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「アメリカでの話だが、当時の運転手が葵様を攫おうとしたことがあった。もちろん、性的な暴行を加える目的で。だから馨様はよほど信頼の置ける人間でないと、葵様と二人きりにはしたがらない」
意外な答えだったのだろう。颯斗からは息を飲む音が聞こえただけで、言葉は返ってこなかった。
「未遂では終わったが、運転手には重い罰が下された。具体的にどんな目に遭ったか聞きたいならば教えるが、まぁ知らないほうがいい」
前を走る車がスピードを落としたのに合わせ、ニコラスもゆっくりとブレーキペダルを踏み込む。少し脅すだけのつもりだったが、颯斗はこちらが思った以上に青い顔をしていた。
「……もしも、未遂で終わらなかったら、どうなるんですか?」
「まさか、葵様に何かしたのか?馨様に言うまでもない。殺すぞ」
「や、ちがいます、例えばの話です。何にもしてません」
横顔を覗き見るのも精一杯の様子だった。本当に何事も起きていないとは思うが、万が一、付き人が許される以上の接触をしていたならば。そう考えるだけで、感情が振り切れる。
颯斗だけではない。もしも馨以外の誰かが葵に触れていて、それが馨に知れ渡った時、葵は間違いなく無事では済まない。
運転手が起こした事件の時も、葵には何の咎もないというのに、肌に触れられたことをひどく叱られ、数日に渡って罰を与えられていた。
ようやく馨の機嫌が直った後、葵を介抱したのはニコラス。直視できないほど衰弱した葵の姿を、もう二度と見たくない。
でもそこまで考えて、ニコラスは先日もたらされた馨からの提案を思い出した。
“ニック、葵を抱いてみる?”
甘い声音で囁かれた悪魔のような誘い。馨は自分以外に抱かれる葵の姿に興味を湧かせているらしい。
当然そんな誘いは断固として断るつもりだ。でも、馨のことだ。頑なな態度を取り続けるニコラスを諦め、身近な颯斗を相手役に選ぶかもしれない。
「これは忠告だ。葵様におかしな願望を抱くなよ。絶対に」
高校生相手にどれほど効力があるかは分からない。少なからず葵に好意を抱き始めた様子の颯斗ならば、馨の甘言に絆され、葵の肌に触れてしまう可能性もある。
でもその後、馨が颯斗を始末することだって十分に有り得る。主人は気まぐれで、そしてとびきり危険な男なのだ。
「葵様のためにも」
颯斗がいなくなれば、葵も傷付くことになる。
ニコラスが今の立場になった時、葵は前任者のことを恋しがって、馨の目を盗んでは泣きじゃくっていた。今でもきっと、誰の目も届かぬところで涙を流していると思う。
生まれた時から面倒を見ていたという前任者は、馨が葵に施す性的な悪戯が度を超え、調教に至ったことを受け、一か八かの行動に出たようだった。そしてそれは失敗した。
馨も彼を可愛がっていたおかげか、遠ざけられるだけで処分は済んだようだけれど、葵にとっては辛すぎる別れだっただろう。
だからニコラスは、葵に手を差し伸べずとも、離れることもしない道を選んだ。葵をあんな風に絶望させ、孤独の底に突き落とす真似はしたくない。
葵に小さな悲しみを与え続けてはいるけれど、それでも目に見える場所には居てやれる。それが葵にしてやれる一番の選択なのだと、ニコラスは信じていた。
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