1 / 32
第1話-①
暗闇の中、ゆっくりと規則的な機械音が鳴り続ける。体が重い。痛い、苦しい。助けて、誰か、誰か、誰か……!
高らかに鳴り響く音に混ざり、鈍い音と頭部に伝わった衝撃で将太は思わず声を出した。
「だっ!」
頭を押さえながらゆっくりと体を起こし、音の鳴る方へ手探りで腕を伸ばす。停止ボタンを押したところで将太はようやく目を開けた。
カーテンの隙間からこぼれる朝日。夏の日差しは朝であっても強く差し込む。その眩しい光に目を細め、転げ落ちて打ち付けた頭をさすりながら、溜め息交じりに呟いた。
「朝か……」
顔を洗い、愛用の黒縁メガネをかけて朝日が差し込むベランダを眺める。窓の外の景色は何一つ変わり映えしない。いつもと同じ街並み、いつもと同じ風景。いつものように大学へ通い、講義を受け昼食をとり、授業が終われば本屋に寄り道して帰宅する。それが武藤将太 の日常だ。
しかし、そんな何の変哲もない普通で平凡な日常が、最近、崩れ始めている。
授業終わり、名前を呼ぶ声と共に肩を叩かれた。後ろの席を振り向くと今日もソレは現れた。眼前に漂うその存在に、将太は声を出すのも忘れ固まった。
黒々と人に纏わりついている不気味なモヤ。「昼メシ行こうぜ」と楽しそうに話しかけられたが、申し訳ない。もはや目の前に居るのが誰なのかも判別がつかない。
引きつった笑みを浮かべながら、将太はなるべく冷静を保って言葉を口にした。
「……あー、悪い。俺、昼はちょっと用事あるんだわ」
「そっかー。じゃあまた後でな」
「……おう」
そう言って、モヤにまみれた友人らしき人は教室を出て行く。その姿が見えなくなると将太はようやく緊張から放たれた。思わず安堵の溜め息が出るほどに。
この現象は数日前から起こっている。
どこで何をしていようが関係なく現れる黒いモヤ。先ほどのように人に纏わりついていたり、モヤだけが目の前に現れることもしばしば。とにかく神出鬼没なのだ。
――あぁまただ。
背後に感じる悪寒。将太は街中を行き交う人々に目を配らせた。冷や汗が頬を伝う。足を止め、ゆっくりと後ろを振り向いた。
こんなに黒々としたモヤが現れたら普通は一目で分かるだろう。しかし、どうやらコレは自分以外誰にも見えていないらしい。
覆いかぶさるような動きを見せた黒いモヤ。背筋が凍り、ゾワリと鳥肌が立った。
ヤバい!
頭の中に警鐘が鳴り響く。将太は咄嗟に身を翻すと、地面を蹴って全速力でその場を走り去った。
アパートの階段を駆け上がり、玄関を開けてすぐさま閉める。ドアを背に、上がった息を整えた。無事に逃れたことが確認できると、途端に足の力が抜けて将太はその場にへたり込んだ。
勘弁してくれ。出来ることならもう外に出たくない。けれど、死ぬほど勉強して念願の入学を果たした大学なのだ。授業にはちゃんと出席したい。
そんな思いもあり、将太は黒いモヤに怯えながら翌日も大学に向かっていた。
電車を降りて徒歩15分。大通りに沿って進むと街の一角に将太が通う大学がそびえ立っている。1限目の授業に出席する時はどうしても通勤通学の時間と被ってしまい、人混みは避けられない。
人混みは苦手だ。最近は特にそう思うようになった。行き交う人の隙間から黒いモヤが突然現れるかもしれない。全身モヤに包まれた人を見るのも怖くて堪らない。いつまたヤツに遭遇するか。そんなことを思ってしまい気が滅入るのだ。
その時、よそ見をしていたせいか、通行人と肩が当たってしまった。
「あ、すみません」
咄嗟に謝罪の声をかけ、将太は再び歩みを進めた。
「待って!」
しかし、その声と同時に腕を掴まれ、将太の足は制止を余儀なくされた。
「僕が見えるの!?」
「え?」
振り向くと、少年……いや青年と言う方がいいだろうか、同じくらいの背丈の男の子が真ん丸とした目を見開き、大きく口を開けてこちらを見ている。外側に跳ねた茶色い髪を揺らして、ずいっと体を寄せてきた。両手で将太の手を握り、瞳を一層輝かせ嬉しそうに詰め寄ってくる。
「僕が見えるんだね!?」
「は?誰!?」
いきなり何なのだ。「僕が見えるの?」なんて、初対面で交わす言葉ではないだろう。
「すみません!俺急いでるんで!」
「あっ」
変なことに巻き込まれる前に退散しよう。将太はそう思い、手を振り解くと逃げるように背を向けて大学へ向かった。
ともだちにシェアしよう!