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3.名前の無い関係に5

 誰かのお下がりじゃないスマホを持つのは初めてだ。  僕はいろんな意味で契約出来る身分じゃないから、この手のことはいつも誰かに頼っていて。  今回もまさにそうなった。  りっくんは、やり手そうな携帯ショップの女性店員さんをしどろもどろにさせるくらい色んなことを質問して、疑問を解決して、僕に逐一「これでいいですか?」とお伺いを立ててきた。  いいも何も、スマホもプランも一番グレードの高いものを選ぶから、遠慮して苦笑いしてた僕はただりっくんに任せていたに過ぎない。  そうこうしてたら遊覧船の出港時間だとかで、海沿いのお散歩は後回しになった。  楽しみにしてたのは僕だけだと思ってたのに、昨日のうちにネット予約をしたというりっくんもかなりソワソワしている。ちゃんと予約が出来てるか、何回もスマホで確認してたもんな。 「こ、これがサンセットクルーズ……!」  ホントは奥さんと来たかっただろうに、りっくん提案とはいえ相手が僕でゴメンと思った。でもそんな申し訳無さは、意外と迫力のあった大きな遊覧船の外観を見てすぐに脳みその奥にしまわれた。  僕たちの他にはカップルが二組。平日だから空いてるっていうのもいい。  間もなく出港のアナウンスが流れたオープンデッキで、キラキラした水面を見ているとそれだけで言葉を失うくらいワクワクした。 「良かった。夕陽に間に合いそうですね」  少し薄暗くなってきた空を見上げたりっくんの穏やかな声が、波の音と重なる。  車内で船酔いが心配だと漏らした僕に、百点の笑顔で「大丈夫だと思いますが、気分が悪くなったらすぐに言ってください」と安心をくれた。  りっくんは何もかもが満点だ。  僕が引きこもり気味なのを見抜いて、自立の一貫と称したお出かけでりっくんは貴重な休みを潰した。これは苦い経験からしてご機嫌取りに思えなくもないけど、りっくんには今までの人達と決定的に違うところが一つある。  それは、体を求めてこないこと。  まぁ既婚者なら確実にノンケだろうし、当然か。  夕陽に向かってく船の上で、会話も無くただジッと同じ方を向いてる僕たちは、散らばった二組のカップル達よりも熱心に景色を楽しんだ。  大きな船だから、りっくんの言ってた通り揺れは少ない。出港してから一度もデッキから離れられなかった僕とりっくんは、子どもみたいに目を輝かせて、同じ場所から動けずにいた。  時期によって変わる日没の時間に合わせたサンセットクルージングの目玉、水平線に沈む太陽を目の当たりにした時は、さすがに二人して声を上げた。 「わぁ……!」 「綺麗ですね……」 「うん……っ、めちゃくちゃ綺麗! なんか……全部がギラギラしてる!」 「ふふっ、そうですね」  ついはしゃいでしまった僕だけど、りっくんも興奮してるんだってことが声色から分かった。  少しずつ海に飲み込まれていく太陽が、水平線に同じ色の影を落としている。  ホントに海に食べられてるみたいにゆっくりゆっくり沈んでいく様は、とてもじゃないけど目が離せなくて、しばらく瞬きを忘れさせた。  濃いオレンジ色の太陽は、沈み切るまでギラギラと輝いていた。あの日見上げた月のように、静かな光じゃない。最後の最後まで、もっと輝いていたいとばかりの名残惜しさを感じた。  普段気にもしたことがなかった夕陽が、こんなに幻想的なものだとは思わなかった。  毎日当たり前に繰り返される光景の美しさを、僕は見落としていたことに気付かされた。  力強い夕陽を見ながら、僕はこれまでの人生を思い返した。物悲しい月を見上げて〝最期〟を振り返ったあの時より、もっと前向きな気持ちで。 「──ねぇ、りっくん」 「はい」  感動すら覚えたクルージングのあと、りっくん提案で駐車場まで遠回りして帰ることになった。波の音を聞きながらの夜のお散歩だ。 「今日ももう一つの家に帰るんだよね?」 「そうですね」 「そっか……」  そうだよね……僕があの家に居たら帰らざるを得ないし。  住まいを提供してもらってる僕が口を出すことじゃないけど、……。 「りっくん、無理しないでね」 「心配してくれるんですか?」 「そりゃ心配だよ」  僕みたいなのを拾って囲ってるなんて、奥さんにバレたら大変なことになるでしょ。  今日のお休みだって、もし奥さんがりっくんの行動を監視してたらと思うと悠長に笑ってられなくなってきた。  僕が男だから、何か勘繰られてもまだ言い訳は効く。セカンドハウスを構えてるぐらいだし、りっくんがボロを出さない限り存在すら気付かれることはないかもしれない。  だけど……そんなに長く奥さんを騙し続けることは不可能だと思う。 「あの……僕、いつまでもりっくんに甘えてるわけにいかないから、すぐに働くとこ見つけるね。スマホも貸してもらったし、住所不定じゃないし……バイト探し頑張るよ」  潮風になびく髪をそのままに、僕は立ち止まった。  りっくんには、一日も早く僕と出会う前の生活に戻ってもらいたい。そうすればりっくんも、気兼ねなく逃げ場に帰ることが出来る。  僕の言葉がさぞ意外だったらしいりっくんはちょっとだけ驚いた顔をしたけど、たちまち満点の笑顔を浮かべてくれた。 「前向きになってくれたのなら良かったです。でも冬季くんこそ、無理しないでくださいね」 「りっくんにだけは言われたくないな」 「…………?」  軽口を叩くと首を傾げられた。  だってさ、よく考えてみてよ。  奥さんに隠れて僕と会って、散財して、なかなかお目にかかれないような綺麗な景色を見たなんて知られたら、とんでもない事になるよ。  ──りっくんも無理しないで。  命の恩人だなんて、僕自身はそんな大層なこと少しも思ってないから。 「……余韻が残りますよね」  夜空を反射した黒い海をジッと眺めていると、夕陽の余韻で黄昏れてると思ったのかりっくんが感慨深く呟いた。  そうじゃないんだけどな……と苦笑いしちゃったものの、僕は素直に頷いておく。それを見てニコッと笑ったりっくんが、前を向いて歩き出した。  隣に並ぶと、穏やかな口調で「冬季くん」と呼ばれ、ふと横顔を見上げる。 「もう少し頑張ってみるか〜、という気になりました?」 「……よく覚えてるね」 「当たり前です。でも頑張り過ぎは禁物です。程々でいいんですよ、程々で」 「うん……」  あの日の言葉を引き合いに出され、りっくんの心にそれが響いていたことを僕はこのとき初めて知った。  りっくんは何にも聞いてこない。それどころか、死のうとした理由はもちろん、対価になるはずの僕の事情を三日経っても全然詮索してこない。  金持ちの道楽だって、こんなに良くしてくれるりっくんを下げるようなことを考えてみても、すぐにそれは塗り替えられる。  りっくんはそんな人じゃない。りっくんに下心は無い。……たぶん。  何しろりっくんは、疑わせてもくれない人。

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