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プロローグ𓂃꙳⋆

 縦横無尽に蔦が這い回ったコンクリート風の壁は、そこかしこが経年劣化により傷み剥がれ落ちている。  佇まいはどこかどんよりとした雰囲気で、手入れが行き届いていない鬱蒼とした木々の奥にあるそれは、一度の天災で脆くも崩れ落ちてしまいそうな築三十年はくだらないニ階建てのボロアパート。  住宅街から外れ、外灯も少なく、近辺の人間関係の薄さを表すかのような寂れた場所に、たとえこんな声が響いていたとしても誰もが見て見ぬふりをする。 「ママ許して! ご、ごめんなさい! うっ、……ごめんなさい! ママっ、熱いよ! 痛いよ……っ!」  泣きじゃくる幼子の声は、そのアパートに住まう最後の住民となった老夫婦を叩き起こすほどのひっ迫さで、斜め下の砂壁を容易にすり抜けた。  二十三時過ぎに響き渡るには、あまりにも悲痛な声だ。  しかし、飛び起きた老夫婦も、微かに漏れ聞こえたはずの通りすがりのサラリーマンも、誰もが厄介事は御免だとばかりに耳を塞ぎ知らん顔をした。 「うるせぇ黙れ! 泣くな!」 「痛いっ! 痛いよママ! パパ……っ、助けて!」 「うるせぇって言ってんだろ!」  痩せた細い腕に煙草の火を押し当て、こけた頬に平手打ちをしてがなるのは、幼子の母親である。  それをただ見ているだけの父親は、仏頂面で背を向け、何もしない。母親のように子を痛めつけはしないが、助けもしない。  生まれ落ちて七年目にして三つ目の根性焼きにのたうち回る子の姿を、ただただ冷めた瞳でチラと見やるだけ。 「ママ……っ、ママ……っ」 「うるせぇ! ママなんて呼ぶな! お前はあたしの子じゃないんだよ!」 「……うぅっ……!」  人肌が焦げる激臭に、たまらず嘔吐く。腕をもいでやりたいと思うほど熱く、逃れられない痛みに畳の上を転がり回った。  だがそれよりも痛かったのは、外見を小綺麗に繕った母親の罵詈雑言。項垂れて息を吐く子の小さな心に、それは無数の切り傷を生んだ。  悲しむ間もなく、続けざまにバシッ、バシッと力いっぱい平手打ちされた頬が、燃えるように熱かった。熱くて熱くて、腕にも頬にも触れられず、深爪した短い指先で汚れた畳を掻く事しか出来ない。  見るに耐えないおぞましい表情をした母親は、気が済んだのかドスドスと派手な足音を立て、子のそばから離れてゆく。  知らん顔で煙草を吹かしていた父親はというと、子に一瞥のみ向け、浴槽の無い風呂場へ妻を追った。  ホッと安堵した気持ちと、二人ともに背を向けられた寂しさの両方が同時に、傷だらけの心を襲う。 「……ママ……パパ……」  しゃがれた声で切なく両親を呼ぶ子に、追い縋る気力も体力も残っていなかった。  行ってもまた、叩かれる。新しい煙草に火をつけて、腹いせのようにそれを腕に押し当てられる。とても、「お腹が空いた」とは言えなかった。  今日は特に、機嫌が悪い。  扉の外から聞こえていた階段を上る足音が、すでにそれを物語っていた。  恐怖だった。  出来るだけ姿を見せないでいようとしたけれど、ガラクタが敷き詰められた押し入れ、狭い二間とゴミに埋もれた台所、汚れたトイレと隙間風が冷たい風呂場しかない部屋に、子が身を隠すスペースは無かった。  十二月の終わり、内外関係なく凍えるような寒さに震えていたところ、鬼の形相の母親から憂さ晴らしのターゲットにされたその子は、何もかもから逃れるように気を失った。  電気代が勿体無いからと暗闇を強いられ、唇の皮を食べて空腹を凌ぎ両親を待っていた子に、いったい何が出来ただろうか。  今日こそは抱きしめてくれるかもしれない。  今日こそは温かいご飯をお腹いっぱい食べさせてくれるかもしれない。  今日こそは優しく穏やかな声で「冬季」と呼んでくれるかもしれない。  今日こそは……──。  両親の異常さも、極貧の暮らしも、小さな体に痛々しく残るいくつもの痣も、何もかもが普通でないということさえ分からない年齢だった。  ただひたすら、縋りたくても縋れなかった者達へ無謀な望みをかけた。  毎日、毎日、期待していたのだ。  今日が終われば明日がくる。  明日はきっと、愛してくれる──と。

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