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「ニコの車、かっこいいんだよ」 眠そうにしながら、葵は小さく囁いてくる。どうやら彼は今日ニコラスと過ごせることを楽しみにしているらしい。 「ニコラスさんの車で移動するんですか?」 「多分。ニコとどこかに行くときは、ほとんどそうだったから」 今回のように、馨の秘書であるニコラスが葵の面倒を見る場面は今までにもよくあったようだ。 アメリカでは学校にも通わず、ずっと家で過ごしていたというから、颯斗のような葵付きの使用人は存在せず、ニコラスが兼務していたのかもしれない。 だからこれほど分かりやすく懐いている様子を出しているのだろう。ニコという愛称も葵からの親愛の気持ちが込められているように感じられる。 対して、ニコラスの葵への態度は、丁寧ではあるものの事務的で距離を感じる。だが、二人きりの時は、こうして颯斗にするようなスキンシップが交わされているのかもしれない。そう考えると、先ほどまでとは違う苦しさが込み上げる。 ふわふわと鼻先を掠める甘い香り。颯斗が纏う詰襟の袖口を緩く摘んでくる指先。そして肩口から伝わる体温。肌に直接触れてなどいないというのに、意識の全てが葵に奪われていく。 「颯斗」 ダメ押しのように名を呼ばれ、耳まで彼の声に侵される。 葵に肩を貸しているから体を動かすことは出来ない。視線だけを投げれば、長い睫毛に縁取られた瞳がこちらを見上げていた。でもそれ以上言葉が紡がれることはなかった。 何を言いたかったのだろう。 葵とは必要以上に関わるつもりはなかった。颯斗はまだ自分が藤沢家に仕えることに納得はしていないし、期間限定の付き合いで済ませる意思があったからだ。 でも今、葵の気持ちが知りたい。何を考えているのか。颯斗に何を伝えたいのか。来週約束を交わした初めてのランチで、その答えが少しでも分かればいいと思う。 窓の外が段々と学校近くの風景に移り変わっていく。だから葵がつかの間の眠りから覚め、颯斗から離れてしまうまであと少し。 最後の信号が赤であることを、颯斗は密かに願ってしまっていた。

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