前から知っている。リビングに続く扉が開くのがいやにゆっくりに見えた。そこから顔を出したのは父だ。 「遅ぇんだよグズが!さっさと飯作らねぇかこの鈍間!!」  その言葉と同時に思いっきり蹴られ体が壁へ叩きつけられる。蹴られた所も壁へぶつかった所も痛かったが悶えている時間なんてない、直ぐさま父に謝りながら立ち上がり自室へ走る。今日は走ってばかりな気がする。荷物を置いて部屋着に着替えたらキッチンへ行きお客さんの分も含めたいつもより多い夕飯を作る。自分の分はおにぎりをラップで包んでキッチンに隠す。おそらく今日は食べるまでに時間が掛かるであろうことは予想出来るし、おにぎりなら自室で食べても洗い物が出てキッチンへ戻る必要もない。  急いで作ったご飯を彼らの居るリビングのテーブルへと運んだが遅いと父にまた蹴られた。知り合いの男達はそんな父と自分を笑って見ていた。 「やめろってぇ、かわいそうだろぉw」  思ってもいないことを言いながらまだ火のついたタバコを腕に押し付けてくる。痛さに手を払いのけそうになるのを必死に抑える。ここで抵抗すればより酷い苦痛が待っている。不味いと言ってかけられた熱い味噌汁にも必死に耐え、床に散乱したご飯を雑巾で片す。すると男の一人が髪を掴んで来た。痛い。 「おいおい、こんなに汚れてしっかり風呂入ってんのか?汚ぇなあ。」  汚れているのは彼らが味噌汁をかけてきたからだ。だがそんなこと言えるわけがない。 「俺らが洗ってやるよ。」  ニヤニヤと笑う顔に絶望する。髪を無理矢理引っ張られて連れてこられたのは水の溜まっているお風呂場だ。お湯ではなく水であることに初めからこうするつもりだったのだろうと、今からやられることに身を固くした。  風呂場の隅へと叩きつけられると冷たいシャワーを掛けられる。桜が散る季節とは言え水を掛けられれば寒いのは当然、必死に暖を取ろうと両腕を擦る。次々と降りかかってくる水と暴力にあまり意味は成さなかったが、やらないよりかは幾らかマシだった。  シャワーが終われば今度は水の溜まった湯船に顔を突っ込まれる。苦しくて頭を上げたくても押さえつける手が邪魔で口から空気がゴボゴボと漏れていく。限界が来ると漸く顔を上げさせられる。慣れてしまった体は次に沈められるまでの僅かな時間を息を吸い込むことに集中する。何度も何度も繰り返される風呂場でのこれは、殴られる方がよっぽど良いと思えるほど苦しくて嫌いだ。こればかりは生存本能が働いて抵抗してしまう。抵抗すればまた殴られ、水に沈められる。  服で隠れる場所にしか痣や傷をつけないものだから器用なことだ。傷が人に見られれば暴行や虐待を疑われるためこれはありがたかった。前の学校で一度教師に痣を見られクラスで問題になったことがある。もちろんクラスでも暴力は受けていたがそれをクラスメイトが話すことはなく、ならば家庭でのものかと教師が父に追及した。父は怒り狂いその日はいつも以上に暴力が振りかかった。 「これはお前が生まれてきたことの罪の償いだ。」  逃げるなんて選択は端からなかった。  どれくらいの時間が経ったのかは分からなかった。ぼやっとする思考のなか、風呂場から父達が出ていくのが見えた。今すぐ濡れた服を脱いで暖を取りたかったが、疲れはてた身体は言うことを聞かず、倒れたまま乱れた息を整えるのに尽くしていた。  しかし何時までもここに居てはまた父に殴られかねない。フラフラする身体に鞭を打って部屋に戻り、服を着替えて布団に入った。髪を乾かすのも、夕飯を食べるのも、何もかもが億劫でそのまま目を閉じる。意識が奥底へと落ちていく感覚に安堵を覚える。いっそこのまま一生目覚めなければ良いのに__。  そんなことを思ったところでどうにもならない。残酷なことに必ず日は昇り新しい1日が訪れるし、朝食を作らなければまた殴られてしまうという恐怖から目を覚まして起き上がる。窓から見える空はうんざりするほど綺麗な青が広がっていた。  朝食と学校へ持っていく弁当を作り、父が起きてくる前に急いでご飯をかきこんで家を出る。隠していたおにぎりはカピカピになってしまっていたため捨てた。  昨日も通った道を歩いていると近くの木に鳩が止まった。よく見ると昨日の鳩だ。茶褐色のあの鳩、珍しく胸にすこし黒い模様があるから覚えていた。鳩も覚えているのだろうか、こちらをじっと見ているし、着いてくる。いまご飯はないぞ。学校に着くと鳩は何処かへ飛びだっていった。  校舎に入ればたくさんの生徒の声で耳鳴りがする。気持ち悪い。早足で教室に入れば視線が集まるのがわかった。昨日のこともあって教室の空気は重い。 「えっ...。」  自席に向かうと机には以前に何度も見た光景が広がっていた。机にかかれた落書きには自分を罵倒する言葉がたくさんあった。周りからクスクスと笑い声が聞こえる。やばい吐きそう。口元を手で押さえるが今度は息が上手く吸えない。眩暈が酷い。倒れそうになっていると後ろから冬木の声が聞こえた。 「おはよう、どうしたの皆?秋元君も席に座らないの...って、は、何これ。誰がやったの!?」  冬木はどうやらこの事態は知らなかった様で誰がやったのかとクラスメイトに問い詰めていた。 「冬木、そんなやつ気にすんなよ。散々酷い目に合わされてきたんだろ?つか秋元テメェ、冬木に謝れよ。謝罪も出来ねぇクソやろうなのか。」 「ッッ!!、ご、ごめんな、さ...。ぅっ、ッッ!!」 「昨日も言っただろう!?僕は気にしてない!今すぐこの机を戻してっ!秋元君も、ごめんね、もう大丈夫だから。あ、ちょっと!!秋元君!!??」  冬木の呼び止める声が聞こえたが教室を飛び出して屋上へと走った。気持ち悪い、苦しい。ごめんなさい、ごめんなさい。誰に届けるでもない謝罪を繰り返してひたすら足を動かした。結局屋上に届く最後の階段を登っている途中で限界が来て倒れた。息をたくさん吸っているのに肺に酸素が送られていないような気がする。頭痛もするし身体に力が入らない。  しかしそんな身体でも衝動的にそのまま持ってきた鞄の中からカッターを取り出し、袖をまくって左腕に巻かれた包帯を取ると、力加減など一切考えず肌に刃を立てて切った。痣や火傷とは違う横に伸びたいくつもの跡の上に新しいものを作っていく。  嫌いだ。この傷も、瞳も、滴る血も、自分の過去の過ちも、自身の存在の何もかもが、醜くて、憎くて、大嫌いだ。消えてしまえ、お前など! 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛!!!」  叫び声と共にカッターを振り下ろす。しかし腕に刃が刺さる前に誰かの手によって止められてしまった。その手を辿るとかつてのように自分の瞳を真っ直ぐに見つめる彼が居た。 「秋元君!!??」  教室を出ていく彼を追いかけようとするとクラスメイトが止めてきた。彼を庇う必要などないと言うクラスメイトに腹が立った。 「どんな理由があろうと人を傷つけていいわけがない!!彼は反省してるし、謝っただろう!?それに彼は、僕のッッ...!とにかくこんなこと二度とするな。僕たちが戻ってくるまでに机を直しておいて。それをしないのなら僕は君たちを軽蔑する。」  クラスメイトに指示を出すと急いで秋元を探す。廊下にいる生徒に彼の特徴を言い、どこに向かったのか教えてもらう。屋上に向かったことが分かると、生徒会長という立場も忘れて階段を駆け上がる。  屋上へと続く階段の途中で座り込んでいる彼のもとへ行こうとするとカッターを振り上げている。カッターの刃に赤い血が付いているのを見て慌ててカッターを持つ腕を掴む。彼が驚いた表情をこちらに向け息を飲んだが、そんなことを気にしている余裕はない。彼の左腕は血だらけになっている。似たような傷痕がいくつもあることから、この行為は今までにも何度もやったきたことなのだと簡単に推測できた。 "リストカット"か。  だが気になるのはそれ以外の傷だ。痣や火傷の跡は見たところ新しいものも多い。今の彼には他人と喧嘩が出来るような性格をしているとは思えない。どちらかというと人に怯え徹底的に避けている様子だ。ならこれは___。  カッターを持った腕が尋常ではないほど震えている。息も荒く過呼吸になっている。まずは落ち着かせないと、と出来る限り優しい声を努めて話しかける。 「急に掴んでごめんね、怖かったよね。僕は君を傷つけたりしないから、酷いことも絶対にしないから、僕を信じて。このカッターから手を離せる?大丈夫だから。」  僕の声にゆっくりではあるがカッターを離してくれる様子にほっと息をつく。カッターを遠くへ投げ捨てると、彼の鞄からタオルを取り出し左腕をタオルで覆って強く押さえ止血を図る。彼は抵抗しなかったが震えは更に強まり身体は強張るばかりだ。  片手で傷口を圧迫しつつ、もう片方の手で彼の身体を抱き寄せる。彼の声から小さな悲鳴が上がったがやはり抵抗はしなかった。本来なら他の人も呼んで止血や保健室に運ぶ補助が欲しいところだが、今の彼には人が増えるのは逆効果だろう、よりパニックを起こしかねない。 「怖いよね、辛いよね、でも大丈夫。もう大丈夫だから。ゆっくり呼吸しよう、落ち着いて、ゆっくり。」 「っはぁ、ぅ、でっ、できなっ...。」 「慌てなくていい、少しずつできるようになればいい。僕と一緒に練習しようか。大丈夫、ゆっくり吸って、吐いて、もう一回吸って、ゆっくり吐いて。そう、上手、大丈夫。」  上手く出来ないと慌てる彼に優しく落ち着いて声をかける。過呼吸の対処はとにかく周りが慌てないことだ。一番パニックになっているのは本人であるため、周りが焦ってしまえば当の本人が落ち着けるわけがない。ペーパーバック方という口元を紙袋等で覆うやり方が危険とされた理由の一つでもある。窒息状態になる恐れもあり、口元を押さえるこの行動は患者に恐怖感を抱かせてしまうからだ。  震える身体を何度も擦って声をかけ続ける。彼の右腕が僕の胸元の服をすがり付くように掴もうとして、結局自分の胸の上できつく拳を握った。呼吸が正常に戻り始めた彼に、安心を与えるように鼻唄を歌う。 「ごめ、ぁぅ、めんなぁ、さい。ご、なさ。」 「大丈夫、もう謝らなくていいんだよ。さっきも謝ってくれただろ、それでもう十分。初めから僕は君を一度も責めたことはないよ。恨んだこともない。だって君は僕の、太陽だから。」  僕の言葉に驚いた顔を上げた彼の瞳は、あの頃から変わらず、美しく輝いていた。  目を開けると白い天井が見えた。独特な匂いがするこの場所は保健室か。いつの間に寝ていたんだ。左腕を見ると包帯が巻かれていた。ベッドから起き上がり、閉じられたカーテンを開けると保健室には誰も居なかった。時計の針の音と、遠くから聞こえる楽器や生徒の声。保健室は窓から照らされた夕陽でオレンジ色が広がっている。  ぼぉっとその様子を見ていると保健室の窓が叩かれた。ビクッと肩を上げて音の方を見ると、窓の外からあの鳩がこちらを見ていた。デデーポッポーと独特な鳴き声を出す鳩に窓を開ける。ごめん今ご飯持ってない。そんな謝罪の気持ちを込めて手を差し出すと鳩が己の頭を手に擦り付けてきた。えぇ、か、可愛い。ひびりながらも鳩の体を撫でると、鳩は逃げずに目を瞑り気持ち良さそうにしていた。可愛い。 「あ、目が覚めたんだね。良かった。」  後ろから聞こえてきた冬木の声に悲鳴が出そうだった。いつ入ってきたんだ。気付かなかった。いや、鳩に夢中になっていたからだろう。近づいてくる冬木に腰が抜けてしゃがみこむと、窓にいた鳩が教室に入ってきて俺の前に止まった。羽を広げカッカッカッと冬木に対して威嚇している。冬木はそんな鳩に驚いた後、困ったように眉を下げた。 「そんなに警戒しないでくれよ。鳩を飼っているのかい?随分と君に懐いているようだね。主人を守ろうと小さな身体で精一杯威嚇してる。大丈夫だよ、彼を傷つけたりしないから、ね。」  冬木は鳩の前に腰を落とすと優しく話しかける。鳩に言葉が通じると思っているのか。成績優秀な人でも不思議なことをするものだ。しかし鳩は彼の言葉を理解したのか、たまたまか、威嚇をやめて俺の隣に座った。なんとなくまだ警戒している雰囲気がある。じっと冬木から目を反らそうとしなかった。 「ありがとう。鞄を持ってきたんだ、もう放課後だからね。左腕、痛むかい?一応保健室の先生が痛み止めの薬を置いてってくれたから、痛みが強いようなら飲むといい。先生は会議でまだ来れそうにないから帰っても良いって。」 「なんで...。」 「ん?」 「なんで、そんな、優し、くするんだ。俺は、ッッ、お前のこと...、なんでッ!」  落ちる涙を拭うことも忘れて、途切れ途切れで上手く喋れない俺を、冬木は優しい目で見つめていた。鳩が俺の足にベッタリとくっついてきた。暖かい、何もかも。暖かい。 「朝も言っただろう、僕は君を責めたことなんてないよ。君は僕の太陽だからね。」 「太陽って、なに。」  そう問うと冬木は俺の顔に手を伸ばしてきた。足元でバサッと羽を広げた音が聞こえた。怖くて身体が強張るが、冬木は優しく俺の頬に手を添える。 「君の瞳だよ。太陽、どちらかというと夕陽だけど、本当に美しい。初めて見た時から、僕は君の瞳が大好きなんだ。」  息を飲んだ。あの時も冬木は自分の瞳を見て綺麗だと言っていた。あの頃はそれに心底苛立って殴ってしまったが、今は何故か胸が暖かくなるのを感じた。俺の瞳を見つめる冬木は愛おしそうな顔をしていた。あの母とは違う、ドロドロしたものではなくて。ただただ暖かい。いつも痛いばかりの心臓の鼓動が、トクントクンと心地よい音を立てる。強張っていた身体の力が抜けた。そういえば、階段で俺を抱き寄せたときに、彼が歌った鼻歌に同じような心地よさを覚えた。    これはなんなんだろう。この気持ちになんと名前をつければいいのだろうか。分からない、知らない。でも不思議と無知なことに怖さや不安を感じなかった。なんなんだこれは。  そんなことを考えていると冬木が静かに語り始めた。 「僕さ、ずっとモノクロの世界に居たんだ。」  幸せな家族だったと思う。子供は難しいと言われた夫婦の間にできた奇跡の子。それはそれは愛情深く育てられた。知らないことはなんでも教えてくれたし、やりたいことはなんでもやらせてくれた。でも間違ったことをしたらしっかり叱られて、もう間違わないと約束の指切りをすれば、ニコリと大好きな笑顔で頭を撫でてくれた。心から愛していた。  だから失った時のショックも大きかった。ピカピカのランドセルを背負って家に帰ると、正月くらいでしか会わない親戚が家にいて、どうしたのかと問えば、告げられたのは両親が事故でなくなったという残酷な事実だった。  即死だったらしい。近くのスーパーまで夫婦仲良く徒歩で向かっていたところに飲酒運転の車が猛スピードで突っ込んで来た。周りの人が直ぐに救急車を呼んだが、二人は既に息を引き取っていた。  まるでテレビ越しにでも聞いているようで、気が付いたら世界から色が消えていた。全てモノクロで、つまらない。僕を引き取ってくれた親戚の人達も、友達も先生も、漫画みたいに線で形が作られた色のない存在。こんな世界で生きている理由が見つからない、だけど死んでしまえば、僕をあれほど愛していた二人は悲しむと知っているから。ただただ同じ日々を淡々と過ごしていた。  そんなときに出会ったのが秋元 奏だった。モノクロの世界のなか彼の瞳だけは綺麗な橙色をしていて、それを見たとき、日課になっていた家族一緒に、庭で夕陽が落ちていくのを見ている景色を思い出した。美しい、愛の思い出の色。彼の瞳を見た瞬間、今まで消えていた全てのものが色付いていくのが分かった。高鳴る鼓動を抑えられなかった。だから心のままに口を開いた。 「綺麗だね、君の瞳。」  彼はその言葉に腹を立てたらしい、殴られてしまった。何故だろうか。こんなにも美しい瞳をしているのに。この時の僕にはどうしても分からなくて、でもどれだけ殴られ蹴られても、その瞳から目を反らすことは出来なかった。僕に色をくれた美しい瞳。あぁ、本当に綺麗だ。心から愛おしい。僕を見つめるその瞳は怒りで歪んでいるのに、不安そうに揺れている。まるで愛して欲しいと泣いている子供のようだ。純粋で綺麗で。それを見てしまえばもはや瞳だけではなく彼そのものが愛おしくなっていた。  中学3年になると義理の両親の都合上転校することになったが、どれだけ経っても彼を忘れることはなかった。願わくばもう一度会いたい。その願いは2年後に叶えられた。  再び出会った彼は変わっていた。人に怯えいつも下を向いている。あぁ、俯いていては君の綺麗な瞳が見えない。なんて勿体ない。でも他の人に見られてしまうくらいならそのままでもいいと思ってしまう邪心を持つ自分もいた。  なんというか、もう、ほんとお腹いっぱいだ、昼御飯は食べ損ねたのに。冬木の話に、顔に熱が集まるのが分かった。心臓がうるさい。でも嫌な感じはやっぱりしなくて。なんだこれ、なんだこれ。苦しいのに苦しくない。なんだこれは____。 バサバサバサッッ!!! 「うぇえッッ!ちょ、待って!なになにッ!!」  悲鳴を上げそうになったとき足元にいた鳩が冬木に飛びかかった。大きな羽の音を立てて冬木を足蹴している。 「やめてくれ!待ってってば!そんな嫉妬しないでくれよ!!悪かったって!君だって彼が好きならこの気持ちも分かるだろう!!嫉妬深い奴は嫌われるぞ...ッわああ!髪を引っ張るな!!」  何やら言い争ってる?様子の彼らを呆然と見ていると、笑いが込み上げてきた。鳩と喧嘩、おもしろい。我慢出来ずに笑い声をもらしてしまうと静かになった。疑問に思って彼らを見ると、彼らもまたこちらを呆然とした様子で見ていた。鳩は冬木の頭の上に止まっている。おもしろい。また笑い声がもれた。 「笑った、やっと笑ってくれた。笑顔も素敵だ。とても似合っているよッッて痛い痛い!!やめろぉー!!」  再び始まった鳩と冬木の攻防についに声を上げて笑った。帰ってきた保健室の先生は女性にあるまじき爆笑をしていた。冬木と共に学校を出て帰路につく。鳩は何故か俺の肩に止まって隣を歩く冬木を威嚇していた。冬木はなんとも言えない顔で俺と鳩を交互に見ている。 「秋元君、その、さぁ。」  冬木が何か言い淀んでいるが、彼の帰路との分かれ道に到達したらしく立ち止まってしまった。どうしたのかと首を傾げると意を決した顔をして俺の手を握ってきた。鳩は瞬時に羽を広げた。今まで人に触れられると怖くて震えていたのに、冬木には触れられても怖いと思わなかった。 「教室でのことは僕から皆にちゃんと注意した。皆も反省してくれたようだし、もう大丈夫。それでも何か困ったことがあれば何でも僕に言ってくれ。必ず力になるから!辛いことがあるなら、苦しいことがあるなら、痛い思いをしているなら言ってくれ。助けるから!」  真剣な顔で左腕を撫でながらそう言う冬木に、とても優しい人なのだと思った。こんな俺を気にかけてくれるなんてどこまでも真っ直ぐで純粋で...。教室でのことは本当なのだろう。だから彼に中学でのことの謝罪をしっかりと、そして教室でのことの感謝を伝えた。冬木が居てくれるなら大丈夫だと。 「そうじゃなくて、教室でのことだけじゃなくて...ッ。君の...。」  首を傾げる。どういうことなのだろうか。分からない。鳩が首もとにくっついてきた。暖かい。腕も首も暖かい。それだけでとても満たされていくようで、十分だと言うと、冬木は泣きそうな顔をした。鳩からも落ち込んでいるような気配を感じた。何かあったのだろうか。 「今は、今はまだ無理でも、僕はずっと待っているから。いつでも頼ってくれ。人は難しい。言葉にして伝えなければどうしようもならないことだってあるんだ。君の一言、助けてという一言さえあれば僕が必ず救う。周りにはたくさんの大人もいる。力になってくれる人がたくさんいるから。待ってるからね。」  冬木の帰る電車の時間が迫るギリギリまで俺の腕を撫で続けてくれた。 【これはお前が生まれてきたことの罪の償いだ。】 夕陽で伸びた自分の影がそう告げる。  言いかけた言葉は喉に詰まって出てこなかった。

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