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2.出会った二人は4
あまりにもさらりと言い放たれ、俺の脳が数秒は停止した。
今ばかりは、普段から恐ろしい形相の父の顔を凝視し、咄嗟に別の回路が働く。
あぁ、皺が増えたな。髪はフサフサだけれどこんなに白髪まみれだったっけ。昔はもっと体も大きかったはず……。
父の言葉をすぐには理解出来ず、俺はただ立ち竦んでどうでもいいことを考えていた。
目の前で憮然としている父は、あまりに俺が見つめるからか不快だと言いたげに目を背ける。
それでも俺は、明日の予定を尋ねるような気軽さで放った父から目が離せなかった。
〝お前の母親が死んだ〟
今までで一番インパクトのある嫌味だ。
そう捉えてしまうほど非現実的で、思いもよらない衝撃的な一言だった。
「……すみません、……今、なんと……?」
「お前の母親が死んだ、と言ったんだ。聞こえなかったのか。耳鼻科へ行け」
「…………」
要らぬ助言だ。一言一句、聞こえていた。
ただ理解が追いつかないだけで、それは真実なのかと問い返したまでだ。
俺を産んですぐ行方をくらました実母に、なんの思い入れもありはしない。よりによってなぜこの家に置いていったんだという怒りこそあれど、顔も分からない者に対する恋しさの記憶さえ、過去をどれだけ探したって見つからない。
「ここだ」
デスクの引き出しを開けた父が、何かが走り書きされたメモ用紙を机上に放った。
「ここの無縁墓地に無縁仏として埋葬させた。アイツは身寄りが無かったからな」
「無縁仏っ?」
嫌々数歩進み、デスク上のメモ用紙をつまみ上げると、さらにとんでもないことを聞かされた。
……何を言っているんだ、この人は。
身寄りなら俺がいるだろう。戸籍上では俺が息子ということになっているはずで、となるとどこかから連絡を受けたらしい父は勝手に、母の遺骨を引き取らない意思を示した。
事後報告で、尚且つ無縁仏として埋葬するとはあんまりだ……と、微かな情を湧かせてしまった俺の心中を見破った父が、得意の嘲笑を見せた。
「なんだ? お前が引き取りたかったか?」
「い、いえ……」
「まったく最期まで迷惑をかけおって。私に供養してもらえるとでも思っていたのかね。卑しい女だ」
「…………」
……かわいそうな母。死んでも悪口を言われている。
血の繋がらない義母からのイビりは、百歩譲って理解は出来る。しかし父と俺は、一応は実の親子だ。その息子に現在までツラくあたるほど、母は父に対しいったいどんな不義理をしたのか。
長年に渡ってこれほど母や俺を忌み嫌うとは、やはり相当な訳があったのだ。
とはいえ突然のことで驚愕はしたが、俺は母が死んだと聞かされても悲しい気持ちにはならなかった。いつ、どこで、どんな病気で、どんな最期を迎えたのか──少しも気にならなかった。
奇しくも、俺の不義理な質は母譲りなのかもしれない。
「今日お前を呼び出したのは他でもない。取り立てる相手が居なくなったのでな、息子のお前に請求するのが妥当だろう」
そう言って次は、クリップで留められた書類の束を差し出された。
今度は何なんだ。取り立てる? ……請求?
書類を目視するも小さな文字で難しい言葉が羅列してあり、パッと見では何が書いてあるのかよく分からなかった。だが、一枚目の右上に書かれた母のものと思しき女性の名前にはすぐに目が行った。俺はこの時初めて、母の名を知った。
そしてその直後、うんざりといった声色で「最期まで迷惑をかける」と言った父の言葉の意味を、嫌でも悟ることになる。
「お前の母親は私の口座から一千万円を持ち出して逃げた。無断で、だ。その金をお前に返してもらう。個人間の借金も相続人に引き継がれるからな」
「い、一千万ですか!? そんな大金すぐには用意できません! しかも俺が相続人だなんて……っ」
「誰がすぐにと言った。くだらん歯科医院開業の資金を返済している身のお前に、そこまで期待しておらん」
「…………!」
くだらない歯科医院だと! 殺伐としたこことは違って、俺は毎日笑顔に囲まれている!
当然医科より薄給かもしれないが、現場を知らない者に偉そうに言われたくなかった。
歯科医師は医科全般を診ることが出来ない。ただし医師も、歯科医師のように口腔内を診ることが出来ないのだ。
俺は、見下されるような仕事はしていない。
僅かに反抗的な視線を向けるも、父の顔色は変わらなかった。
勝手に俺を相続人にしたあげく、一千万の借金返済を迫る瞳は常時冷たく光っている。
「ただし返済期限は十年以内だ。十年以内に私への借金と現在のローンを完済しろ。お前はどうしても成宮家から逃れたいようだが、そうはさせるか。返済が不可能なら、今すぐに口腔外科医としてうちの病院に来るんだ」
「それは……っ」
ざっと計算しただけでも五千万もの大金を、一般と小児のみを掲げている歯科医の俺がたった十年で稼げるはずがない。
父はそれを承知で無理難題を課している。
母諸とも俺のことが憎いくせに、敷いたレールから逸れてもなお手放そうとしない父の魂胆が、ようやく分かった。
彼にとってはそれっぽっちの額だが、当時の正妻が居た状況で遊びの女に金を盗まれたという事実が、父の中では許し難かったのだ。
兄弟たち同様、俺に医師を目指せと言い聞かせていたのも、憎みながらも家に住まわせていたのも、成長した俺に手っ取り早く返済させるためだった。
「よく考えるんだな。……話は終わりだ。さっさと帰れ」
回転椅子でくるりと背を向けた父は、それだけ言うと俺の存在をシャットアウトした。
その非情な後ろ姿を前に、俺の心に暗雲が立ち込め始めていた。
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