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5.運命のいたずらで8

◇ ◇ ◇  面接を明日に控え、ドキドキが止まらない僕はなかなか寝付けなかった。  専用の白い封筒に入れて完成した履歴書を、意味もなく何回も手に取ってはニヤついてみたり。  壁に向かってお辞儀の練習をしてみたり。  喉がカサついてしゃがれた声にならないように、一日一本と決めたお茶を二本飲んでみたり。  とりあえず意気込みだけはバッチリだ。  バイトを始めてもいつも三日と保たなかった僕だけど、今回は頑張れそうな気がする……ううん、頑張りたいって強く思ってる。  リスカしなくなって心がずっと安定してるし。ネット環境が整っても、OD用の薬を検索しようとすら思わなくなったし。  こんな得体の知れない僕みたいな男を無条件でお家に置いてくれて、何でも与えてくれて、心を安定させてくれるりっくんに僕は恩返しがしたいんだ。  りっくんが喜んでくれるなら、僕は生まれ変わりたい。それから、自分で働いて稼いだお金でりっくんにプレゼントを買うんだ。それからそれから、自立するまでは何ヶ月もかかっちゃうだろうから、その間はコミュ障克服も出来たらいいなって思ってる。  この三つが、今の僕のささやかな目標。  僕は働くことが楽しみだったんだ。ほんとに。  明日はくたびれた一張羅じゃなくて、りっくんに買ってもらった服で行こうと紙袋を漁って、着てくもの一式まで準備した。  まさかこんな、とんでもない電話がくるなんて夢にも思わず、それはもうウキウキで……。 「──え!? なんでですか!?」  それは夕方、ベランダに干した少ない洗濯物を取り込んでいた時に掛かってきた。  市外局番から始まる知らない番号はすぐそこのコンビニのもので、電話口にはあの〝お兄さん〟だってこともすぐに分かったんだけど、その内容が問題だった。  名前と電話番号だけ先に伝えてたんだっけ、と呑気なことを思う前に、『申し訳ないんだけど』から始まった店長の言葉に愕然とした。 「明日の面接はナシってどういう……!」 『ごめんね。とにかく面接も、君の採用もナシってことで。この番号は破棄しとくから安心して』 「いや説明になってな……っ」 『悪いけど人手は足りてるんだ。それじゃ』  焦ったような早口で言われ、取り付く島もなくそのままガチャッと通話を切られてしまう。 「そんな……」  りっくんから借りて着回しているシャツ二枚と、アイロン前のりっくんの仕事着を抱いてトサッとソファに座り込む。  久しぶりにリスカしたい衝動に駆られちゃいそうなほど、絶望的な気持ちが心に渦巻いた。 「なんで……っ?」  視線を彷徨わせながら、希望を断ち切られたことに項垂れる。  だって、だって……っ。  じゃあなんで、「ここで働いてみる?」なんて言ったんだよ。  人が足りてるんなら声掛けないでよ。ぬか喜びさせないでよ。  僕は楽しみだった。続けられるかなって不安より、新しいことを始めるワクワク感で昨日は寝られなかった。  目的が明確だったから、それに向かって頑張る意欲に燃えていた。  毎日毎日優しくしてくれるりっくんに、僕は少しでも恩返しがしたかったんだ。〝もう少し頑張ってみるか〟って気持ちになれたんだよ。  りっくんのおかげで……! 「なんでなんだよぉ……っ」  洗濯物に顔を埋めて叫んでも、虚しくなる一方だった。  何が悔しいって、面接もしてもらえなかったことだ。  履歴書から証明写真まで一式揃えて、書き方まで教えてくれたりっくんに何て言えばいいの。  明日の面接がなくなった……なんて言えないよ。さすがのりっくんも、きっと呆れちゃう。  僕に気を遣ってキツい言葉は言わないけど、どう慰めるのが正しいのか一生懸命考えて黙り込むのがりっくんだ。  無理やりの笑顔なんか見たくない。りっくんにそんな顔させちゃいけないのに……。 「でも……っ」  いざりっくんを前にして、面接のこと隠したまま自分がいつもみたいに振る舞えるかって言ったら、それはムリだ。  面接は建て前で、すぐに採用してくれそうだってことをりっくんには伝えちゃってるから、ウソついたってあっという間にバレちゃうし……。  だったら言うしかない?  りっくんが困った顔で笑うのが分かってて、言えるの? 「……カッター……どこに置いてたっけ……」  僕は無意識に立ち上がって、フラフラとベッドルームに向かう。迷うことなく僕の一張羅の右ポケットを探って、三週間ぶりにそれを握った。  すごくすごく嫌なことがあった。どうしようもない気持ちになった。  いま僕は、不安でたまらない。  断ち切られたのは希望じゃなくて、りっくんへの恩返しの道だ。  一番笑顔でいてほしい人に、最悪な報告をしなきゃならないストレスが一気に心にのしかかっている。  りっくん……。  りっくん……。  僕って、面接さえ受けさせてもらえない社不(社会不適合者)なんだ。  生きててもしょうがないよ、こんな奴。  りっくんの迷惑にはなりたくないのに、僕は〝生きる〟を頑張ることも許されないみたい。 「りっくん……っ」  抑えきれない衝動は止まらなかった。  カッターの刃をキリキリキリ……と半分くらいまで出していく。  部屋が汚れちゃマズいから、お風呂場で切ろうと幽霊みたいに足音を立てずに歩いた。  けれどそこで、着信音が鳴る。音に驚いてふっと意識が醒めた。  時計を見上げると、十九時五分を指している。  ……りっくんだ。  スマホの画面を見なくても分かった。  ソファに置きざりにしたスマホは、僕が出るまで鳴りっぱなし。りっくんが「お昼寝は問題ないですが、俺が帰る時間まで寝ていたら叩き起こします。昼夜逆転は体によくありません」と冗談混じりに言ってたからだ。  だから渋々、カッター片手に通話に出る。  「起きてたよ」って報告と、「お疲れさま」を言うために。 『冬季くん、今終わりました。今日の夕飯はどうしましょう? 好きなものを言ってください。買って帰ります。冬季くんの食べたいものが、俺の食べたいものです。遠慮なく言ってください』 「…………っ」  りっくんの声を聞くと、なぜだか全身の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。  ……りっくん……っ! りっくん……っ!  こんな僕に、なんでそんなに優しい言葉を掛けてくれるのっ?  今から僕は、りっくんが「ダメ」って言ってたリスカをしようとしてたんだよっ?  りっくん……りっくん……っ。 「りっくん……っ」  右手に持ってたカッターを床に落として、僕は知らない間に両手でスマホを握っていた。  そして、顔をクシャクシャにして出た言葉は、……。 「何もいらないから早く帰ってきて、りっくん……っ」

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