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第30話

 莉音は平行に広げた両腕を使って見本を示した。今は煩悩禁止、と自分を戒めるはしから、もぎたてのサクランボのように(みず)やかな唇をきゅっと嚙んで考え込むさまに視線を吸い寄せられて仕方がない。  秀帆は自宅で問題集に取り組んでいるときも、きっと口を真一文字に結んで集中力を高めるのだろう。机に向か場面が空想の域を超えてくっきりした像を結ぶと、最前までとは打って変わって幸福物質が分泌される。  分泌されたにとどまらず、燃料を補給されて想像力が暴走しはじめた。性的なものに一切興味がないアセクシュアルといえども自然の欲求には抗えないだろう。勃った、じゃあ射精()しておこうか、と排泄する感覚でしごくさいには唇を嚙みしめて自分を焦らす……? 「ん、ぎゅあ、うあああああっ!」  崩れ落ちるように、うずくまった。目を丸くする秀帆の足下ににじり寄り、 「ちょっと、おれを殴ってくれませんか」 「謹んでお断りします」 「懲らしめてもらわないとヤバいんで」  せがんで、頬を突き出す。それでいて拳が降りあげられると反射的に目をつぶり、その直後、形ばかりのデコぴんを食らった。 「それって、なんのプレイ? うちら、のけ者感がすごいんですけど」  三人組がにやにやと拗ねてみせ、 「きみたちも出席率がアップすると僕らのノリについてこられるよ」  秀帆は澄まして眼鏡を押しあげる。  莉音は、あえかな指の感触を恋うて額を押さえた。片恋という密林をさ迷い歩いている身には廊下ですれ違った程度のささやかなものでも、想い人に関するすべての出来事が宝石の輝きを放つ。  切なさが精神(こころ)を蝕む夜は思い出の保管庫から取りだしたエピソードを(ひもと)いて、気持ちを奮い立たせるのだ。  衣装作りにキリがついたところで三人組が下校すると、シーズンオフの海水浴場めいた空気が流れた。莉音は机に突っ伏した。  ──やっと、ふたりきりになれましたね、ふっふっふっ……。  などと、ふざけるふりで秀帆に抱きついていける性格なら苦労はしなかった、と思う。もっと人生経験を積めば、  ──先輩と一緒にあれこれする部活は、おれにとってまぎれもない逢瀬です。  事によると冗談めかして告げるといった芸当だってやってのけるに違いないのに現実は厳しい。  ため息をつき、糸切り鋏を使って(おくみ)の縫い目をちまちまと切っていく。黄昏時の魔力だ。吹奏楽部が奏でる『新世界より』が風に乗って運ばれてくると、郷愁を誘う調べも相まって瞳が翳る。蛇口のパッキンがゆるんだように、鎖しそこねた唇のあわいから、ぽつりとこぼれ落ちた。

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