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第50話

 三神は乱調子で遠ざかっていく足音に耳をそばだてた。ややあって忍びやかな足音が近づいてきたかと思えば遠のくさまに、縮みあがった。莉音がいったん戻ってきて、去っていったのだ。そうと察して胸に鋭い痛みを覚えた。  ひっくり返って糊入りの水をぶちまけたバケツ、ベニヤ板の上に捨て置かれた浴衣地。それらに責められているようで、呻いた。 「あいつ、激ニブだからってぐいぐい行きすぎた、失敗した……」  自分で自分の頭をぶん殴って、大の字に寝転がった。そして、あえかに残る感触を愛おしむような指づかいで唇を撫でた。  その夜、莉音は一向に寝つけないなかで切望した。秀帆のこと以外のことになんか、これっぽっちも囚われたくない。(かえ)る見込みがない卵を温めつづけるように、報われる当てのない恋心を慈しんでいたい。  先輩、と最強の呪文を唱えると微睡みにいざなわれ、そのそばからフラッシュバックに襲われる。シェルターに避難するようにタオルケットを引っかぶると、かえって屋上のひと幕が鮮明に甦る。  先約がある云々はプライドにかかわる問題で、だから三神は豹変したのだろうか。先輩に対抗意識を燃やした面があった? 仮に先約の主が木崎や須藤だった場合も、あくどいやり方で服従を強いるような振る舞いにおよんだだろうか。  枕元からスマートフォンを摑み取った。土下座ポーズのスタンプなりとLINEしてくるのが礼儀だろう、とホーム画面を睨む。既読スルーを貫くに違いなくても、ほっかむりを決め込まれると癪にさわってたまらない。  と、が変なふうに疼いた。怒りがぶり返すとスイッチが入る仕組みになっていたように。  腰がもぞつき、タオルケットの中でいっそう丸まった。ひとりエッチの目的は、ひとえにすっきりすることでオーソドックスな手法に留まる。後ろをいじる必要性を感じないというより、その段階に進むのは単純にためらわれて、試してみようともしなかった。  だが三神が、禁断の扉の鍵穴に鍵を差し込むようなことをしてくれた──。  喉仏が上下する。パジャマ代わりのハーフパンツをずり下ろし、ハッとして、すぐさまずり上げた。  花火大会の当日、秀帆と乗換駅で待ち合わせていた。伝言板があるところだ。先に着き、習慣的に確かめにいくと、これまでのものとは傾向の異なるメッセージが伝言板の濃緑色を背景に鮮烈に白い。 〝罪滅ぼしに何をすれば赦しを請える〟。  懺悔しているみたいだ。莉音はそう思ってチョーク入れを開けた。仮称Xも人間関係がこじれて悩んでいるのだとしたら、ささやかながら参考意見をひとつ。 〝ひたすら謝る、謝りたおしたあとは最高の笑顔付きで今までどおり接するのがベター〟。  助言の形をとって、ぜひとも三神にそうしてほしいことを書き綴っているうちに、指先に力が入ってチョークをへし折ってしまった。あいつは罪滅ぼしなんて殊勝な態度に出るどころか、陵辱未遂の一件以来、ウンともスンとも言ってよこさないままだ。  怒りが再燃しても秀帆がやってくれば、たちまち鎮火する。恋の力は偉大だ、と考えると照れ笑いがにじみ、三神の面影もろともチョークの粉を払った。

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