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第49話

 雨がそぼ降るなかで少しかさついたこの唇が、ドサクサまぎれにちょろまかす真似をやらかしてくれたことがあったような……。記憶の断片はするりと逃げた。代わって莉音は、努めてせせら笑ってみせた。 「どこでもサカるとか猿並み、それも原猿のほうな。みっともねえの」 「わざと抵抗して、そそってくるのはそっちだろうが」 「寝言こきまくって変な虫でも涌いてない」  バトルはバトルでも、校庭を舞台にしたものは健全だ。サッカー部が紅白に分かれて熱戦を繰り広げる。  ホイッスルが吹き鳴らされて、三神の注意が一瞬逸れた。拘束がわずかにゆるんだ。今だ! (いわお)さながらの躰を力いっぱい突きのけざま傍らをすり抜ける。階段室に飛び込み、二段抜かしで駆け下りる。  踊り場に達し、加速がつきすぎて足がもつれた。手すりにしがみついて踏みこたえるはしから膝ががくがくと震える。 「マッ、マジにビビったあ……」  冷たい汗と脂汗のダブルで全身がぬらつく。命からがら、魔界から逃げ出してきた思いで屋上に通じる扉を振り仰ぐと、天井も床も傾いて見えた。  眩暈に襲われてまっすぐ立っていられない。もっと遠くへ、もっと急いで逃げないと、あの扉が今にも開いて、三神がおれをつれ戻しにくるかもしれない。あいつは欲情していた。捕まったが最後、今度こそいきり立ったペニスをねじ込まれてしまうかもしれない。  焦る心と裏腹、へっぴり腰で一階にたどり着いた。そこでヘマをやらかしたことに気づいて、へたり込んだ。  浴衣地を置き忘れてきた。回収してこないと、だが今すぐ取りにいくということは、腹ペコのライオンが待ち受ける檻に飛び込むも同然だ。  ひとまず図書室あたりで時間をつぶそう。そう思って立ちあがったとたん、すとんと階段に腰かけていた。後ろをまさぐられたのは自覚している以上にショッキングな出来事で、 それが信号の伝達に影響をおよぼした。 「三神のアホ、バカちん……」  シャツの一番下のボタンが取れかかっているわ、荒っぽく手首を摑まれた痕が鬱血しているわ。花火大会に一緒に行くのを断ったくらいのことでキレられて、いい迷惑だ。  ボタンをむしり取った拍子に、涙がひと粒階段にしたたり落ちた。ひょんなことから普通のクラスメイトの線を越えた三神がレイプ魔予備軍だったなんて、詐欺に遭った気分だ。瞳が潤むのは悲しいせいじゃない、これはくやし涙だ。一風変わった友情をぶち壊されて腹が立つのだ。  跳ね起きて何段か駆け戻った。そっちが来ないなら、こちらから屋上へ行って、 「ゲス野郎、絶交だ、二度と近寄るな!」  啖呵を切ってやる。鼻息も荒く鉄扉の前まで引き返し、ノブを摑んだところで固まった。  そもそも、おれに三神をなじる資格があるのか? 恋の病を患って久しい身にとって、ガス抜きにつき合ってくれる存在は貴重だ。  からかったり、皮肉ったり、とカチンとくる扱いを受けることがあっても、三神が愚痴につき合ってくれるおかげで心が浄化された──。  甘えた罰が当たったのだ。手首の痣をひと撫でして、とぼとぼと折り返す。  そのころ鉄扉の向こう側で、苦いため息が蝉の抜け殻を吹きやったことなど想像だにしなかった。

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