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第1話-②
専攻している学科で一番好きな授業は歴史学だ。文献や資料を基に話す教授の考察はいつも面白い。週に1度しかない貴重な授業なので毎週楽しみにしている。今日は1限目がその授業なのだ。
「ねぇねぇ」
コソコソ話か。授業中は静かにしてほしい。話がしたいのなら外に行ってやってくれ。よりにもよって一番楽しみにしている授業でそういうことをされると癇に障る。周りにも迷惑だと思わないのだろうか。しかし、だからと言って自分に注意する勇気はない。我慢をして、事が過ぎるのをじっと待つ。揉め事やトラブルは極力避けて生きていきたいのだ。人に干渉せず、ただ笑顔を見せてやり過ごす。事なかれ主義というやつだ。いや、自分の場合はただの意気地なしというだけか。
脳裏に浮かぶのは、幼い頃から冷たい態度しか見せてこなかった父親の姿。そして棚に飾られた母親の写真。
母親のことは全く知らない。出産してすぐ他界したと聞かされた。父親は仕事が忙しく、スーツ姿しか見たことがない。収入はそれなりにあったらしく、毎日世話をしてくれたのはベビーシッターや保育サポーターといった訪問サービスの女性たちだった。
義務教育を経て、高校にも進学させてもらえたが、実の息子に関心は無いのだろう。テーブルに置かれた毎日の食費。誕生日やクリスマス、そういう子供にとって特別な日にすら、ただテーブルに現金が置いてあるだけだった。
こういう時、子供は反抗的になって親に文句の一つでも言うのだろう。けれど、自分はそういうことはしなかった。何故か。なんてことはない、ただ怖かったのだ。あの冷たい背中、冷たい目と向き合うのが。怖かったのだ、愛情を確かめることが。
この大学を選んだ理由は二つある。ここでしか学べない教授の授業が受けられるから。もう一つは、あの冷たい家から出たかったから。つまり、半分は逃げてきたようなものだ。と言いつつ、大学の学費や生活費、アパートの賃貸契約諸々、父親の手を借りなければどうすることもできない自分が情けない。
「ねぇねぇ」
コソコソ話はまだ続いていた。いい加減その口を閉じてくれないだろうか。ちらりと隣に視線を向けた。階段状に連なっている固定式の机と椅子。しかしそこには誰も座っていない。前に座っている女子生徒だろうか。いやしかし、聞こえたのは男性の声だった。おかしいなと首を傾げると再び声がする。この声は一体どこから聞こえているのだ。
「ここだよ、ここ」
耳を澄ませると足元から聞こえた気がした。聞き間違えか?そう思いながらも、そっと机の下を覗いてみた。なんと、そこには一人の青年が居るではないか。外に跳ねた茶色い髪、ぱっちりと開いた真ん丸の瞳。男の股の下から顔を覗かせて、嬉しそうな笑顔をこちらに向けている。
「うわああああああああ!!」
さすがに声を出さずにはいられなかった。色んな意味で。
突然の大声に、一同の視線が将太に集まる。
「す、すみません……」
何なんだこいつは。というかいつから居たのだ。全く気付かなかった。
動揺する将太に構わず、青年は体を軽く捻り机の下から出てくるとふわりと机の上に座った。そして体を突き出し、将太に顔を寄せて問いかけた。
「ねぇ、僕のこと見えてるんでしょ?」
またわけのわからないことを言っている。教授の授業を中断させて迷惑行為もいいところだ。
「お、おい。そんな所に座るな。授業妨害するつもりか」
すると青年は丸い目を細め、謎めいた笑みを浮かべて返した。
「気にしなくても大丈夫だよ。僕の姿は他の人には見えていないから」
視線を教室内に向けると、何もなかったかのように授業が続けられていた。大胆に机の上に座っている奴がいるのに、誰か一人くらい注意する人はいないのか。大体、真面目で厳しい教授が見て見ぬふりをするわけがない。なのに、教授も生徒も、こちらを気にする素振りを一切見せない。そんな、まさか本当に誰にも見えていないのか。
将太はもう一度、ゆっくりと視線を戻した。目の前に居るのはニコニコと笑顔を見せる青年。そして将太は決めた。コイツの姿は見なかったことにしようと。
それからはひたすら無視をした。昼食をとっている時に現れ、トイレに入っている時に現れ、構内を歩いている時、教室の移動中、広間、講堂、エントランス、売店、行くところ行くところ顔を出しては現れ、声をかけてくる。
無視だ、無視をするのだ。関わってはいけない。無視し続けるのだ。無視、無視、無視、無視!
「ねぇ!」
本日もう何度目だろうか。青年は変わらぬ笑顔を携えて将太の目の前に現れる。
無……無理!
涙目で猛ダッシュした。もう無理だ。無視するのももう無理だ、耐えられない。
自宅アパートに辿り着くと急いで玄関を閉め鍵をかけた。呼吸を乱しながら息絶え絶えに様子を伺う。ようやく奴を撒けただろうか。
「おじゃまします!」
「ぎゃああああああああ!!」
青年は玄関ドアをすり抜け難なく家に入ってきた。こんなのどう足掻いても無理じゃないか。将太は肩を落とし、膝から崩れ落ちた。
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