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第3話

 漸く言えた言葉でたくさんの人が動いてくれた。何度も突っ掛かって上手く話せず時間が掛かってしまったが、今までの家でのことを包み隠さず警察に話した。彼らからは『よく頑張ったね』と言われた。泣きそうだった。  夏原や春日部は俺が学校を休んでいる間の授業のノートを見せてくれた。字が汚くて所々読めなかった。それでも嬉しいことには変わりない。お礼に勉強を教えたら、どうやら小テストで良い点が取れ、教師や部活の顧問にも褒められたと嬉しそうに報告してくれた。悪魔を呼び覚ます儀式が再び行われた。それはやめてくれ。  退院後、俺の家に戻るのは父と遭遇する可能性が高く危険なため、冬木の家で過ごすことになった。保護施設もあるし初めは断っていたが、精神科の担当医から、まだ完全に精神が安定していない今、信用できる人と共にいた方が良いと言われたことと、冬木からの強い要望があったため、彼の家にお邪魔することに決めた。  冬木のご両親、彼から聞くと義理らしいが、二人は喜んで迎え入れてくれた。そんな二人に、俺自身が進むためにも、けじめとして、冬木をいじめていたことを謝罪した。二人はそれでも変わらず、優しく受け入れてくれた。  冬木の母親、美智子(ミチコ)さんからは、息子をこれからもよろしく、でももし息子が手を出してきたら直ぐに相談してちょうだい、とニッコリ笑顔で言われた。いや、冬木を傷付けていたのは自分の方なのだから、気にかけるのは逆では。冬木も冬木で、まだギリ出してないとか言うな。どういう意味だ。二人の様子からして殴るとかそう言うことではないと分かるが。  父親の正和(マサカズ)さんには何故か背に庇われた。元々俺の部屋は冬木と共同で使うことになっていたが、今すぐにでも変更しようと死んだ目で言われた。なんで。冬木は全力で抵抗していた。よく分からない。  彼らの家はとても暖かかった。あの家とは大違い。笑顔が絶えず、幸せな色で満ち溢れていた。安心してご飯を食べて、お風呂に入って、眠ることができるなんて、夢にも思わなかった。痛いことは何一つない。  温かいご飯を食べると涙がポロポロと落ちた。涙でちょっとしょっぱくなったご飯だけど、美味しくて美味しくて、ただひたすら食べた。正和さんが頭を撫でてくれるもんだから余計に涙が止まらなかった。  寝るときは冬木と同じベッドで寝た。俺用にと布団が用意されていたが、彼と寝る方が何倍も安眠できた。彼に触れて眠るのが一番効果的だ。初めの頃は冬木があまり眠れていなさそうだったため、やはり別々で寝ようと提案したが、却下された。暫くして慣れたらしく、彼もしっかり眠れているようで良かった。正和さんには物凄く心配された。美智子さんは笑顔で悲鳴を上げて何やらメモを取っていた。よく分からず、定期健診の際、担当医にそのことを話すと、なんとも言えない顔をして黙ってしまった。  様々な変化に対応するので大変だったが、それは決して苦痛ではなかった。父は未だ行方が分かっていないが、父と共に手を上げてきた男達は警察に捕まった。警察の話によると男達も父と同様に、行方が分からなくなっていたが、隣町の雉乃神社という場所に傷だらけの状態で倒れていた所を発見されたらしい。命に別状はないが暫く意識が戻らなかったと聞いた。証人として彼らの顔写真を見せられたときは、あの時の記憶が甦って怖かった。過呼吸になりながらも、冬木が側で支えてくれたおかげで、しっかりと彼らが自分に暴行を加えてきた人達であることを伝えた。冬木と、これが第一歩だと二人で笑い合った。  担当医からOKサインが出て、久々に学校へ登校することができた今日は、終業式である。クラスメイトや教師からはたくさんの心配の声が掛けられた。彼らには体調を崩し長期入院していたと話されている。家庭の事情は知られたくなかったから良かった。まだ怖くて上手く話せないが、それでも心配してくれた皆へ、しっかり向き合って感謝を述べた。何故か夏原と春日部が悪魔を再び呼び覚まそうとしていた。おい、冬木も混ざるな。 「ゲーセン行こうぜ!」  終業式も終わり、部活が休みだった夏原が言った。ゲーセンには行ったことがなかったから、ワクワクした。クレーンゲームのアームはどう考えてもインチキだったと思うが、それすら楽しかった。シューティングやカーレース、音楽ゲームは春日部が圧勝だった。強すぎる。ゲームマスターと呼んでくれとどや顔で言う彼を、先程取ったらしい不細工な顔した大きな猫のぬいぐるみで夏原が殴っていた。嘲笑う顔をしている猫だが、何故それを取ったのか。夏原のセンスは分からない。  ゲーセンからの帰り道を冬木と歩く。少し遊び疲れたところもあるが、それでも楽しくて、充実した一日だった。嬉しさが抑えきれず鼻歌を歌ってしまう。いつの日か聞いた事のあるあの鼻歌。そうだ、曲名を聞きたいと思っていたんだった。 「ねえ、藍。藍が歌ってくれたこれ、なんて名前の曲なの?」  冬木は目を見開くと、覚えてくれていたんだと嬉しそうに笑う。 「実はそれ曲名がまだないんだ。僕が即興で作ったものだからね。」  驚いた。冬木が作ったのか。でもどこか納得した。冬木の優しさが詰まったこの曲だからこそ、いつも自分を幸せで満たしてくれるんだと。名前がないなどもったいない。とても良い曲なのだから。そう冬木に伝えると、彼は俺の瞳を覗き込んで考える。いや、なんで。 「そうだなぁ、名前をつけるなら...。」  真剣な表情の彼に目を逸らせず見つめ返す。鼻先が触れそうなほど近づいてきた距離に、心臓が高鳴る。彼が俺と額を合わせてきて、左手で俺の頬を撫でる。もう片方の手を俺の手と絡み合わせてくる。顔が熱くなるのが分かった。夕陽が作り上げた2つの影が重なる、  茶褐色の小さな塊が冬木の顔へ横からダイレクトアタックした。 「ぶッッッッ!!!イッタァァア!!お前久々に来たと思ったらなんつぅタイミングで!この!!クソ!鳩がぁ!!」  懐かしく感じる光景に苦笑いが零れる。久しぶりに見たソウは元気に冬木をつつき回している。良かった、ずっと会えていなかったから心配していたのだ。ほっと息をつくもすぐさま香ってきた匂いに眉をひそめる。 「ソウ、止まって!」  俺の声に答えるようにソウが冬木から俺の伸ばした腕へと飛んできた。強くなった血の匂い。慌ててソウの身体を注意深く見るも、怪我は見当たらない。つつかれていた冬木にも傷は見当たらず。暫く見ていない間に何かあったのだろうか。 「うーん、一度、野鳥保護施設で診てもらった方が良さそうだね。」  一旦家で保護し、翌日冬木の提案で施設へ連れていくことになった。冬木の両親には驚かれたが、近くにあるという保護施設までの道を教えてもらえた。そう遠くない、徒歩で40分程度の場所にあった。  施設の職員からはソウを飼うのかと聞かれたが、横に首を振った。ソウには、誰にも縛られず自由に生きてほしかったから。幸い怪我はなく、匂いについては何処かでついてしまったのだろうとのことだった。本当に良かった。あまり危険な所へはいかないでくれと頭を撫でた。ソウも大切な友達なんだ。 「全く、心配かけるなよ。」  冬木がソウにちょっかいを掛けながら言う。反撃されると分かっているのにするものだから、冬木はソウに対して子供っぽいところがある。  夏の熱い日を浴びながら、家へ続く道を歩く。ソウが上空へ飛んだ。元気に飛び回る様子に安心する。  ジャリッと後ろから足音が聞こえる。それは嫌でも記憶に残るあの男の足音だった。 「漸く会えたなぁ。なあ、この出来損ないが。」  振り向いた先には父が居た。ヒュッと口から音がする。なんで、こんなところに。足が氷で固められたみたいに動かない。ニタニタと笑う顔により恐怖を感じ、視界が狭くなるのを感じる。来ないで。来ないでくれ。 「ご自身の息子が入院していたと言うのに、連絡も取らず、一体どこに居たんですか?自分がしてきたことが世間に知られると怖気づいて逃げたのか。出来損ないはどっちだよ。」  冬木が俺の前に出て父を挑発する。彼の言葉を聞いて眉を吊り上げた父は、最後に見た時より随分と痩せこけ、身体も傷が多くボロボロだ。微かに血の匂いがする。息が荒い、焦点も合っていないその姿は、怒り狂った獣だ。 「なんなんだ貴様!!俺の何が分かる!!血も繋がらぬ穢れたガキに人生を潰された!俺のこの気持ちが!!」 「知りたくもない。子供に手を上げる人間の気持ちなど。あんたこそ奏の何が分かる。長年に渡る親からの虐待に苦しみ続けた奏の気持ちが。穢れているのは、奏の人生を汚したのは、あんただよ。」 「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇええ!!!」  怒鳴り声を上げながら父が走ってくる。だめだ、冬木をこの男に傷付けられたくない。咄嗟に冬木の前へ立つ。  父が俺を穢れていると言った。冬木は父を穢れていると言った。穢れた者同士、血の繋がっていない、戸籍だけの親子。父は俺を愛してはくれなかった。そんな父を恨んだ。それでも、俺の戸籍を作ってくれた。家に置いて、学校へ通わせてくれた。その恩はやはり返すべきだろう。走ってきた父を受け止める。 「父さんッ。」  父が目を見開く。あぁ、そう言えば、初めて、父を呼んだ気がする。父さん、だなんて、言葉にしたこと今まであったっけか。  見開かれた瞳から、小さな子供を抱える父の姿が見えた。優しい、"父親"の顔、そんな顔なんて見たことないはずなのに、なんで、懐かしいと感じるのだろう。  父は俺を愛してはくれなかった。  本当に?  なら、瞳に映るこの光景はなんだ。  懐かしいと感じるのは、この記憶が、確かにあったものだからじゃないのか。ならば俺は、どうなんだ。  俺は、初めから、父を愛していなかった。  目を合わせなかったのは、  最初に目を逸らしたのは、  繋がりのないその血を、初めに拒絶したのは、   『奏、お前の名前は、"かなで"と言うんだ。いいかい、よく聞くんだぞ。名前には必ず意味がある。そこに込められた"愛"があるんだ。かなで、その意味は...。』  愛していなかったのは、  俺だ。 「奏!!!!!」  冬木の声が遠くに聞こえる。痛い、痛い、お腹が、痛い。思わずお腹に手を伸ばすと、鋭い何かが刺さっていて、そこから水が流れてくる。水じゃない、赤い、血なのか。いつの間に倒れていたんだろうか。息ができない。少しずつぼやけていく視界のなかで、座り込んだ父が見えた。痛い、痛い、痛い、いたい。 「あ、ぁあ...。か、なで、かなでぇ...。奏ッ...。」  ひさしぶりに、なまえ、よんで、くれた。 『お前の生きるその道が、幸せな音色で奏でられますように。』 「あんたの子じゃないわ。」  目の前の女が発した一言に、自分を抱える男の腕に力が入る。 「どういう意味だ。」  男の声は震えていた。 「そのままよ。分かってるでしょ、知ってるんでしょ。私の愛人のこと。あの人との子よ。避妊したつもりだったんだけどねぇ、ほんと最悪。目の色だけ似ちゃって、なにそれ、嫌み??気持ちが悪い。」  なんで、そんなこと言うの。 「自分の子供だぞッ。」 「欲しくなかったわよ。私、子供嫌いなの。ギャーギャーうるさいし。貴方も、疑いもせずによくそんな子供受け入れられたわね。血の繋がりなんてないのよ?他人なの。でも今さらそんなこと他所に知られたらまずいでしょ?本当に、面倒くさいったらありゃしないわ。」  ほんとうの、おとうさんじゃないの?  ほんとうの、おやこじゃないの?  じゃあ、このひとはだれなの?  怖くなって男の中から急いで抜け出す。男の息を飲む音が背後で聞こえた。なんだか得体の知れないものに見えて、ソファーの裏に隠れる。男が近付いてくるのが分かった。 「奏ッ...。」  やめて、やめて、やめて、こわい、こわい、こわい。 「こっちにこないでッッ!!!!」  伸ばされた腕を、振り払った。  男の瞳から、涙が零れ落ちた。  目の前が真っ暗になる。何も見えない、聞こえない。ここは何処だ。分からない、分からない。当てもなく走る。今のは一体誰の記憶だ。分からない、なんて、嘘だ。分かっているはずだ。これがなんなのか、もう分かっているだろ。自分が、犯した、過去最大の罪を。微かに見えてきたのは先程の男の姿。 【これはお前が生まれてきたことの罪の償いだ。】  違う。そんなこと言わせたくなかった。そんなことさせたくなかった。男へ手を伸ばすも煙のように消えてしまった。  再び訪れる黒い空間。何処に行ってしまったんだ、追いかけないと。焦る気持ちが足をもたつかせる。走って、走って、息が切れてもひたすら走り続けた。視界の隅に光が見えた。とても美しい、なにか。そこから声が聞こえる。 『こちらへ来なさい。さあ、早く起きるのです。皆が貴方を待っております。起きて、貴方のその想いを言葉にして、あの者へ伝えてきなさい。約束ですよ。私は、あの者を赦すつもりはなかったのだけれど、貴方が前へ歩めるのなら、それが良いのでしょう。きっと、素敵な未来がその先にあります。私の愛し子よ、幸せにおなりなさい。』  それへ手を伸ばすと、温かいものに触れた。柔らかなそれは、何度も触れたことがあるような気がする。周囲が明るく染まっていく。そうだ、帰らなければ、起きなければ。目を閉じた時、それがもう一言付け加えた。 『あの生意気小僧は認めないから。』 「え...?」  目を開けると白い天井。腕には点滴が刺さっていて、ボロボロと涙を落としながら、冬木がこちらを覗いている。この光景は何度目だろうか。冬木には心配を掛けまくって本当に申し訳ない。そんな気持ちもこめて、掠れた声で言う。 「た、だいま...。」  更に落ちてくる涙を受け止めていると、顔をくしゃくしゃにした彼の鼻声が返ってくる。 「おかえりぃ...かなで。」  ナースコールが押されて訪れた医者と看護士に囲まれ、軽く検査が行われた。ナイフで腹部を刺され、かなりの量の出血をしたが内臓は奇跡的に傷ついておらず、一命は取り留めたこと、暫くの間は安静にするようにと説明された。また入院である。3日ほど目を覚まさなかったらしく、前回ほどではないにしても体力は落ちてしまい、少し疲れた。冬木からは父が警察に逮捕されたと告げられた。それは仕方がない。人を、刺してしまったのだから。父に、刺させてしまった。冬木が傷に触らないように気を付けながら抱き締めてくれる。 「奏、もう、大丈夫だよ。怖いことも、辛いことも、本当に終わったんだ。大丈夫。だから、痛いところ、ちゃんと言って、教えて。我慢しないで。」  震える手で冬木にすがり付く。痛いところ、 「い、たい、ぃたい。痛い、痛い。お腹が、痛くてッ」 「うん...。」 「ずっと、ずっと、からッだ、いたくて...。」 「うん...。」 「からだ、もッ。ここ、もッ、すごくッッ、いたぃ。痛いッッ!」  トンッと自分の胸を指す。 「いたかった、い"だがっだぁ゛。」 「うんッッ...。」  目から零れる涙は止まることを知らない。 「お゛れ゛ぇ゛、まぢがってたぁ。...っ...。お、れぇ、とうさ、んに、ひどぃごどッッ、したぁ!」 「うん...。」 「おれが、いちばん、はじめッに、どぉさんのッこと、ぅ、ッッ...、き、きずづ、けてッッ。」 「うん。」 「あいして、ッッく、れていた、のにッッ!!」 「そっかぁ...。」 「お、れ。とぉさッんの、こと...。うぅッッ...、きょぜつしぢゃっだあ゛ぁ゛...ッッ!。あ゛あ゛ぁ゛ぁッッ゛!!...ッ!」 「うんッ。」 「とうさんに、あ゛ぃ゛たい゛。」 「うん...。」 「あいだい、ッッ...。ぅッ、会いたいぃ゛。会ってッッ、謝り、たいッ!」 「お父さんに、謝りたい?」 「う゛ん゛、ッッ、ごめんな、さいッッて。俺、とうさんのこと、傷付けてッごめんなさいってッッ!傷付け、させて...ごめんな゛さい゛ッッて...!」 「そうか...。」 「もう、いちどぉ......、なまえッ、ぅッ...呼んでほしぃ。」 「うん。」 「もう、一度、やり直したいッッ!!あいしてるってッッ、伝え、たいッッ!」 「うん...。」 「こん、どはッッ、ちゃんと...。親子にッ、なりだい゛ッッ!!」 「そうだね...。ちゃんと、向き合おう。お互い、前へ進めるように。きっと、大丈夫だよ。」  泣き疲れて眠りにつくまで、ひたすらに自分の想いをぶつけ続けた。  病院の正面玄関から出ると夏の暑さが襲ってくる。入院中はずっと冷房の効いた場所に居たため、モワッとしたこの熱気に身体が慣れない。外に出てほんの僅かだと言うのにもう汗が出てくる。  結局夏休みの大半が、夏原達と遊ぶ約束を果たせず、ずっと病院のなかで過ごすことになってしまった。それでも、限られた時間のなかお見舞いに来てくれた皆には感謝しきれない。おかげで退屈せずに済んだ。  夏原にはいつぞやのブサ猫をプレゼントされた。センスはどうかと思うが、触り心地は非常に良かった。つい撫でてしまう。ただ、夜に目を覚ますと、近くにあるその猫にビビって飛び起きてしまい、傷が痛むのが難点だ。その顔どうにかならないのか。不敵な笑みをやめろ。怖いわ。 「いやぁ、ほんと暑いねぇ。熱中症にならないように水分はこまめに取ろうね。」  冬木がそう言いながら俺の頭に帽子を被せた。ジリジリと焼けるような暑さがほんの気持ち程安らぐ。彼はそのまま俺の手を取るとゆっくりと駐車場へ歩き出す。退院したとは言え、激しい運動は控えるようにと医者から言われている。時間を掛けてたどり着いた車には前座席に冬木の両親が乗っていた。車のドアを開けるとひんやりとした空気が中から漏れてきた。 「迎えに来てくれて、本当にありがとうございます。」 「良いのよ、退院おめでとう。これ、家で作ってきたおにぎり、向こうに着く前に食べちゃいなさい。たぶん、話している間にお昼過ぎちゃうと思うし。藍の分もあるから、それぞれ好きなの選んで食べて。中身は鮭に昆布に梅干し、明太子、ツナマヨね。よく噛んで食べるのよ。」  もう一度感謝を述べておにぎりの入った袋を受け取る。中からツナマヨを取り出して食べる。やはり彼女の作るご飯はどんなものでも美味しい。今度料理を教えてもらおう。食べながら移り変わっていく窓の外の景色を眺める。  退院した今日、あの日から一度も会っていない父の元へ行くことになった。父は現在刑務所に居る。あれから裁判が行われ、懲役15年となった。犯してしまった罪を取り消すことはできない。過去は変えられない。それは俺も同じだ。それでも、父も俺も、前へ進まなければいけない。今度こそ"彼の"息子として、向き合うんだ。初めての親孝行がこんな形になるとは。緊張からか、やけに喉が渇く。美智子さんからもらったペットボトルの蓋を開け、水を一気に飲む。冬木が手を重ねてきた。 「大丈夫?」  いつもは安心させてくれるその言葉が、今日は不安気に問われた。だから、今度は自分が冬木を安心させるように、笑顔で返す。 「うん、大丈夫。ちゃんと話してくる。約束したから。」  冬木が誰と約束したのかと不思議そうに聞いてくる。あれ、そう言えば、誰と約束したんだっけか。明るくて、暖かい、美しい、何だったか。夢の中で交わしたその約束はしっかりと覚えているのに、声が、姿が、思い出せない。でも何故か不安も怖さもなかった。いつかきっと、思い出せるだろう。  父が居る刑務所に着くと、受付までは冬木が着いてきてくれた。面会室へ案内される。ここからは一人だ。面会室の扉が開かれると見えてきたのは、アクリル板で仕切られた机とそれぞれの椅子。父はこれから来るそうだ。小さな部屋に足を踏み込み、用意された椅子へ座る。ドキドキとうるさい心臓を深呼吸をすることで落ち着かせる。冷たくなってきた手を擦り合わせる。  ガチャリと向こう側の扉が開かれる音がして、そこへ顔を向ける。ゆっくりと入ってきたのはあの日から更に痩せた父だ。細くなった腕、隈の出来た目元、伸びた髭、ボサボサの髪、驚くほど変わった父の姿に目を見開くと、向こうも同じ顔をしていた。父の口が動く。かなで、音は聞こえなくても確かに父はそう言った。もう一度呼んでくれた、俺の名前。だから、俺は精一杯の笑顔で返す。 「久しぶり、父さん。」  なんで、と小さな声が聞こえた。ヨタヨタとおぼつかない足取りで目の前の椅子に座った父の瞳をじっと見つめる。まるで迷子の子供の様に揺れる瞳に、胸の奥が暖かいもので溢れる。 「今日は、父さんに謝りに来たんだ。」 「どうして、お前が謝るんだッ。」  父の顔がくしゃりと歪む。 「俺、父さんのこと憎んだ。痛いことばっかりして、辛くて。でも、俺が母と別の男との子供で、学校でいじめをして、父さんの地位を汚したから、仕方がないんだって、その罪を、罰を受け止めるしかないんだって。」 「......。」  父が顔を俯かせた。震えているのが見える。 「でも、違った。痛くて、痛くて辛かったけど、初めに痛いことしたのは、傷つけたのは、俺だった。」  はっと顔を上げた父は遥か遠い記憶にある、あの日と同じ顔をしている。 「父さん、父さんは俺が自分と血が繋がっていないって知っても、俺のことッ、受け入れようとしてくれたんだよね。俺の、こと...、あ、いしてッくれて...いたんだよねッッ。」 「かなで...ッ。」  膝の上で握りしめた手に、涙が落ちていく。 「おれ、そんなとうさんの、ことッ...。こわいって、おもってッッ。さしのべてくれた、てを、ふりはらったッ。あいして、くれた、あんたをッ...、きょぜつしたッッ!」 「奏ッッ、奏ッ!」 「ごめんなさぃ、ごめッ、なさい。」 「違う、違うんだ、奏。俺が弱かったから、お前にまた、振り払われるッ、くらいならって。また...、拒絶されるのが怖くて、それで傷付くくらいならって...!、自分の気持ちも、お前のことも、見ないふりをしたッ。いつの間にか、それが憎しみに変わってしまって、最低なことをッッ...。」  俺は初めから父親失格だったんだ、と涙をぼろぼろ流しながら話す父。彼が父親失格なら、 「俺だって、息子失格だよ。」  でも、そんなことを言いに来たんじゃない。 「ねえ、父さん。もう一度、名前呼んで。」 「ッッ!!!...、...ぅ...、かな、でッ。かなで、奏ッッ。」 「うんッッ...、父さんッ。」  こんなに話したのも、顔を合わせたのも、名前を呼んでくれたのも、名前を呼んだのも、随分と久しぶりだ。頬を流れる涙を拭う。 「俺、父さんとやり直したい。」 「ッッ!!!」 「今度は間違えないように、ちゃんと向き合って、愛し合いたいッッ!今度こそ、本当のッッ、家族になりたいッッ!!」 「うぅッッ...!ぃ、ッッ...。いぃ、のか...。もう一度、お前のッ、父親になって...、いいのかッ。」  透明な、俺たちを隔てる板へ手を伸ばす。父も同じように手を伸ばしてくる。手のひらが板越しに重なりあう。触れていないはずなのに、重なったところが温かく感じる。 「当たり前だよッ。俺の父さんは、あんたしか居ないんだからッ。」  遠い記憶と変わらない、穏やかな笑顔がそこにある。  俺たち親子は、今日、新たな一歩を踏み出した。  愛のある場所へ。

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