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5.運命のいたずらで

─ 李一 ─ ◇ ◇ ◇  世の中には、言葉では言い表せないほどツラい人生を歩んでいる人が大勢居る。  患者とスタッフの世間話を小耳に挟んだ限りでは、大概が何かに対する不満か愚痴で、その人にはその人なりの考え方や苦労があるんだなとぼんやり思うことはしばしばあった。  俺もそのうちの一人で、口に出したくなる気持ちは分からなくもない。誰かに話すことで心が楽になる場合も大いにあるからだ。  だが冬季くんの過去は、たったあれだけの情報で聞いているだけで胸がキシキシ痛むほどツラいものだった。  そして、比べ重ねるものではないのに、俺は勝手にさらなる親近感を覚えた。  はじめから冬季くんを放っておけなかったのは、〝俺なら救ってあげられる〟と心のどこかで感じていたからなのかもしれない。  寂しそうな目と、何も欲しがらない無欲さと、年齢より幼く見える無邪気な言動に少しずつ囚われていたのは事実だ。  抗いようのない無抵抗な子どもに、痛々しい痣を付けた彼の母親に強い怒りが湧いた。冬季くんの心と体の両方を傷付けた人間が、まだこの世のどこかでのうのうと生きていると思うとゾッとする。  似て非なるものだろうが、俺を精神的に殺した父親と冬季くんの母親はどこか重なるところがある。  親近感を覚えたのも、そういう事なのだ。 「──李一先生、今日の十八時半の川辺さんは抜歯濃厚ですか?」  医院の大きな窓から薄暗くなった空をぼんやり見上げていると、安達さんにカルテを手渡された。  休診日の翌日は予約が立て込む。当医院の最後の予約時間の十八時半、今日は同時刻に三人詰まっていた。  川辺さん……抜歯……。あぁ、軽度の動揺歯を固定した患者さんか。  カルテを開き、レントゲンを確認すると先週の会話や治療内容が鮮明に蘇ってくる。 「前回スーパーボンドを使用した方ですよね」 「そうです。抜歯が嫌だと仰って」 「そうでしたね。今日は動揺具合を診てみましょう。周囲のカリエス治療が済めば、残存させて様子を見る選択肢も無くはありませんので。噛むことが出来れば良いのですが」 「じゃあ麻酔と抜歯セットは準備して滅菌室に置いておきますね」 「お願いします。ひとまずユニットにはCRと、念の為スーパーボンドの準備を」 「分かりました! 抜歯は誰でも嫌なものですもんね〜」  滅菌室に向かう安達さんの台詞に、俺は大きく頷いた。  麻酔すら怖がる患者が多いなか、歯を抜くなんてもってのほかだろう。歯周病が進み、抜歯が致し方ない場合もあるが、俺は出来るだけ8020運動(八十歳になっても二十本以上自分の歯を保とうという運動)に則りたい。 「李一先生! 十八時半予約の原田さん来られました」 「検診の方ですね」 「はいっ」 「ユニットの準備が出来たらお通ししてください」  二人目の患者が来院したらしい。  みんな時間通りで助かる。 「李一先生! 十八時半予約の浅香さん来られました」 「浅香さんはインレーのセットでしたか。……デュラシールを外して患部と周辺の清掃が済んだら声掛けてください」 「はい、分かりました」  世間一般で就業終わりとなる時間、こうして患者が重なると院内は一気に慌ただしくなるが皆もう慣れたものだ。  バリアフリーの予備ユニット含めて計三台のユニットがすべて塞がり、定期検診患者への口腔清掃は衛生士の安達さんに任せ、俺は他二名の患者の施術を助手の古河さんと行う。  片付けまで含めると終業まであっという間だ。  家で待つ冬季くんがお腹を空かせているのではないかと気は急くが、仕事はおざなりに出来ない。いっそこの空間に冬季くんが居れば安心なのだが、さすがにそうもいかないもんな。  明日は午後休診。  近頃アルバイト探しに余念がない冬季くんと、美味しいものでも食べに行こうという計画を立てれば、一日の疲れなど吹っ飛んだ。 「あ、冬季くん。今仕事が終わりました。変わりありませんか?」  車に乗り込んですぐ、冬季くんに連絡を取る。彼から壮絶な過去を聞かされて以来、俺はもっと冬季くんのことを放っておけなくなっていた。  我ながら過保護だと思いつつ、ひとりぼっちで待たせている時間が心配でたまらない。  電話口の冬季くんの声色で、刹那ホッとするほどには。 『お疲れさまー! 僕なら五時間前と変わんないよー』 「そうですか。それは何よりです。外出はしていませんか?」 『してませーん。お家の中を歩き回って、ベランダで日光浴したよ』 「ふふっ……、帰ったら冬季くん、おひさまの匂いがしますかね」 『お布団じゃないよ、僕』 「あはは……っ」  「すぐに戻ります」と伝え、短い会話を終了する。俺のお願いを律儀に守り、家の中のお散歩とベランダでの日光浴で我慢してくれている冬季くんが健気で可愛い。 「……ずっと居てくれていいのに」  熱心にバイト探しをして偉いと思う反面、そんなに急いで出て行く算段を付けなくていいと思ってしまう。

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